祭りの後の静けさと、秘密の部屋着
大盛況のうちに幕を閉じた『青楓祭』から、数日が過ぎた週末の夕方。
橘樹は、いつもとは少し違う緊張感を抱えながら、涼香のマンションの部屋の前に立っていた。
普段なら、隣同士のベランダ越しに言葉を交わしたり、樹の部屋で夕飯を食べたりすることが多かった二人。しかし今日は、涼香から直接「うちの部屋に来てほしい」と招待されていたのだ。
ポーン、とインターホンを押すと、すぐにカチャリとドアが開いた。
「……いらっしゃい、樹くん」
出迎えてくれた涼香の姿に、樹は思わず息をのんだ。
そこにいたのは、学校での『氷山姫』の威嚴も、文化祭でのゴスロリドレスの華やかさもない――完全に無防備な「休日の涼香」だった。
ダボッとした大きめの薄ピンク色のスウェットに、ショートパンツ。腰まであった黒髪はゆるくお団子にまとめられ、うなじが白く覗いている。素足にモコモコのスリッパを履き、メイクも落としたすっぴんの素顔。
「……な、なにを呆然と立っているのよ。早く上がりなさい」
「あ、はい……失礼します……!」
樹が靴を脱いで上がると、部屋の中からはほのかに、涼香と同じ甘い白茶の香りが漂っていた。
一人暮らしとは思えないほど整理整頓された綺麗なリビング。だが、ソファーの上には大きなクッションがいくつも転がっており、生活感がどこか愛おしく感じられた。
「……はい、麦茶でいいかしら?」
「あ、ありがとうございます」
ソファーに並んで腰掛けると、涼香は「ふぅ……」と深いため息をつき、そのまま樹の肩へとこてんと頭を預けてきた。
「涼香……?」
「……文化祭の片付けと生徒会の報告書が、今日やっと終わったの。……もう、全身の力が抜けちゃって……」
樹の肩に顔をすり寄せ、疲れたように瞳を細める涼香。
大きめのスウェットの袖からちょこんと出た細い手が、樹の制服の裾をぎゅっと掴んできた。
「……樹くんの匂い、落ち着くわ……」
「涼香……お疲れ様でした。本当に頑張りましたね」
樹が優しく彼女の頭を撫でてやると、涼香は「ん……」と気持ち良さそうに喉を鳴らした。
学校では誰も立ち入れない高嶺の花。けれど、自分の部屋という世界で一番安全な場所でだけ見せる、この甘えん坊で無防備な姿。
(可愛すぎる……。このギャップに勝てる男なんて、世界中にいるわけない……)
「ねえ、樹くん」
「はい?」
「今日ね……晩ご飯、私が作るわ」
「えっ!? 涼香がですか?」
樹が驚いて声を上げると、涼香は照れ隠しにツンと頬を膨らませた。
「なによその反応。私だって、簡単な料理くらいできるわよ! いつもあなたに作ってもらってばかりだから……今日は文化祭のお礼に、私が振る舞いたいの」
「……すごく楽しみです。お手伝いしましょうか?」
「ダメよ。あなたはここで座って、休んでいなさい!」
そう言い捨てて、意気揚々とキッチンへと向かう涼香。
樹はソファーから、エプロン姿(スウェットの上からフリルのエプロンを着けた、破壊力抜群の姿)で奮闘する彼女の背中を、微笑ましく見守っていた。
三十分後。
「できたわ! ……名付けて『夏目特製・和風ハンバーグ』よ!」
テーブルに並べられたのは、少し形は歪だが、こんがりと香ばしい匂いを漂わせるハンバーグと、みそ汁、そして色とりどりの副菜だった。
「いただきます!」
樹がフォークでハンバーグを一口分切り分け、口に運ぶ。
「……! 美味しい……! 涼香、めちゃくちゃ美味しいです!」
「ふ、ふん……あたり前でしょう。レシピ通りに作れば失敗なんてしないわ」
ツンと澄ましてみせる涼香だったが、テーブルの下で素足のつま先を嬉しそうにパタパタと揺らしていた。
「……本当はね、あなたに『美味しい』って言ってもらえるか、すごく緊張していたの」
「すごくジューシーで、タレの味付けも最高ですよ。毎日でも食べたいくらいです」
「~っ! ま、毎日だなんて……! それって、まるでプロポーズじゃない……!」
樹の無自覚な言葉に、涼香は真っ赤になって顔を隠してしまった。
夕飯を終え、二人で協力して皿洗いを済ませた後。
外はすっかり夜の闇に包まれ、静かな時間が流れていた。
「……ねえ、樹くん」
お風呂上がりでほんのり湯気とシャンプーの香りを漂わせた涼香が、ソファーでくつろぐ樹の隣に滑り込んできた。
「はい、涼香」
「……今日、泊まっていかない?」
「っ……!??!?」
樹の心臓が、跳ね上がるどころの騒ぎではなく破裂しそうになった。
「と、泊まるって……!? で、でも、僕の部屋はすぐ隣ですし……」
「隣だからいいのよ。着替えだってすぐ取りに行けるでしょう?」
涼香は琥珀色の瞳をウルウルと潤ませ、樹の腕に自分の腕を絡め合ってきた。
スウェット越しでもわかる柔らかい感触と、お風呂上がりの甘い香りが樹の理性を激しく揺さぶる。
「……文化祭が終わったら、急に寂しくなっちゃったの。夜、一人でベッドに入ると……あなたのことを思い出して、胸がキュッて痛くなるの」
「涼香……」
「だめ……かしら? 私のわがまま……」
上目遣いで、消え入りそうな声でねだる彼女。
断れる男など、この世に存在するはずがない。
「……だめなわけ、ないです。……着替え、取ってきますね」
「……ふふ、ありがとう。待ってるわ」
涼香は心底嬉しそうに、とびきり甘い笑顔を咲かせたのだった。
樹が自分の部屋からパジャマを持って戻ってきた頃には、部屋の明かりは間接照明だけになり、薄暗くロマンチックな雰囲気に包まれていた。
涼香の大きなダブルベッドの上。
二人で並んで掛け布団に入ると、お互いの体温がダイレクトに伝わってきた。
「……樹くん」
「はい」
「手……繋いでいい?」
「うん」
布団の中で、そっと指と指を絡め合わせる。
涼香の細く柔らかい手が、樹の手を握り返してきた。
「……昔はね、この部屋がすごく広く感じて……暗闇が怖かったの」
涼香は樹の胸元へと体をすり寄せ、顔をうずめてきた。
「でも今、こうやって樹くんが隣にいてくれて……すごく温かくて、幸せ……」
「僕もです。涼香の隣にいられて、すごく幸せですよ」
樹は繋いでいない方の腕で、涼香の華奢な体をそっと抱きしめた。
暗闇の中、ふたりの鼓動が優しく重なり合っていく。
「……ねえ、樹くん。来月……二年生は修学旅行があるの」
「あ、京都でしたっけ」
「ええ。数日間……あなたと会えなくなるわ」
涼香は少し寂しそうに眉をひそめ、樹の胸元をぎゅっと掴んだ。
「だから……旅行に行く前に、いっぱい……私を充電させてね」
「……はい。いくらでも、充電してください」
樹が優しく囁くと、涼香は自ら少し背伸びをして、樹の唇にそっと自分の唇を重ねた。
おやすみの、甘くて深いキス。
静かな夜の部屋で、二人の心と体は、今まで以上に深く、解けない結び目で結ばれていくのだった。




