浴衣姿の氷山姫と、解けない手
土曜日の午後六時。青楓駅前の広場。
橘樹は、いつもより少しオシャレした私服姿で、約束の十五分前からそわそわと時計を気にしていた。
駅前は、夏祭りと花火大会に向かう浴衣姿のカップルや家族連れで大混雑している。
(……夏目先輩、本当に浴衣で来るのかな)
昨日の夜、ベランダ越しに「遅刻したら金魚すくいにするわよ」と強がっていた彼女の声を思い出し、樹の胸は緊張と期待で高鳴っていた。
その時だった。
「……橘くん」
後ろから、少し緊張の混じった、鈴を転がすような涼やかな声が届いた。
樹が振り向いた瞬間――息をのんだ。
そこに立っていたのは、普段の『氷山姫』とは一線を画す、息をのむほど妖艶で可憐な夏目涼香だった。
夜空を思わせる深みのある紺地に、白い朝顔の花が繊細に描かれた上品な浴衣。
薄桃色の帯がぎゅっとキュートに結ばれ、いつもの黒髪はうなじが見える位置でアップにまとめられ、綺麗な髪飾りが夏風に揺れている。
伊達メガネを少し掛け、上目遣いで樹の様子を伺うその姿は、まるで絵画から飛び出してきたかのようだった。
「……な、なにを呆然と見ているのよ。……変かしら?」
涼香は下駄の足をモジモジさせながら、照れ隠しに小さな巾着袋をぎゅっと握りしめた。
「……すごいです」
「え?」
「言葉が出ないくらい……めちゃくちゃ綺麗です、涼香先輩」
「っ……!」
樹が心からの本音を口にすると、涼香の頬は浴衣の朝顔よりも赤く染まった。
彼女は咄嗟に持っていた丸うちわで顔の下半分を隠し、明後日の方向を向いた。
「〜っ! ほ、褒め殺しなさい……! バカ橘!」
「本当のことですよ。……メガネもすごく似合ってます」
「これは……変装用よ! 学校の生徒に見つかったら大変でしょう?」
そう言いながらも、涼香の琥珀色の瞳は嬉しそうに潤んでいた。
二人は河川敷へと続く祭り会場の屋台通りを並んで歩き始めた。
香ばしいソースの匂い、甘いリンゴ飴の香り、威勢の良い屋台のお兄さんの声。
祭り独特の熱気が二人を包み込む。
「すごい人ですね……」
「ええ……想像以上だわ。私、こんなに混雑したお祭り、数年ぶりだもの」
人波に押され、二人の距離が自ずと接近する。
涼香は慣れない下駄の歩調に少し苦戦しており、何度も人とぶつかりそうになっていた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「平気よ。これくらい……きゃっ!?」
前方から歩いてきた酔っ払いの男とぶつかりそうになり、涼香がよろめいた。
「危険です!」
樹は咄嗟に手を伸ばし、涼香の細い腰を引き寄せるようにして自分の胸元へ抱き寄せた。
ふわりと漂う、白茶と浴衣の洗香の匂い。
樹の胸の中で、涼香が小さく息をのむのが分かった。
「……すみません、怪我はないですか?」
「え、ええ……ありがとう、助かったわ」
涼香は真っ赤な顔で樹の胸から離れたが、その足元はまだ少し覚束ない。
樹は覚悟を決めた。
「……先輩」
「なに……?」
「離れないでくださいね」
樹は躊躇うことなく、涼香の小さく柔らかい右手の手のひらを、そっと包み込んだ。
指と指を深く絡め合わせる、恋人繋ぎ。
「っ……!? た、橘くん!?」
「嫌ですか? でも、こんなに混んでたら絶対に迷子になります。……僕が先輩の手を引いて歩きたいんです」
樹がまっすぐに彼女の目を見つめて言うと、涼香は一度だけ口をぐぬぬと結び、抵抗するのをやめた。
「……嫌なんて、言ってないでしょう」
涼香は恥ずかしそうに視線を下に落とし、樹の手をぎゅっと握り返してきた。
「……離したら、怒るわよ」
「絶対離しません」
握りしめられた手から伝わる、熱い鼓動と温もり。
二人は手を繋いだまま、屋台で焼き鳥やりんご飴を買い、花火が一番綺麗に見える河川敷の小高い丘へと向かった。
ドン……!
夜空を切り裂くような重低音が響き、一発目の大輪の花火が夜空に咲き誇った。
赤、青、金色の光が、二人の顔を鮮やかに照らし出す。
「わあ……綺麗……」
涼香は少年のように目を輝かせ、夜空を見上げた。
その横顔は、儚いほど美しく、けれど確かに樹のすぐ隣に存在していた。
「……橘くん」
「はい?」
花火の爆音に消されないよう、涼香が樹の耳元に顔を近づけて囁いた。
「私ね……今年の夏が、人生で一番楽しいわ」
「先輩……」
「一人で静かに過ごす夏も悪くないって思っていたけれど……あなたと食べるご飯も、あなたと見る花火も……全部、宝物みたい」
涼香は繋いだ手にギュッと力を込め、心からの微笑みを樹に向けた。
「付き合ってくれて……ありがとう、橘くん」
花火の光に照らされた彼女の微笑みは、学校での『氷山姫』の面影など微塵もない、愛おしさに満ちた一人の少女の素顔だった。
樹の胸の奥で、抑えきれない愛おしさが爆発する。
「……僕の方こそです、涼香先輩。……これからも、ずっと僕の隣にいてください」
「ふふ、調子の良いことばかり言って。……でも、考えておいてあげるわ」
大輪の仕掛け花火が夜空一面を黄金色に染め上げる中、二人は繋いだ手を解くことなく、肩を寄せて夜空を見上げ続けた。
甘く、焦れったい、二人だけの秘密の夏。
二人の恋の蕾は、夏空に咲く花火のように、鮮やかに開こうとしていた。




