屋上の風と、甘すぎる本命の誓い
二月十四日、バレンタインデー。
寒風が吹き抜ける二月の校舎は、朝からどこかソワソワとした特有の緊張感に包まれていた。下駄箱の隙間を覗き込む男子生徒や、放課後の予定をこそこそと話し合う女子生徒たち。
しかし、橘樹にとって、周りの喧騒などどうでもよかった。
彼の頭の中を満たしていたのは、放課後に約束された、彼女との特別な時間だけだった。
「……樹くん」
終礼が終わるとほぼ同時に、樹のスマホに短くメッセージが届いた。
『放課後、屋上の鍵を開けておいたわ。……一人で来て』(涼香)
樹は深呼吸をし、カバンを握りしめると、静まり返った階段を上り始めた。
最上階の重い鉄扉を押して外へ出ると、そこには夕焼け空を背景に、風に美しい黒髪をなびかせる夏目涼香の姿があった。
キャメル色のコートに、クリスマスに樹がプレゼントした白いカシミヤのマフラーをキュッと巻いている。
「涼香……」
「……来たわね、樹くん」
涼香は振り返ると、どこか照れくさそうに、けれど真剣な眼差しで樹を見つめた。
普段の『氷山姫』としての隙のない佇まい。しかし、マフラーに顔を少しうずめたその頬は、夕日よりも赤く染まっていた。
「寒くないですか? 室内でもよかったのに……」
「ううん。ここなら……誰の目も気にせず、あなたと私だけの時間になれるでしょう?」
涼香はコートのポケットから、大切そうに抱えていた紺色の綺麗なリボンで結ばれた小箱を取り出した。
「……はい。これ」
両手で差し出された箱。
前日、家政科教室で必死に練習していたあの手作りチョコレートだ。
「涼香……ありがとうございます」
「……まだお礼は早いわよ。開けて……食べてみるまで、安心できないんだから」
涼香の指先がほんの少し震えている。完璧主義の彼女が、たった一つのチョコレートのためにここまで緊張している。その一途さが、樹の胸を強く打ち叩いた。
樹は慎重にリボンを解き、箱のフタを開けた。
そこに並んでいたのは、綺麗にココアパウダーがまぶされた、ツヤのある上品なトリュフチョコレートだった。形は少し歪な部分もあるが、一粒一粒にどれほどの時間と愛が込められているか、樹には痛いほど伝わってきた。
「一つ……いただいてもいいですか?」
「ええ……どうぞ」
涼香はゴクリと唾を飲み込み、樹の指先を凝視した。
樹が一粒摘まみ、口の中へと運ぶ。
パキッという微かな音とともに、濃厚でなめらかな生チョコが口いっぱいに広がっていく。
芳醇なカカオの香りと、隠し味に入されたほんのり甘いミルクの風味。そして何より、彼女が樹のためだけに時間を使い、想いを込めて作ってくれたという記憶そのものが、どんな高級店のショコラをも遥かに凌駕する甘さとなって心に染み渡った。
「……どう……かしら?」
不安そうに上目遣いで尋ねてくる涼香。
「……美味いです。……泣きそうになるくらい、美味しいです、涼香」
樹が心からの言葉を口にすると、涼香は「ふぅ……」と大きく安堵の息を漏らし、そのまま目元を熱く湿らせた。
「……よかった……。何度も失敗して……夜遅くまで試作して……本当に良かったわ……」
「涼香……僕のために、そんなに……」
「当たり前でしょう……!」
涼香は一歩踏み出し、樹の胸元へと飛び込んできた。
カシミヤのマフラー越しに伝わる彼女の體溫と、甘いチョコレートの香り。
「義理でも、義理チョコの延長でもないの……。これは……世界で一番大好きな、私の特別な人にあげる……本命のチョコなんだから……!」
風が強く吹き抜け、二人の髪を揺らす。
樹は迷うことなく涼香の細い肩を抱きしめ、彼女の頭を優しく撫でた。
「知ってます。……涼香の気持ち、全部届いてますよ」
「……樹くん……」
「僕にとっても、涼香は世界でたった一人の……かけがえのない彼女です」
涼香は胸元で小さく頷くと、ゆっくりと顔を上げた。
琥珀色の瞳には、溢れんばかりの情愛と、少しの甘えが宿っていた。
「……チョコのお返し……今すぐ欲しいわ」
「え? ホワイトデーじゃなくてですか?」
「……ホワイトデーはホワイトデーでいただくわ。いま欲しいのは……甘い余韻を上書きする……あなたのキスよ」
ストレートで可憐なおねだり。
樹の心臓がどくんと高鳴る。
樹は微笑むと、涼香の濡れた瞳をまっすぐに見つめ、そっと彼女の頬を両手で包み込んだ。
「……僕でよければ、いくらでも」
重ね合わされる唇。
寒空の屋上で、二人の温かい吐息と甘いチョコの余韻が混ざり合う。
一度離れた唇が、どちらからともなく再び引き寄せられ、角度を変えて何度も何度も深く重ねられた。
放課後の一角、誰も来ない二人だけの世界で、世界で一番甘い誓いが交わされた。
それからしばらく、二人は屋上のベンチに身を寄せ合って座っていた。
涼香は樹の腕にぴったりと自分の腕を絡め、彼の肩に頭を預けている。
「……ねえ、樹くん」
「はい、涼香」
「もうすぐ……三月ね」
涼香の声に、少しだけ静かなトーンが混ざる。
「三月が終われば……私は三年生になって、本格的に受験期に入るわ。生徒会の引退も近づくし……今みたいに毎日、のんびり放課後を過ごすことも難しくなるかもしれない」
月日の流れは等しく進む。
先輩と後輩という関係で始まった二人にとって、『涼香の卒業』という壁は、避けては通れない未来だった。
樹は絡められた彼女の手を、少し強めに握り返した。
「不安ですか?」
「……少しね。あなたと離れる時間が増えると思うと……寂しくて耐えられなくなりそう」
強がりな『氷山姫』が見せる、弱音。
樹は彼女の頭に自分の頬を寄せ、静かに、けれど揺るぎない声で語りかけた。
「涼香。僕を信じてください」
「樹くん……?」
「涼香が受験で忙しくなったら、僕が図書館で一緒に勉強を付き合います。生徒会を引退しても、僕が涼香の部屋に行きます。……どれだけ環境が変わっても、僕が涼香を想う気持ちは絶対に変わりません」
樹は涼香の目を見つめ直し、まっすぐに告げた。
「涼香が三年生になって進路のために走るなら、僕は全力でその背中を支えます。だから……寂しがらないでください。僕たちは、ずっと一緒です」
樹の言葉を聞いた涼香は、一瞬驚いたように目を丸くし、それから……これまでで一番美しく、柔らかな笑みを浮かべた。
「……ふふ。ほんとうに……頼もしくなったわね、私の彼氏は」
涼香は樹の首元に抱きつき、彼の耳元で優しく囁いた。
「ええ、信じるわ。……あなたとなら、受験も、これからの未来も……全部乗り越えられる」
夕陽が二人を優しく包み込み、長くなった影がひとつに重なり合う。
バレンタインの甘い誓いを胸に、二人は確かに次のステップへと歩み出していた。




