昨夜の余韻と、文化祭の予感
昨日の放課後、旧校舎の暗い器材準備室で交わした――本物のキス。
その唇の柔らかさと、甘い感触が脳裏から離れず、橘樹は一瞬もまともに眠れないまま朝を迎えていた。
(……やばい、完全にパニックだ)
登校風景の中、樹は寝不足の頭を抱えながら校門をくぐった。
靴箱で上履きに履き替えようとしたその時――
カツ、カツと澄んだ足音が近づいてきた。
「……おはよう、橘くん」
涼香だった。
いつものように背筋を伸ばし、整った制服に身を包んだ『氷山姫』の立ち姿。
「っ……! な、夏目先輩! おはようございます!」
樹が跳ね起きるように挨拶すると、涼香は足を止め、すっと樹の顔を見つめた。
しかし――その琥珀色の瞳は微かに揺れており、彼女の白い耳たぶは熟したイチゴのように真っ赤に染まっていた。
「……昨日は、ちゃんと帰れたかしら?」
「え、ええ! 先生がいなくなった後、すぐに帰りました! 先輩は……?」
「私も……無事に帰れたわ。……じゃあ、失礼するわね」
それだけの会話。時間にしてわずか十秒。
だが、涼香が通り過ぎる際、一瞬だけ視線を泳がせ、自分の唇を細い指先でそっと触れる仕草を見せた。
(っ……!? 昨日のキス、意識しすぎて壊れそうになってるの、俺だけじゃない……!)
涼香のツンとした態度の裏にある超絶級の照れに気づいた樹は、胸が熱くなりすぎて靴箱の前で悶絶しそうになった。
ホームルームが始まると、担任の先生が黒板に大きく『文化祭(青楓祭)について』と書き出した。
「さて、毎年恒例の青楓祭が来月開催される。我が一学年からは、各クラス二人ずつ文化祭執行委員を選出することになっている。立候補者はいるか?」
教室がざわめく中、樹は特に目立つ気もなく静観していたが、友人の友樹がニヤニヤしながら手を挙げた。
「先生ー! 橘がやりたいって言ってまーす!」
「おい友樹!?」
「よし、橘! お前は真面目だから助かるぞ。じゃあもう一人は女子の委員長で……」
半ば強制的に、樹は一年一組の文化祭執行委員に決定してしまった。
(マジかよ……面倒なことになったな……)
そう思いながら溜め息をついた樹だったが、その日の放課後、事態は思わぬ方向へと転がる。
「文化祭執行委員の第一回全体会議を始めるわ」
生徒会室と繋がる大会議室。
各クラスから集まった委員たちの前に立っていたのは――生徒会幹部として集会を仕切る、夏目涼香その人だった。
教壇に立つ涼香は、凛とした声で文化祭のスケジュールや予算案について説明を進めていく。その無駄のない洗練された佇まいに、周囲の委員たちは息をのんで見惚れていた。
(やっぱり、すごくかっこいいな……)
樹が一番後ろの席から誇らしい気持ちで見つめていると、説明を一通り終えた涼香が資料を整えながら告げた。
「全体への説明は以上よ。……それから、一年生のクラス展示の統括担当だけど」
涼香は書類から目を上げ、会議室を見渡した。そして、樹とバッチリ目が合った。
「一年の展示統括は、私が直接担当するわ。一年一組の執行委員……橘くん」
「っ……! はい!」
突然名前を呼ばれ、樹は慌てて立ち上がった。
「あなたには一年のとりまとめとして、放課後、生徒会室で私と打ち合わせをしてもらうわ。……異論はないかしら?」
「は、はい! よろしくお願いします!」
周りの男子生徒たちから「うらやましい……」「あの夏目先輩と直接仕事かよ」と嫉妬混じりの視線が樹に突き刺さる。
だが、教壇の上の涼香をよく見ると――
彼女は手元の資料で口元を隠しながら、樹に向かってフッと満足そうに、悪戯っぽい笑みを浮かべていたのだった。
(……職権濫用だ、涼香先輩……!)
全体会議が終わり、他の委員たちが解散した後の生徒会室。
カチャリとドアの鍵が閉められると同時に、凛としていた涼香の雰囲気がガラリと変わった。
「ふぅ……疲れたわ」
涼香は胸の前で両腕を伸ばして深呼吸をすると、一直線に樹のもとへと歩み寄ってきた。
「り、涼香……?」
樹が声をかける暇もなく、涼香はそっと樹の制服の裾をぎゅっと掴み、上目遣いで見つめてきた。
「……昨日の今日で、あなたの顔を見るの……すごく緊張したんだから」
「僕もですよ。靴箱の時、心臓が破裂するかと思いました」
「……バカ。私のせいみたいに言わないでよ」
涼香は照れ隠しに小さく唇を尖らせたが、掴んだ裾を離そうとはしなかった。
「でも……これで『名正言順』ね」
「え?」
「放課後、こうやってあなたと二人きりで会う理由ができたでしょう? 『生徒会と文化祭委員の打ち合わせ』っていう、完璧な口実が」
涼香はクスッと可愛らしく微笑むと、樹の手に自分の手を重ねて指を絡め合わせた。
「……昨日のキス、夢じゃなかったのよね?」
「夢なわけないです。……僕、ずっと涼香の唇の感触が頭から離れなくて、眠れませんでした」
「~っ! だ、誰もそこまで詳しく言えなんて言ってないわよ!」
樹の素直すぎる追撃に、涼香は真っ赤になって樹の胸をポカポカと叩いた。
しかし、その顔は心底幸せそうに綻んでいた。
「……文化祭、楽しみね。あなたと一緒に準備ができるなんて」
「はい。クラスの展示も頑張りますけど……涼香の手伝いも全力でやります」
「ええ、頼りにしているわ。……私の自慢の、恋人さん」
夕陽が差し込む生徒会室で、二人は繋いだ手をギュッと握りしめた。
校内での「他人のフリ」から、一歩進んだ「秘密の協力関係」。
二人の甘い恋の舞台は、賑やかな文化祭の準備とともに、さらなる盛り上がりを見せていくのだった。




