新学期のチャイムと、特別教室の密会
長いようで短かった夏休みが明け、聖華高校に再び生徒たちの賑やかな声が戻ってきた。
始業式が終わり、放課後のチャイムが校内に鳴り響く。
「あーあ、夏休み終わっちゃったなー。橘、お前夏休み何してた?」
教室でカバンに教科書を詰めていた橘樹に、友人の友樹がだるそうに声をかけてきた。
「俺? 部活と……あとは家で宿題したり、ゲームしたりかな」
「相変わらず地味な休日だな。俺なんてさー……」
友樹の雑談に適当な相槌を打ちながら、樹はポケットの中で小さなキーホルダーの感触を確かめていた。水族館で涼香とお揃いで買った、あのペアのペンギンキーホルダーだ。
(……地味な休日どころか、人生で一番甘い夏休みだったなんて、絶対言えないな)
ふと廊下のほうがざわつき始めた。
洗練された足音とともに、校内屈指の有名人――『氷山姫』こと夏目涼香が通りかかったのだ。
すっきりと着こなした夏服の制服。背筋を伸ばし、誰も寄せ付けない冷徹で美しく完璧なオーラ。
クラスの男子たちがうっとりと視線を送る中、涼香は前を見据えたまま静かに歩いていく。
そして、樹の教室の前を通り過ぎるほんの極小の瞬間――
涼香は誰にも気づかれない絶妙な角度で、樹に向かって琥珀色の瞳を走らせ、ほんの少しだけ口角を上げた。
(っ……!)
樹の心臓が不意打ちで跳ね上がった。
夏休みを経て、彼女の「秘密の合図」はより自然に、そしてより甘さを増していた。
『放課後、旧校舎三階の第二特別教室で待ってるわ』(涼香)
スマホに届いた短いメッセージ。
樹は友人に「部活の用事がある」と適当な理由を告げ、早足で教室を飛び出した。
旧校舎の三階。
普段は使われていない物置同然の『第二特別教室』。
夕暮れのオレンジ色の光が差し込む静まり返った部屋のドアを、樹は周囲に人がいないことを確認してからそっと開けた。
「涼香――」
言いかけた瞬間、急に腕を強く引っ張られた。
「うわっ!?」
ガラタッとドアが閉められ、カチャリと鍵がかけられる。
樹が体勢を直す間もなく、柔らかい体温と、甘い白茶の香りが全身を包み込んだ。
「……遅いわよ、樹くん」
涼香が樹の胸元に顔をうずめ、背中に細い両腕を回して抱きついていたのだ。
「り、涼香……!?」
「いいから……静かに抱きしめ返しなさい。一日中、学校で『他人のフリ』をしていて……我慢の限界だったんだから」
涼香の声は小さく震えており、樹の制服のシャツをぎゅっと握りしめていた。
さっきまで廊下で誰の接近も許さなかった高嶺の花が、いまは自分に抱きついて甘えている。そのギャップの破壊力に、樹の頭はクラクラした。
「……すみません。お待たせしました、涼香」
樹は優しく微笑み、彼女の華奢な背中に腕を回して力強く抱き返した。
ふわっと漂う髪の香りと、彼女の激しい鼓動がダイレクトに伝わってくる。
「……ん……ふぅ……」
涼香は安堵したように小さな息を吐き、樹の胸元に額をすり寄せた。
「……学校であなたの顔を見ているのに、話しかけられないのって……思っていたより何倍も生殺しね」
「僕もですよ。クラスの男子が『今日も夏目先輩は美しいな』とか言ってるのを聞くたびに、優越感とソワソワした気持ちで大変でした」
「ふふ……優越感?」
涼香は顔を上げ、琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「そうよ。あの男子たちが憧れている『氷山姫』はね……いま、こうやってあなたに抱きついて、甘えているのよ」
「~っ! 自分で言わないでください、心臓に悪いです……!」
真っ赤になる樹を見て、涼香は満足そうにクスッと笑った。
二人は教室の奥にある古びたソファに並んで腰掛けた。
窓からは夕暮れの街並みが見渡せ、遠くで運動部の声が聞こえてくる。二人だけの秘密の空間。
「……ねえ、樹くん」
涼香がふと自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「なにですか?」
「……ひざまくら、してあげるわ」
「えっ!?」
「えっ、じゃないわよ。夏休みの課題と部活で疲れているでしょう? 特別なサービスなんだから、早く横になりなさい」
照れ隠しにツンと顎を上げる涼香。
樹はゴクリと唾を飲み込んだ。断る理由など万に一つもない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
樹はそっと頭を下げ、涼香の太ももの上に頭を乗せた。
柔らかい感触と、温かい体温。
見上げると、夕日に照らされた涼香の綺麗な顔が真上から自分を見下ろしていた。
「……どうかしら? 気持ちいい?」
涼香の手が、優しく樹の髪を撫でていく。指先が頭皮を滑るたびに、全身の力が抜けていくような心地よさに包まれた。
「……最高です。もうここから動きたくないです」
「ふふ、ダメよ。ちゃんと家に帰ってご飯を食べなきゃ」
涼香は愛おしそうに樹の前髪を整え、そのおでこに……そっと自分の唇を寄せた。
チュッ。
「……っ!?」
樹は跳ね起きそうになったが、涼香の手によって頭を優しく押さえつけられた。
「ご褒美よ。今日一日、ちゃんと『他人のフリ』の約束を守れた……お利口さんな樹くんへのね」
そう言う涼香の頬は熟したイチゴのように真っ赤で、琥珀色の瞳はトロリと甘く潤んでいた。
「……涼香、反則すぎます」
「反則じゃないわ。彼女としての権利行使よ」
涼香は恥ずかしそうに視線を逸らしたが、樹の髪を撫でる手は止めなかった。
チャイムが遠くで鳴り響き、放課後が終わりの時間を告げる。
誰も知らない特別教室。
学校中が憧れる『氷山姫』と、普通の高一男子。
二人だけの秘密の校内恋愛は、放課後の夕暮れとともに、より甘く、より危険で愛おしいものへと深まっていくのだった。




