学園を飲み込む過保護の嵐と、放課後の甘美な絶対飼育
◇
「……あの、涼香。さすがにこれはやりすぎじゃないかな……?」
午後一番の講義が始まる直前、文学部の大講義室。
私は自分のデスクの上を見つめながら、ひくひくと頬を引きつらせていた。
私の席の周囲――前後左右の計八席に、見慣れない「予約済み」と書かれたアクリルスタンドが整然と設置されていたのだ。それも、ただのスタンドではない。涼香の手書きで、達筆な美文字によってこう記されている。
『本座席は夏目樹の集中力維持および健康管理のため、立ち入りおよび着席を禁止します。――夏目涼香』
「何か問題でもありますか、樹くん?」
隣の席にピタリと密着して腰を下ろした涼香が、首をちょこんと傾けて真顔で問いかけてくる。
透き通るような白い肌に、ライトを反射して綺麗に輝く琥珀色の髪。法学部のみならず大学全体で『氷山美女』と恐れられる彼女は、自分がどれほど異常で過激な光景を作り出しているかを微塵も自覚していない様子だった。
「問題大ありだよ! なんで俺の周りの席を全部ブロックしてるの!? みんな座れなくて困ってるじゃん!」
「困りません。この講義室は収容人数に対して受講者が少なめです。他の空席は十分にあります」
涼香は私の腕に自分の細い腕をキュッと絡め直し、豊かな胸の柔らかさを惜しげもなく押し当ててきた。柑橘系の甘いアロマの香りがふわりと鼻腔をくすぐり、私の思考回路を一瞬で麻痺させかける。
「それに……昨日までの噂話で、樹くに不躾な視線を送る無礼な学生が多すぎました。病み上がりで繊細な樹くんのパーソナルスペースに、余計な虫や悪意を近づけさせるわけにはいきません。これくらいは妻として当然の防衛策です」
「セキュリティの規模が大きすぎるよ……っ!」
周りを見渡すと、講義室に入ってきた学生たちがアクリルスタンドを見て「うわ、出た……」「夏目さんの絶対防衛圏だ……」「触らぬ神に祟りなしだな」とヒソヒソ囁き合いながら、露骨に距離を取って遠くの席へ座っていく。
かつては『氷山美女に近づけない』恐怖だったものが、今や『過保護すぎる狂妻に近寄ったら消される』という別のベクトルへの恐怖へと進化を遂げていた。
「さあ、樹くん。講義開始まであと十分あります。……おいでなさい」
涼香はそう言うと、自分のお膝をトントンと優しく叩いた。
あの日、全校生徒に激震を走らせた『講義室での膝枕』の再現である。
「ま、またここで!? 今日は周りにこんなに人がいるんだよ!?」
「関係ありません。あの日と違って、今の私たちは『お互いの本心をぶつけ合い、二度と離れないと誓い合った完全体』なのですから。何も恥ずかしがる必要はありませんよ」
抗議する間もなく、涼香の白い指先が私の後頭部を優しく包み込み、そのまま彼女の太ももの上へと私の頭を倒れ込ませた。
「……っ!?」
太ももの柔らかく温かい感触。
上から見下ろしてくる涼香の琥珀色の瞳と、うっとりと甘く微笑む口元。
「ふふ、大人しくなりましたね。偉いですよ、樹くん♡」
彼女の長くて柔らかい指先が、私の髪をゆっくりと撫で上げていく。
前回のすれ違いを経て、彼女の過保護には迷いや躊躇が一切なくなっていた。私の理性をじわじわと溶かし、彼女なしでは生きていけない体に作り変えていくかのような、圧倒的な愛寵の快感。
「……大学に入っても、私はあなたを甘やかすのをやめませんとお伝えしましたよね? ……いいえ、これからはさらに進化します。あなたの身も心も、すべて私の手の中でトロトロに溶かして差し上げますからね♡」
講義室のザワつきが、どこか遠くの出来事のように感じられていく。
私は彼女の膝の上で、幸せな敗北感とともにそっと目を閉じるのだった。
◇
放課後。
講義を全て終えた私は、涼香に手をもっちりと繋がれたまま、大学の校門へと向かっていた。
「……ふぅ。今日も一日、すごい視線だったね」
「慣れてください、樹くん。これが『夏目涼香の夫』として生きるということです。誇りに思って良いのですよ?」
堂々と言い放つ涼香に苦笑していると、背後から賑やかな足音が近づいてきた。
「おーい! お兄ちゃん! 涼香さん!」
振り向くと、妹の葵と、白鳥先輩が並んで歩いてきていた。
葵はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、白鳥先輩は手に持ったノートにサラサラと何かを書き込んでいる。
「相変わらずの密着度ね。講義室での『半径二メートル接近禁止令』のアクリルスタンド、実に素晴らしい執着のデータが取れたわ」
「白鳥先輩、また見てたんですか……!?」
「当然よ。現代純愛文学における『過剰飼育系氷山妻の完全覚醒』の章を執筆中なんだから。ねえ涼香さん、今日の膝枕の時の樹くんの体温や吐息の乱れについて、詳細なログを共有してもらえるかしら?」
「ええ、喜んで。あの時の樹くんはですね、照れくささで耳まで真っ赤にしながらも、私の太ももに顔を寄せてきて……」
「ちょっと涼香!? 嘘混ぜて白鳥先輩に教えないでよ!?」
私の必死の叫びに、葵が大爆笑する。
「ギャハハ! お兄ちゃん、完全に涼香さんの手のひらの上だね! でもさ、一時は二人ともボロボロになってどうなるかと思ったけど……前よりずっとバカップル度が増してて安心したよ」
葵はふっと表情を和らげ、温かい瞳で私と涼香を見つめた。
「涼香さん、お兄ちゃんのこと、これからもよろしくね。ホントに手のかかるお兄ちゃんだけどさ」
「ええ、任せてください葵ちゃん。樹くんの手がかかればかかるほど、私の生き甲斐が増えるのですから」
涼香は胸を張り、私の手をさらに強く握りしめた。
その温もりと誇らしげな笑顔に、私の胸の奥がキュッと熱くなる。
「それじゃあ二人とも、気をつけて帰ってね! 今夜は流石に邪魔しないでおいてあげるから!」
「ええ、今夜の『密室での濃厚な飼育データ』は、明日改めてヒアリングさせてもらうわね」
「来なくていいですからね白鳥先輩!!」
手を振って去っていく二人を見送り、私たちは夕暮れ時の街へと歩き出した。
◇
夕空が綺麗な茜色から深い紫紺へと移り変わる頃、私たちは二人きりのマンションへと帰宅した。
玄関の鍵を閉めた瞬間――ガチャリ、という重い音が静かな室内に響く。
「……ただいま、涼香」
「お帰りなさい、樹くん」
靴を脱ぐ間もなく、背後から涼香の細い腕が私の胴体に回された。
ギュッと強く、私を逃がさないように抱きしめてくる。
「り、涼香……? まだ玄関だよ……?」
「関係ありません。……大学では、周りの目があってこれ以上強く抱きしめるのを我慢していたのです。……今夜は、覚悟してくださいね?」
耳元で囁かれる甘い吐息。
涼香は私の体をくるりと反転させると、私を玄関のドアに押し付けるようにして、琥珀色の瞳でまっすぐに見つめてきた。
「今日の大学での樹くん、とても可愛らしかったです。私の膝の上で素直に撫でられていて……私、嬉しくてどうにかなりそうでした」
「涼香……っ」
「でも……まだ足りません。私の心が、あなたの体温をもっともっと求めているのです」
涼香の手が私の頬をそっと包み込み、つま先立ちになって唇を重ねてきた。
んっ、と深い吐息が混ざり合う。
昼間の講義室での甘い口づけとは違う、二人きりの空間だからこそ解禁される、濃厚で深遠な愛の確かめ合い。
「……ん……ふ……っ♡」
彼女の甘い舌先が私の唇を割り込み、口腔内を熱く優しく撫でまわしていく。
柑橘系のアロマの香りと、彼女自身の甘い体温。理性がトロトロと溶け出し、膝から崩れ落ちそうになる私を、涼香はしっかりと抱きとめてくれた。
「……ふはっ……涼香……息が……っ」
「ふふ、可愛いですね……♡ まだ玄関ですよ? 本番はこれからです」
唇を離した涼香は、潤んだ瞳で妖しく微笑むと、私の手を引いてリビング、そして寝室へと私をエスコートした。
◇
寝室のベッドの上に腰掛けさせられた私は、すっかり涼香のペースに呑み込まれていた。
「さあ、樹くん。お着替えをしましょうね」
「自、自分で脱げるから大丈夫――」
「ダメです。樹くんのお召しものを脱がすのも、新しいお洋服を着せるのも、すべて私の『妻としての特権』です。……じっとしていなさい♡」
涼香は手際よく私のシャツのボタンを一つずつ外していく。
彼女の細い指先が肌に触れるたび、ゾクゾクとした心地よい緊張感が全身を駆け抜ける。
「……本当に、綺麗な肌をしていますね。私以外の誰も触れさせません……」
服を着替え終わると、涼香は私の隣に滑り込み、ベッドの上で私を押し倒すようにして上から覆いかぶさってきた。
「……ねえ、樹くん」
「な、なに……?」
「あの日、実家で言いましたよね? 『他の誰に甘やかされたって意味がない。涼香の過保護じゃなきゃ嫌だ』と」
「っ……! 恥ずかしいから思い出させないでよ……!」
「ふふ、私はあの言葉を一生忘れません。……だからこそ、私はあなたを世界で一番幸せで、世界で一番ダメな旦那様へと作り変えて差し上げます」
涼香の琥珀色の瞳が、甘い執着と狂おしいほどの情愛で満たされている。
元・生徒会副会長としての厳格さも、大学での『氷山美女』の仮面も、今の彼女には一切存在しない。
そこにいるのは、ただひたすらに私を愛し、私を独占し、私を甘やかすことに全存在を捧げる『私の自慢の妻』だ。
「……覚悟はできていますね? 樹くん♡」
「……ああ。涼香の手の中なら……どこへでも連れて行ってよ」
私の答えを聞いた瞬間、涼香の顔に世界で一番美しく、そして底抜けに甘い雪解けの笑みが咲き誇った。
「……大好きです、私の愛しい樹くん♡」
再び重ね合わされる唇。
二人だけの甘く、過保護で、逃げ場のない夜は、どこまでも深々と、永遠のように更けていくのだった――!




