京都の秋風と、真夜中の自撮り
十一月半ば、聖華高校の校庭に植えられた銀杏の木々が鮮やかな黄色に染まる頃。
二年級の秋のメインイベントである、三泊四日の京都・奈良への修学旅行が始まった。
「……はぁ……」
放課後の第一特別教室。
橘樹は誰もいない静かな教室の窓辺に立ち、一人で大きな溜め息をついていた。
いつもなら、この場所か生徒会室で涼香と待ち合わせをし、他人の目を盗んで甘い時間を過ごしていた時間帯だ。しかし、いま彼女は数百キロも離れた関西の地にいる。
(まだ初日なのに……こんなに寂しいなんて)
校内を見渡しても、すれ違うのは一年生と三年生ばかり。『氷山姫』の凛とした佇まいも、甘い白茶の香りもどこにもない。
樹はポケットからスマホを取り出し、画面を見つめた。
その時――メッセージアプリの通知音がポロンと鳴った。
『京都に着いたわ。いまはバスで清水寺に向かっているところよ』(涼香)
間髪入れずに、一枚の写真が送られてきた。
そこには、朱色の美しい建造物を背景に、制服姿で少し照れくさそうにカメラを見つめる涼香の姿が写っていた。
普段学校では見せない、ほんの少し緩んだ柔らかな表情。
『樹くん不足で、もう限界になりそうだけど……なんとか耐えているわ』(涼香)
画面越しに伝わってくる涼香の愛おしさに、樹の胸がギュッと締め付けられた。
『写真ありがとうございます、涼香。すごく綺麗です。僕も、学校で涼香ロスになって死にそうです』(樹)
『……バカ。ロスで死なないでよ。帰ったらたくさん甘えさせてあげるんだから』(涼香)
文字だけのやり取りなのに、まるで隣で彼女が照れながら呟いている姿が目に浮かぶようだった。
その夜、京都の老舗旅館。
女子部屋の賑やかな喧騒から少し離れ、涼香は廊下の端にある縁側に一人でぽつんと座っていた。
「ねえねえ、涼香! 一緒に恋おみくじ引きに行こうよー!」
「ごめんなさい、みんな。私、少し長距離移動で疲れちゃったから……お部屋で休んでいるわ」
クラスメイトたちの誘いをいつもの完璧な微笑みで辞退し、涼香はスマホを両手でギュッと握りしめた。
周りの女子たちが「京都で素敵な男の人と出会えないかな〜」と盛り上がっている中、涼香の頭の中は一刻も早く樹の声を聞くことでいっぱいだったのだ。
時計の針が夜の十時を回った頃。消灯時間を前に、涼香はそっと旅館の庭園が見える階段の踊り場へと移動し、樹に発信ボタンを押した。
プルル……ガチャ。
『……もしもし、涼香?』
スピーカーから聞こえてきた、大好きな彼の少し低くて優しい声。
その瞬間、涼香の目頭が熱くなり、胸の奥から甘い感情が溢れ出してきた。
「……樹くん……っ」
『涼香? どうしたんですか? 体調でも壊しましたか?』
「ううん……違うの。……ただ、あなたの声を聞いたら……急に我慢できなくなっちゃって……」
涼香は膝を抱え込み、スマホに耳を強く押し当てた。
「……寂しいわ、樹くん。みんなで観光していても、綺麗な景色を見ても……『あ、これ樹くんに見せてあげたいな』『樹くんと一緒に歩きたいな』って……そればかり考えちゃって……全然集中できないの」
学校では誰も寄せ付けない氷山姫が、京都の夜の暗闇の中で、消え入りそうな声で寂しさを訴えている。
『……僕もですよ、涼香。今日一日、学校がすごく広く感じました。涼香のいない放課後なんて、全然楽しくないです』
「ふふ……お互い様ね。……ねえ、樹くん」
『はい?』
「……写真、送ったでしょう? 見てくれた?」
『はい! すごく可愛くて、スマホの壁紙にしちゃいました』
「〜っ! か、壁紙だなんて恥ずかしいわよ……! でも……」
涼香は真っ赤になった顔を隠しながら、続けた。
「……特別な自撮り、もう一枚送るわね。……他の人には絶対見せちゃダメなんだから」
通話を繋いだまま、涼香から新しい画像が送られてきた。
スマホを開いた樹は、思わず息をのんだ。
そこに写っていたのは――旅館の白い浴衣を纏い、お風呂上がりで少し濡れた黒髪を肩に散らした涼香だった。
ほんのり赤らんだ頬と、潤んだ琥珀色の瞳。布団の上で上目遣いにカメラを見つめるその姿は、あまりにも艶やかで、直視できないほど可憐だった。
『……っ!? り、涼香……っ! これ、刺激が強すぎます……!』
「……ふふ、どうかしら? 京都限定の……彼女からの特別プレゼントよ」
電話越しに聞こえる、涼香の悪戯っぽくも甘い囁き。
「……これで、私のこと……もっと夢中になりなさい」
『もう十分すぎるくらい夢中ですよ……! 早く帰ってきてくれないと、僕の理性が保ちません』
「ふふ……楽しみにしていてね。明後日、ちゃんと帰るから……」
夜の静寂の中、電話越しに交わされる二人の秘密の会話。
離れているからこそ、互いを想う気持ちはより一層強く、熱く深まっていく。
「……樹くん」
『はい』
「……大好きよ。おやすみなさい」
『僕も大好きです、涼香。おやすみなさい』
小さなリップ音とともに通話が切れ、樹は一人、赤くなった顔をベッドの枕にうずめた。
離れて過ごす夜が、二人の絆をさらに確かなものへと変えていく。
そして、京都の旅先で涼香が密かに準備している「樹への最高のお土産サプライズ」の瞬間が、刻一刻と近づいていたのだった。




