日常への帰還と、夏目本家からの『招待状』
◇
箱根から戻った翌日。
立冬を前にしたキャンパスの空気はピンと張り詰め、街路樹の葉が北風に舞う季節となっていた。
「――樹くん、お茶の温度は熱すぎませんか? お口を付ける前に私が一口確かめましょうか?」
「大丈夫だよ涼香、ちょうどいい温かさだから……っ」
講義棟の二階にある学生ホール。
いつもの大きな丸テーブルの席で、私は涼香の至れり尽くせりなお世話を受けていた。
箱根の温泉旅行を経て、涼香の『完全愛寵モード』はさらに一段上の領域へと進化を遂げていた。
講義中のノート代筆はもちろん、移動時の腕組み&恋人繋ぎの常時固定、さらには休憩時間の水分補給に至るまで、私の自理能力は彼女の手によって完全に無効化されつつある。
周囲の学生たちも、もはや驚くことすらやめていた。
「おい見ろよ、あの夏目さんが今日も旦那の湯飲み持って一口ずつ飲ませてるぞ……」
「学園祭で公然キスまでかましたんだ、今更お茶の淹れ合い程度じゃ驚かねぇよ……」
「むしろあの二人が三十センチ以上離れてる姿を見たことがねぇ……」
そんな周囲のヒソヒソ声を、涼香は心地よいBGMか何かのように爽やかに聞き流し、私の膝の上に自身の細い手足をすり寄せてきた。
「ふふ……旅から戻っても、樹くんのこの触れ心地と柔らかさは変わりませんね。毎日こうして私の手の中で愛でられていてください♡」
「涼香、ここ学校のフリースペースだからね? 抱きつく力がちょっと強い……っ」
「甘える妻を拒む権利は夫にはありません。……さあ、次は私が用意した特製マドレーヌです。お口を開けてください」
「あー……」と私が口を開けかけた、その時だった。
「――おーい! お兄ちゃん、涼香さん! 大変だよっ!!」
ホールの入口から、息を切らした葵が猛ダッシュで飛び込んできた。
その手には、重厚な和紙で作られた漆黒の封筒が握られている。
「葵? どうしたの、そんなに慌てて……」
「これ! 実家から……ううん、夏目本家からお兄ちゃん宛てに速達で届いてたの!!」
「本家から……?」
私が首をかしげると、隣にいた涼香の体がピクッと強張った。
彼女の琥珀色の瞳から一瞬で甘美な色が消え、かつて全校生徒を震え上がらせた『氷山』の鋭い光が戻ってくる。
葵から受け取った封筒には、達筆な毛筆で『夏目 樹 様』と記されていた。
裏面の差出人には――涼香の父親であり、夏目本家を統べる現当主の名。
封を切り、中に折り畳まれていた和紙を開くと、そこには重厚な挨拶文とともに、明確な一文が刻まれていた。
『――来たる今週末、夏目本家にて親族一同の集いを行う。付きましては、我が娘・涼香の配偶者たる樹殿にも、正式に本家へと足をお運びいただきたい』
◇
「……本家からの召集令状、ですか」
放課後、二人きりのマンションのリビング。
ローテーブルの上に置かれた本家からの書状を前に、涼香は眉をひそめて小さく溜め息をついた。
「涼香……これって、やっぱり学園祭の件が耳に入ったのかな?」
「間違いありません。我が本家は、旧態依然とした家柄や世間体を重んじる親族が多く存在します。……学園祭のステージで私が『樹くんを一生飼い慣らす』と宣言し、公開で口づけを交わした動画が、親族の誰かの目に留まったのでしょう」
涼香は私の隣へすり寄ると、私の手をぎゅっと強く握りしめてきた。
その指先が、わずかに震えているのが分かった。
「……樹くん。不安になる必要はありません。あの家で何と言われようと、誰が反対しようと……私は絶対にあなたを離しません。必要とあらば、私は夏目の家名を捨ててでも、あなたとともに歩みます」
「涼香……」
かつてのすれ違いの際、彼女は実家からの圧力と自分の重すぎる愛に苦しみ、一人で抱え込もうとしていた。
だが、今の彼女の瞳にあるのは、逃避ではなく、私を守り抜くという強い決意だった。
私は彼女の手を包み込むように握り返し、彼女の琥珀色の瞳をしっかりと見つめ返した。
「逃げたりしないよ、涼香。俺だって……涼香なしじゃ生きていけない体にされたんだ。本家のご両親や親族の人たちに、俺たちの関係をしっかり認めてもらおう」
「樹くん……っ♡」
私の言葉に、涼香の瞳に感動の涙が浮かぶ。
彼女は我慢できなくなったように私にしがみつき、私の胸元に深く顔を埋めてきた。
「……はい! 私の愛しい旦那様……っ! 本家でどんな難題を突きつけられようと、二人で乗り越えてみせます!」
◇
週末。
私と涼香は、都内から少し離れた閑静な高級住宅街に佇む、広大な日本家屋の前に立っていた。
黒塗りの立派な門構えと、手入れの行き届いた松の庭園。圧倒されるような老舗本家の重厚な雰囲気が漂っている。
「……行きましょう、樹くん。私の手だけは、絶対に離さないでくださいね」
「うん、分かってる」
私たちは指を強く絡め合い、固く繋いだ手のまま、夏目本家の重い玄関の扉を開けた。
二人の未来と、絶対に解けない『愛の飼育』の絆を証明するための、新たな試練の幕が上がろうとしていた――!




