開かない鍵と、密室の吐息
旧校舎の三階、第二特別教室。
オレンジ色の夕暮れが部屋を染める中、涼香の膝枕と甘いおでこへのキスに浸っていた樹は、夢のような時間に微睡んでいた。
「……そろそろ起きなさい、樹くん。完全に見下校時刻になってしまうわ」
涼香が愛おしそうに樹の頬を突っつきながら、優しく囁く。
「……あと五分だけ、こうさせてください」
「甘えん坊さんね……。ふふ、仕方ないわね」
涼香は困ったように笑いながらも、樹の髪を撫で続ける手を止めなかった。
誰もいない特別教室。二人だけの甘い空気。
――その平穏は、突然破られた。
ガチャリ。
「……? 誰かいるのか?」
廊下から、重厚な男性教諭の足音とドアノブを回そうとする音が聞こえた。学年主任の小林先生の声だ。
「っ……!?」
樹と涼香の身体が同時に強張る。
小林先生は校内巡回に厳しく、もしここで『氷山姫』と一年生男子が施錠された教室で二人きりでいたことがバレたら、一発で大問題になってしまう。
「……おい、鍵がかかっているぞ。予備の鍵で開けるか……」
ジャラジャラと鍵束の音がドアのすぐ向こうで響く。
(ヤバい……! 逃げ場がない……!)
樹がパニックになりかけたその瞬間――涼香が素早く樹の腕を引っ張った。
「こっちよ……!」
涼香は無音で樹を導き、教室の奥にある小さな「器材準備室」の木製扉を押し開けた。
二人が滑り込んだ直後、カチャリと準備室の扉を閉める。
直後、特別教室のドアがガラガラと開く音が響いた。
「ん……誰もいないのか? 鍵の閉め忘れか……」
暗く、狭い器材準備室の中。
そこは清掃用具や古い跳び箱が押し込まれた、人間二人で限界の極小スペースだった。
(っ……あたたかい……)
樹の背中は準備室の壁に押し付けられ、そのすぐ目の前には――涼香の身体が完全に密着していた。
暗闇の中で、二人の胸と胸がぴったりと重なり合っている。
涼香の華奢な肩、柔らかい胸元、そしてお互いの太ももが隙間なく絡み合っていた。
「……ん……っ」
涼香が小さく息をのむ音が、樹の耳元で響く。
外に声が漏れないよう、涼香は自分の両手で樹の口元をそっと覆い、自分は樹の胸元に顔をうずめていた。
(近すぎる……! 息が……できない……!)
シフォンのブラウス越しに伝わる涼香の体温。
首元から漂う甘い白茶の香りと、彼女の柔らかな髪が樹の鼻先をかすめる。
トン、トン、トン、トン……。
樹の胸の奥で、猛烈な勢いで拍動する心臓の音。
そして、重なり合った涼香の胸からも、まったく同じ速さで打ち鳴らされる激しい鼓動が伝わってきた。
(涼香も……めちゃくちゃ緊張してる……!)
暗闇に目が慣れてくると、至近距離にある涼香の顔が見えてきた。
彼女は琥珀色の瞳を濡らし、上目遣いで樹を見つめている。その頬は、夕暮れの赤さなど比較にならないほど真っ赤に染まり、呼吸が浅く乱れていた。
外の特別教室では、小林先生の足音がゆっくりと歩き回っている。
「うむ……誰もいないな。窓の鍵は閉まっているか……」
コツ、コツと足音が準備室の扉の前で止まった。
ヒッ……!
涼香の身体がビクッと跳ね上がり、反射的に樹の制服のシャツを強く握りしめてきた。
緊張感が頂点に達する。
もし、この扉が開かれたら――。
密着した状態で押し込まれている二人の姿が見つかってしまう。
樹は覆われていた涼香の手の上に自分の手を重ね、彼女の細い腰をそっと抱き寄せた。
「大丈夫だ」と伝えるように、力を込めて。
涼香は瞳を大きく見開いたが、逃げることなく、樹の首元に両腕を回して抱きつき返してきた。
ゼロ距離での抱擁。
二人の吐息が交差し、互いの唇が触れ合いそうなほど接近する。
涼香が恥ずかしそうに目を閉じ、樹の胸に額を押し当てた。
小さく震える彼女の唇から、熱い吐息が樹の首筋に吹きかかる。
(……やばい。先生が見つける前に、俺の理性が吹き飛ぶ……!)
一秒が永遠のように感じられる沈黙。
やがて――
「よし、施錠して戻るか」
ガラガラ、カチャリ。
特別教室のドアが閉まり、鍵がかけられる音が響いた。
足音が遠ざかり、旧校舎は再び静寂に包まれた。
「……ふぅ……言ったわね……」
涼香が樹の胸元から顔を上げ、安堵の溜め息を漏らした。
しかし、二人はまだ狭い準備室の中で密着したままだった。
「……涼香、もう大丈夫ですよ」
「え、ええ……そうね……」
そう言いながらも、涼香は樹の首に回した腕を解こうとしなかった。
暗闇の中、琥珀色の瞳がトロンと甘く揺れている。
「……ねえ、樹くん」
「はい?」
「……心臓、すごい音しているわよ」
「それは……涼香が可愛すぎるからですよ。密着しすぎて、どうにかなりそうでした」
「ふふ……私だけじゃなかったのね」
涼香は嬉しそうに微笑むと、自分の額を樹の額にこてんと重ねた。
「私ね……先生に見つかるかもしれないって恐怖より……あなたとこんなに近くにいるドキドキの方が、何倍も大きかったわ」
「涼香……」
「……バカ。こんなにドキドキさせといて……責任取りなさいよ」
甘くねだるような、反則級のおねだり。
涼香は自ら少しだけ背伸びをし、樹の唇に……そっと自分の唇を重ねた。
チュッ……。
暗い準備室の中で響いた、小さく甘い水音。
ほんの数秒間の、けれど二人にとっては世界で一番濃密な初キス(おでこや頬ではない、本物のキス)。
唇が離れると、涼香は真っ赤になって樹の胸に顔をうずめた。
「〜〜〜っ! い、いまのは……! 先生がいなくなったお祝いよ! 深い意味はないんだからね!」
「……足が腰抜けてますよ、涼香」
「うるさいわね! バカ橘!」
鍵の開かない準備室の暗闇で、二人はしばらくの間、赤くなった顔を隠すように抱き合い続けた。
危機を乗り越えた後の甘い密会。
ふたりの『秘密の校内恋愛』は、もう誰にも止められないほど熱く深まっていた。




