台風の夜と、解けない魔法
花火大会から一週間が過ぎた、八月初旬の夜。
外は強い風の音がゴウゴウと吹き荒れ、叩きつけるような激しい雨がベランダのサッシを激しく叩いていた。台風10号が、関東地方を直撃していたのだ。
「……すごい雨ね」
橘樹の部屋のローテーブルで、夏目涼香は温かい紅茶のカップを両手で包み込みながら、不安そうに窓の外を見つめていた。
今日の夕方、二人で夕飯を食べようと涼香が樹の部屋に遊びに来ていたのだが、食事が終わる頃には外は完全な暴風雨と化していた。
グラグラと揺れるアクリル板。そして――
ピシャーン!!
「きゃっ!?」
激しい雷鳴とともに、部屋の照明が一瞬にして消え去った。
完全な暗闇が部屋を支配する。
「涼香先輩!?」
「た、橘くん……! どこ……!?」
暗闇の中から、パニックに陥った涼香の小さく震える声が聞こえた。
樹は咄嗟にスマホのライトを点け、彼女の元へと駆け寄った。
テーブルの横で、涼香は膝を抱えて小さく丸まっていた。
いつもの孤高な『氷山姫』の面影はなく、雷の音に怯える一人の可憐な少女がそこにいた。
「大丈夫です、停電しただけですよ。僕がついてますから」
樹がそっと彼女の肩に手を置くと、涼香はしがみつくように樹のシャツの袖をぎゅっと握りしめてきた。
「は、離れないでね……。私、雷……昔からダメで……」
「離れませんよ。ずっとここにいます」
樹は優しく微笑み、彼女の手を握り返した。
三十分ほど経過したが、停電が復旧する気配はなく、外の暴風雨はさらに勢いを増していた。
ニュースをスマホで確認すると、近隣の道路は冠水し、隣の302号室(涼香の部屋)側のベランダは強風で飛来物がぶつかり、サッシを開けるのも危険な状態になっていた。
「……これ、今夜は隣に帰るのは危険ですね」
「え……?」
樹が冷静に状況を説明すると、涼香はスマホのライトに照らされた顔を真っ赤にした。
「帰れないって……私、ここに泊まるってこと……!?」
「外に出る方が危ないです。幸い、うちには予備の毛布もありますし……僕が床で寝ますから、先輩はベッドを使ってください」
「で、でも……男子の部屋に一人で泊まるなんて……!」
「僕を信じてください。手出しなんて絶対にしませんから」
樹がまっすぐに彼女の目を見つめて言うと、涼香はそっぽを向き、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……信じてないわけじゃないわよ。……バカ」
かくして、二人だけの『秘密のお泊まり』が決定した。
「そのままの服じゃ落ち着かないでしょう? 僕の部屋着でよければ着てください」
樹がクローゼットから差し出したのは、シンプルな白のオーバーサイズTシャツとハーフパンツだった。
「ありがと……借りるわね」
薄暗い部屋の中で、浴室で着替えを済ませて出てきた涼香の姿に、樹は息をのんだ。
樹の服を着た涼香は、肩幅が余って萌え袖になり、首元が少し肌を覗かせている。ハーフパンツも膝下まで隠れてしまい、華奢な彼女の体型が際立っていた。
「……な、なにを見ているのよ。サイズがガバガバなのは分かっているわよ……」
恥ずかしそうに自分の裾を引っ張る涼香。
その無防備で可愛すぎる姿に、樹の心臓は破裂しそうなほど打ち鳴らされた。
(あかん……可愛すぎて理性が保てない……)
「い、いえ! すごく似合ってます! じゃあ……そろそろ寝ましょうか」
樹は暗闇の中に布団を敷き、涼香をベッドへと促した。
「……橘くんは、本当にそこで寝るの?」
「ええ。床に毛布を敷いたので平気ですよ」
「……寒くない?」
「夏ですし、全然平気です」
二人は横になり、部屋には雨音と二人の息遣いだけが響き渡った。
しかし――
ピシャーン!! ドカン!!
本日一番の激しい雷鳴が轟いた。
「ヒッ……!?」
ベッドから短い悲鳴が聞こえた直後、ガサゴソと布団が揺れる音がした。
「……橘くん」
気がつくと、樹の床の布団のすぐ横に、自分の枕と毛布を抱えた涼香が立っていた。
スマホの微かな明かりに照らされた彼女の瞳は、涙目で今にも泣き出しそうだった。
「せ、先輩……?」
「……一人で寝るの、怖い」
涼香はそう呟くと、樹の返事を待たずに、彼の布団の隣に自分の毛布を敷いて潜り込んできた。
(っ……!?!?)
樹のパニックは頂点に達した。
薄い毛布一枚を隔てたすぐ隣に、大好きな涼香先輩が横たわっている。
彼女の甘い体温と香りが、ダイレクトに鼻腔を突く。
「……隣にいてもいいでしょう?」
「い、いいですけど……僕の心臓が持ちません……」
「ふふ、調子の良いことばかり言って」
涼香は小さくクスッと笑うと、暗闇の中でそっと樹の手を探し出し、自分の指を絡めてきた。
「……手を繋いでいて。そうしたら、怖くないから」
「……はい」
握りしめられた互いの手のひらから、ドクドクと激しい鼓動が伝わってくる。
「……ねえ、橘くん」
「なんですか、涼香先輩」
「私ね……台風が来てくれて、少し嬉しかったかもしれないわ」
「え……?」
「だって……こんな風に、あなたと過ごせる理由ができたんだもの」
暗闇の中で囁かれた、甘く切ない本音。
涼香は樹の手を自分の胸元に引き寄せ、そっと微笑んだ。
「おやすみなさい、橘くん。……大好きよ」
「……っ!」
その言葉を残し、安心したように小さな寝息を立て始めた涼香。
一人残された樹は、赤くなった顔を片手で覆いながら、朝まで眠れない夜を過ごすことになるのだった。
台風が去った後の朝、二人の関係はもう二度と『ただのお隣さん』には戻れないほど、甘く深く結ばれていたのだった。




