台風一過の朝と、解けたアイスクリームの答え
爽やかな青空と、洗われたように澄み切った太陽の光。
昨夜の猛烈な暴風雨が嘘だったかのように、鳥のさえずりが静かな朝の街に響き渡っていた。
(……ん……)
橘樹は、まぶしい陽光に目を細めながら、ゆっくりと意識を浮上させた。
全身を包み込む心地よい疲労感と、腕に残るずっしりとした温かい重み。
(あれ……俺、何でこんなに体が重いんだ……?)
樹がぼんやりとした頭で隣に目をやると――
「……ん……ふぅ……」
すぐ隣で、夏目涼香がすやすやと心地よさそうに眠っていた。
樹のオーバーサイズシャツの胸元が大きくはだけ、華奢な鎖骨が朝日に透けている。そして何より、彼女は樹の右腕をまるで抱き枕のように両手でぎゅっと抱きしめ、自分の額を樹の胸元にすり寄せていたのだ。
(っ……!?!?)
昨夜の記憶が一瞬で脳裏に蘇った。
台風の停電。雷に怯える涼香。
同じ布団の中で繋いだ手の温もり。
そして――彼女が眠りにつく間際に囁いた、あの決定的な一言。
『おやすみなさい、橘くん。……大好きよ』
(俺……夢を見てたんじゃないよな……!?)
樹の心臓が、早鐘のように猛烈な勢いで拍動し始めた。
その鼓動が伝わったのか、樹の腕を抱きしめていた涼香の長いまつ毛が、ピクピクと揺れ動いた。
「……ん……なに……うるさい……」
涼香は不機嫌そうに小さな声を漏らし、むにゃむにゃと顔を動かした。
そして、ゆっくりと琥珀色の瞳を開け――
ゼロ距離で樹の顔があることに気づいた。
「…………え?」
涼香の動きが、ぴたっと止まった。
一秒、二秒、三秒。
徐々に自分の置かれている状況――樹の腕を固く抱きしめ、彼のベッド(布団)に一緒に潜り込み、胸元に顔をうずめているという事態――を理解した涼香の顔が、見る見るうちにリンゴよりも真っ赤に染まっていく。
「〜〜〜〜っっっ!??!?」
「あ、涼香先輩! 落ち着いて――」
「ひゃああっ! ぶ、無礼者ぉぉっ!」
パニックに陥った涼香は、咄嗟に樹の胸をポカポカと両手で叩きながら、跳ね起きるようにして布団から飛び出した。
「な、ななな、なんで私があなたの布団の中にいるのよ!? あなた、私に何か良からぬことを……!」
「していません! 先輩が昨夜、雷が怖くて自分でこっちの布団に入ってきたんじゃないですか!」
「なっ……! 私が……自分で……!?」
涼香は自分の両手を見つめ、昨夜の出来事を必死に思い返した。
雷の音に耐えかねて樹の布団に潜り込み、手を握ってもらい、挙句の果てに自ら言った恐ろしいセリフまで記憶の引き出しから溢れ出してきたらしい。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」
涼香の顔から、ぷしゅーっと湯気が出そうなほど真っ赤になった。
彼女は咄嗟に自分の両手で真っ赤な顔を覆い、そのまま壁際まで後ずさって体育座りで小さくなってしまった。
「思い出しましたか……?」
「う、嘘よ……! あれは夢よ! 私はそんな恥ずかしいこと、言っていないわ! 『大好き』なんて……絶対に言ってないわよ!!」
「僕、まだ『大好き』って言ったとは一言も言ってないですけど」
「ぐっ……! か、誘導尋問よ! バカ橘!」
涙目で睨みつけてくる涼香だが、その耳たぶまで朱色に染まっており、まったく威厳がない。
樹は苦笑しながら起き上がり、彼女の元へゆっくりと歩み寄った。
「先輩、寒くないですか? 服、肌が見えてますよ」
「み、見るなー! どこ見ているのよ変態!」
涼香は慌てて樹のシャツの襟元をぎゅっと引っ張り上げ、膝を抱え直した。
それから三十分後。
二人は心を落ち着かせるために、顔を洗い、着替えを済ませた。
涼香は自分の服に戻り、樹はキッチンで温かいスープとフレンチトーストを作り、ローテーブルに並べた。
「……どうぞ。僕が作ったフレンチトーストです」
「……いただくわ」
気まずい沈黙が流れる中、二人は並んで手を合わせ、フレンチトーストを口に運んだ。
卵と牛乳がしっかりと染み込んだ食パンは、バターの香ばしい風味が広がって優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「……美味しいわ」
「よかったです。先輩に教えてもらったコツ、ちゃんと覚えているので」
「……そう」
涼香は小さく頷き、お皿を見つめたままフォークを動かした。
朝の澄んだ風がベランダから吹き込んでくる。昨夜の激しい雨が嘘のように、平和で穏やかな時間が流れていた。
けれど、二人の間にある空気は、昨日までとは決定的に違っていた。
樹は深呼吸をし、手にしていたフォークを置いた。
「……涼香先輩」
「な、なに……?」
涼香がビクッと肩を跳ねさせ、おずおずと顔を上げた。その琥珀色の瞳は、まだどこか不安そうに揺れている。
「昨夜のこと……冗談や、気の迷いじゃないですよね?」
「っ……!」
涼香は言葉を詰まらせ、膝の上で細い指をギュッと握りしめた。
「私……本当に恥ずかしいわ。学校では完璧な先輩ぶっていたのに、雷に怯えて……あなたに泣きついて、あんな恥ずかしいことまで口にして……。笑うなら、笑いなさいよ」
「笑うわけないじゃないですか!」
樹の強い声に、涼香は驚いて目を丸くした。
「僕、めちゃくちゃ嬉しかったんです。嬉しすぎて、昨夜は一秒も眠れなかったくらいです」
「え……?」
「最初は……ただの『隣のおいしいご飯を作ってくれる綺麗な先輩』でした。でも、ベランダで話すようになって、学校でのギャップを知って……スーパーで照れている姿や、一緒に料理を作っている姿を見るたびに、僕の中で先輩の存在がどんどん大きくなっていったんです」
樹はローテーブル越しに、涼香の華奢な手の上に自分の手をそっと重ねた。
「僕も……大好きです、涼香先輩」
「……っ!」
「先輩が一人で抱え込んでいた寂しさも、完璧でいようとするプレッシャーも、全部僕が受け止めます。だから……僕と、正式に付き合ってください」
樹のまっすぐで、偽りのない告白。
その言葉が、涼香の胸の奥深くへと響き渡っていく。
涼香の琥珀色の瞳から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「せ、先輩!? なんで泣いて……! 僕、何か失礼なこと言いましたか!?」
「バカ……! 泣いてなんか……ないわよ……!」
涼香は首を横に振りながら、重ねられた樹の手を両手でギュッと握り返した。
「嬉しくて……涙が出ちゃっただけよ……。私ね、ずっと怖かったの。誰かに甘えるのも、素の自分を見せるのも……みんな私に『完璧な氷山姫』を求めてくるから……」
涼香は鼻をグスッと鳴らし、樹の目を見つめ返した。
「でも、あなただけは違った。私の不器用な料理を『美味しい』って笑って食べてくれて……私が弱っている時に、いつも優しく手を差し伸べてくれた……」
涙を拭い、涼香はこれまでで一番美しく、眩しい笑顔を咲かせた。
「私で……私でよければ、よろしくお願いします。……橘くん」
その瞬間、二人の間に漂っていた「お隣さん」と「先輩後輩」の壁は完全に崩れ去り、世界で一番甘くて愛おしい『恋人』としての新しい関係が始まった。
「……ねえ、橘くん」
「はい、涼香先輩」
「彼女になったんだから……呼び方、少し変えてみないかしら?」
告白が成功し、少し照れくさそうな雰囲気が戻ってきた頃、涼香が自分の髪を弄くりながら上目遣いで提案してきた。
「呼び方ですか? えーと……『涼香』って呼べばいいですか?」
「っ……! いきなり呼び捨ては……ハードルが高いわ……! 心臓が止まっちゃう……!」
提案した本人が真っ赤になってパニックを起こしている。
「ふふ、じゃあ……二人っきりの時は『涼香先輩』で、学校では『夏目先輩』でどうですか?」
「……うう、分かったわ。じゃあ……私も、二人っきりの時は『樹くん』って呼ぶわね」
初めて名前で呼ばれた樹の胸が、ドクンと大きく弾けた。
「……破壊力がすごいです、涼香先輩」
「ふん、自業自得よ」
涼香は満足そうに微笑むと、樹のお皿に残っていたフレンチトーストをスプーンですくい、息を吹きかけて冷ました。
「ほら……あーんして」
「え……?」
「恋人同士のお約束でしょう? 早く口を開けなさい」
照れくささを隠すように顎をしゃくらせる涼香。
樹は苦笑しながら、喜んでその甘い一口を受け取った。
「……美味しいです、涼香」
「〜〜〜っ! 急に呼び捨てにするんじゃないわよバカ!」
夏の眩しい太陽が、青楓荘の301号室を温かく照らし出していく。
一人暮らしの男子高校生と、孤高の氷山姫。
ベランダ越しの夜食から始まった二人の密やかな関係は、最高の夏休みとともに、どこまでも甘く、どこまでも温かいストーリーへと続いていくのだった。




