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水槽越しの青と、彼女のプライド

八月中旬。夏休みの太陽がギラギラと照りつける午後。


橘樹たちばな いつきは、臨海エリアにある大型水族館『アクアブルーサンシャイン』のチケット売り場前で、落ち着かない様子で足踏みをしていた。


(……やばい、緊張で胃が痛い)


告白を経て、正式に『恋人』となってから一週間。

ベランダでの夕飯や部屋での密會は何度も重ねてきたが、こうして二人で「お出かけ」をするのは、あの夏祭り以来……そして、『付き合ってから初めての正式な約會』だった。


「……樹くん」


聞き慣れた、けれどどこかわずかに照れくさそうな声が、人混みの向こうから響いた。


樹が振り向いた瞬間――思考が真っ白に染まった。


「……な、なにを口を開けて固まっているのよ」


そこに立っていたのは、いつも以上に気合の入った私服に身を包んだ涼香だった。


透け感のあるシフォンのホワイトブラウスに、ミントグリーンのマーメイドスカート。腰まで伸びた黒髪は緩く巻かれてサイドでまとめられ、耳元には小さなパールピアスが揺れている。

涼しげで洗練された大人っぽさと、どこか少女らしい可憐さが同居した完璧な「彼女」の姿。


「……言葉が出ないです。涼香、めちゃくちゃ可愛い……」


「っ……! 樹くん、バカ! 人混みの中でそんな大きな声で言わないで!」


涼香は真っ赤になって顔を伏せ、持っていた小さなショルダーバッグを両手でギュッと握りしめた。


「……これでも、あなたとのお出かけだからって……何着も服を選び直したんだから……変じゃなくて良かったわ」


消え入りそうな声で呟く彼女の耳たぶは、熟した苺のように赤くなっていた。

そのあまりの愛おしさに、樹の胸が締め付けられる。


「変どころか、世界一可愛いです。……行きましょうか、涼香」


「……ええ」


館内に入ると、外の猛暑が嘘のようにひんやりとした涼しい空気が二人を迎えた。

青い光に包まれた幻想的な空間。巨大な水槽の中を、色鮮やかな魚たちやエイが優雅に泳いでいる。


「うわぁ……すごいわね。まるで海の中にいるみたい」


涼香は少年のように琥珀色の瞳を輝かせ、水槽のガラスに顔を近づけた。

学校での『氷山姫』の威嚴など微塵もない、純粋な好奇心に満ちた表情。


「涼香って、水族館好きなんですか?」


「……ええ。小さい頃、一度だけ両親に連れてきてもらったことがあって。それ以来……ずっとまた来たいって思っていたの。でも、一人で来るのもなんだか寂しくて」


涼香はふっと優しく微笑み、樹の方を振り返った。


「だから……今日、あなたと一緒に来られて、すごく嬉しいわ」


「涼香……」


そんな素直な言葉を口にされたら、男として耐えられるはずがない。

樹は照れくささを押し殺し、すっと右手を出した。


「……迷子にならないように、手、繋ぎましょう」


「っ……!」


涼香は一瞬目を見開いたが、断る素振りは見せなかった。

彼女はおずおずと自分の細い手を伸ばし、樹の手のひらに重ねた。


指と指を深く絡め合わせる、恋人繋ぎ。


「……離したら、承知しないんだから」


「離しませんよ。絶対」


ギュッと握り返された手の温もり。

二人は青い光に包まれた通路を、繋いだ手を離さずにゆっくりと歩き始めた。


ペンギンエリア、クラゲの展示室、巨大なトンネル水槽。

どこに行っても涼香は嬉しそうに微笑み、樹が魚の知識を(前日に密かに予習してきた)披露すると、「へえ、詳しいのね」と感心したように瞳を丸くしていた。


そして、二人は館内で最も人気のある『メイン大水槽』の前にやってきた。


視界一面を覆う巨大なガラス。深海を模した深い青の世界を、数千匹のイワシの群れや巨大なジンベエザメがゆっくりと泳いでいく。

水槽前の観覧スペースは薄暗く、ロマンチックな雰囲気が漂っていた。


「……綺麗ね」


涼香は水槽から届く青い光を全身に浴びながら、呟いた。

その横顔は神聖なほどに美しく、樹は思わず見惚れてしまった。


「ねえ、樹くん」


「はい?」


涼香がふと繋いだ手に少しだけ力を込め、上目遣いに樹を見つめてきた。


「私ね……今でも時々、夢なんじゃないかって思うの」


「夢?」


「ええ。ベランダであなたにおかずを渡したことも、台風の夜に部屋に泊まったことも……こんな風に、大好きな人と手を繋いで水族館デートをしていることも……全部、私が寂しさで見ている都合の良い夢なんじゃないかって」


彼女の声は微かに震えていた。

今まで一人で完璧であり続けようとしてきたからこそ、手に入れた幸せが消えてしまうのを恐れているのだ。


樹は繋いだ手を少しだけ強く引き寄せ、涼香の体を自分の方へと向かせた。


「夢じゃないですよ。ほら……手、温かいでしょう?」


「……うん」


「僕が涼香の隣にいるのも、こうして手を繋いでいるのも、全部現実です。絶対に消えたりしません」


樹はそう言うと、周囲の影になった暗がりを利用して、そっと涼香の額に自分の額をこてんと重ね合わせた。


「っ……! つ、樹くん!?」


「僕も……涼香のことが好きすぎて、時々夢かと不安になります。だから……こうして触れていたいんです」


至近距離で交差する視線。

涼香の琥珀色の瞳が、驚きと愛おしさで潤んでいく。

彼女の甘い吐息と、白茶の香りが樹の顔を優しく包み込んだ。


「……バカ。……私を揺さぶる天才ね」


涼香は照れ隠しに小さく呟くと、逃げるどころか、自分から樹の胸元へと体をすり寄せてきた。

薄暗い水槽の前、誰にも気づかれない小さな陰で、二人はしばらくの間、互いの体温と鼓動を確かめ合うように密着していた。


夕方。水族館を出た二人は、近くの海が見えるカフェのテラス席にいた。


夕日が海面をオレンジ色に染め上げ、心地よい海風が涼香の髪を揺らしている。


「ふぅ……楽しかったわね」


トロピカルフルーツのカフェオレをストローですすりながら、涼香は心底満足そうに息を吐いた。


「はい。次は遊園地か、映画でも行きましょうか」


「ええ、絶対に行きましょ。……あ、そうだ」


涼香はカバンから小さな紙袋を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。


「これ……お土産売り場で見つけたの。あなたに……あげるわ」


「え? 僕にですか?」


樹が袋を開けると、中から出てきたのは――青いグラデーションが美しい、ペアのガラス製ペンギンキーホルダーだった。


「これって……」


「ペアよ。一つは私が持つわ。……キーケースにでも付けておきなさい」


涼香は照れくさそうに自分のカバンから、色違いのペンギンキーホルダーを取り出して見せた。


「……ありがとうございます、涼香。一生大切にします」


「大げさね……。まあ、大切にしてくれないと怒るけれど」


涼香はクスッと小さく笑うと、夕日に照らされた綺麗な笑顔を樹に向けた。


「ねえ、樹くん。夏休みが終わったら……学校が始まるわね」


「そうですね。また『他人のフリ』をしなきゃいけない季節ですね」


「ええ……。でもね」


涼香は手元のペンギンキーホルダーを愛おしそうに撫でながら、琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせた。


「私、もう学校で『完全に他人のフリ』をする自信がないわ」


「えっ……!?」


「だって……こんなに甘やかされて、好きになっちゃったんだもの。校内で誰もいない特別教室とか……屋上で、私に捕まっても知らないんだから」


孤高の『氷山姫』が見せた、あまりにも過激で甘い宣戦布告。


樹は赤くなる顔を片手で覆いながら、これから始まる二人の『新学期・秘密の校内恋愛』への期待と大パニックに、胸を躍らせるのだった。

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