秋の学園祭準備と、氷山美女の公然『正妻牽制』
◇
十一月の上旬。
大学のキャンパスは秋の深まりとともに、間近に迫った「秋の学園祭(文化祭)」の準備で独特の熱気に包まれていた。
「……樹くん。今日の準備作業、本当に私と別々の班で行くのですか?」
講義棟の廊下の隅で、涼香が私の腕を両手で強く抱きかかえ、琥珀色の瞳を不安そうに揺らしていた。
彼女の美しい眉が八の字に寄せられ、今にも泣き出しそうな上目遣いで私を見つめてくる。
「涼香、同じ文学部の出し物だから同じ教室にはいるよ? ただ、涼香は法学部からの助っ人として全体の装飾指導だし、俺は資材の搬入と組み立て班になっただけだから……」
「ダメです。樹くんが私の視界から数十センチでも離れると思うだけで、胸が苦しくて壊れそうになります……っ」
「大げさだよ涼香……っ! 同じ教室の中にいるんだから、手を伸ばせばすぐ届く距離だよ!」
すれ違いを乗り越え、己の過保護と独占欲を完全解禁した涼香にとって、「大学のイベント準備」は試練以外の何物でもなかった。
彼女から言わせれば、学園祭準備という賑やかなドサクサに紛れて、無防備で可愛らしい旦那様に不躾な虫(他の学生)が接近してくる絶好の危険区域だからだ。
「……分かりました。折衷案を提示します」
「折衷案……?」
涼香は胸ポケットから、自分の香水(柑橘系の甘いアロマ)を染み込ませたお揃いのハンカチを取り出すと、それを私の胸ポケットへ丁寧に差し入れた。
「私の香りを身に纏っていなさい。そして、少しでも危険を感じたら(他の女子学生に話しかけられたら)、すぐにこのハンカチを握りしめて私を呼びなさい。いいですね?」
「う、うん……分かったよ……」
甘すぎる愛の縛りに苦笑しつつも、私は彼女の細い指先にそっと自分の指を絡め、小さな口づけを落とした。
「大丈夫だよ、涼香。俺の目には涼香しか映ってないんだから」
「……っ♡ は、はい……! 行ってらっしゃいませ、私の可愛い樹くん♡」
顔を真っ赤にして蕩けるような笑みを浮かべる氷山妻をその場に残し、私は作業現場となる教室へと向かった。
◇
「——よし、じゃあ夏目くん、この看板の枠組みをあっちの壁際に運んでくれる?」
「あ、はい! 分かりました!」
教室では、サークルのメンバーや学部の有志たちが慌ただしく看板の制作や装飾の準備を進めていた。
私も長机や資材を運ぶ作業に汗を流していたのだが――。
「あの……夏目くん?」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには装飾班の他学部の女子学生・小林さんが、大きなダンボール箱を抱えて困ったような顔で立っていた。
「あ、小林さん。どうしたの?」
「これ、上の棚に上げたいんだけど……ちょっと重くて届かなくて。手伝ってもらってもいい……?」
「あ、うん! もちろんいいよ。貸して――」
私が親切心から手を伸ばし、ダンボール箱を受け取ろうとした、まさにその瞬間だった。
――ゾクッ!!!
教室全体の温度が物理的に五度ほど下がったかのような、圧倒的な『絶望の冷気』が背後から立ち昇った。
「「「…………!?」」」
作業をしていた周囲の学生たちが一斉に動きを止め、ガタガタと震え始める。
ゆっくりと振り返ると、そこには教室の入り口に佇む涼香の姿があった。
透き通るような白い肌、ライトを反射して美しく輝く琥珀色の髪。
だが、その琥珀色の瞳からは一切の光が消え去り、かつて全校生徒を恐怖の底に陥れた『法学部の氷山美女』としての絶対的な威圧感が全開になっていた。
「ひっ……! な、夏目さん……!?」
小林さんが引きつった悲鳴を上げて一歩後退する。
涼香は一切の足音を立てずにすーっと滑るように近づいてくると、私と小林さんの間に割り込み、私の右腕を自分の豊かな胸元へぎゅっと抱きかかえ込んだ。
「——何か、私の夫に用でしょうか?」
氷のように冷たく、けれど凛とした絶対的な美声。
「あ、いえ……っ! 箱を運んでもらおうかと……っ!」
「そのような重労働は、私が手配した外部の搬入業者、または男性スタッフが行います。私の樹くんの華奢な身体に無駄な負担をかけさせないでいただけますか?」
「ひ、ひえぇぇっ……! ご、ごめんなさい!!」
小林さんはダンボールを床に置くと、脱兎のごとく教室の反対側へ逃げていった。
「り、涼香……! 今のはただ重い荷物を運ぶのを手伝おうとしただけで——」
私が焦って弁明しようとすると、涼香はぐるりと私の方を向き、私の両頬を自分の柔らかい両手でギュッと挟み込んできた。
「……分かっています。樹くんが優しいから断れなかっただけだと」
「じゃ、じゃあなんであんなに……」
「嫉妬です! そして、妻としての『縄張り主張』です!」
真っ赤な顔で胸を張る涼香。
琥珀色の瞳には、潤んだ情愛と、誰にも渡したくないという強烈な独占欲がメラメラと燃え上がっていた。
「作業中とはいえ、私の樹くんに他の女性が気やすく接触することなど、万死に値します。……樹くん、今すぐ私の膝の上で『お給仕の水分補給』を受けなさい」
「えっ、ここで!? 作業中だよ!?」
「関係ありません。私の精神安定が最優先です」
涼香は私を強引に長机の椅子に座らせると、自分はその隣の椅子に座り、自分の太ももをトントンと叩いた。
「さあ、おいでなさい」
周囲の学生たちが「また始まった……」「夏目さんの絶対正妻領域だ……」「邪魔したら消されるぞ」と遠巻きに見守る中、私は観念して彼女の膝の上へと頭を預けた。
「……ん、素直で良い子ですね、樹くん♡」
涼香は準備してきた水筒からスポーツドリンクをストローで私の口元へ運び、一口飲ませるたびに、私の髪を慈しむように撫で上げた。
「……ふふ、見なさい、有象無象ども。これが私の愛する旦那様です。指一本触れさせませんからね……♡」
学園祭準備の熱気の中で繰り広げられる、圧倒的で甘美な『正妻牽制』。
氷山妻の深すぎる過保護と独占欲に包まれながら、私たちの甘い学園祭は、いよいよ本番に向けて動き出していくのだった――!




