完全解禁の登校と、キャンパスを揺るがす『絶対領域』
翌朝。
遮光カーテンの隙間から差し込む眩しい秋の日差しが、二人きりの甘い密室を優しく包み込んでいた。
「……ん……っ」
目を覚ますと、視界いっぱいに広がっていたのは、至近距離で私を見つめる涼香の美しい琥珀色の瞳だった。
彼女の腕は私の胴体にガッチリと回され、脚まで私に絡められている。まさに指一本動かすことすら許さない『完全拘束』の姿勢だ。
「……おはようございます、私の可愛い樹くん♡」
透き通るような甘い声。
涼香は私の胸にすりすりと頬を寄せてくると、満足そうにうっとりと目を細めた。
「……涼香、朝だよ。もう起きないと大学の講義に遅刻しちゃう……」
「遅刻など気にする必要はありません。……もし樹くんが行きたくないとおっしゃるなら、今日も二人でお休みして、一日中ベッドの上で私に甘やかされていれば良いのです」
「ダメだって! 単位落としちゃうし、昨日まで休んでたんだから今日はちゃんと行かなきゃ!」
私が慌てて体を起こそうとすると、涼香は「ふふ、仕方のない人ですね」と愛おしそうに微笑み、私の頬にそっと口づけを落とした。
「分かりました。私の大切な旦那様のご要望なら叶えて差し上げましょう。……ただし、今日の大学では、もう二度と私に『遠慮』などを求めないと約束してくださいね?」
「えっ……遠慮って……?」
「言葉通りの意味です♡ さあ、着替えもお顔を洗うのも、すべて私がお世話して差し上げますから」
◇
「……あの、涼香。本当にこれで大学に行くの……?」
校門の前で、私は自分の腕に伝わる重みと柔らかさに、顔が沸騰しそうなほど赤くなっていた。
涼香は私の右腕を自分の胸元へギュッと抱きかかえ、指先をすり抜けさせてしっかりと指と指を絡ませる『恋人繋ぎ』をしていた。
それだけではない。歩く距離はほぼゼロ。彼女の体の体温と、甘い柑橘系のアロマが四六時中私を包み込んで離さない。
すれ違う学生たちの視線が、昨日までの「不仲説」や「別れ話」の噂を一瞬で吹き飛ばすほどの激震とともに刺さってくる。
「つ、通り過ぎるみんなが二度見どころか三度見してるんだけど……!」
「見させておけば良いのです。昨日までくだらない噂を流していた哀れな虫どもに、私と樹くんの解けることのない絶対の絆を教え込んでいるだけですから」
涼香は堂々と胸を張り、学園中の男子学生を凍りつかせてきたあの『氷山美女』の凛とした笑みを浮かべた。
だが、私に向ける視線だけは、甘く蕩けるような情愛に満ち溢れている。
「夏目さん……!? え、昨日まで冷戦状態じゃなかったの……!?」
「どころか……前より距離感バグってないか……!?」
「見てよ、あの夏目さんが男子の腕に擦り寄ってる……っ! 完全にノックアウトされてるじゃん……!」
周囲の悲鳴と驚愕の囁き声を、涼香は心地よさそうに聞き流しながら、私を連れて講義棟へと突き進んでいく。
◇
「——はい、樹くん。今日の講義ノートです。ペンも握りやすいようにキャップを外しておきましたよ」
「あ、ありがとう、涼香……」
講義室の最前列。
涼香は私の隣の席にピタリと腰を下ろすと、まるで幼子を世話する母親か、あるいは愛おしいペットを可愛がる飼い主のように、手際よく私の授業の準備を整えていく。
「……あの、涼香。ノートは自分で書けるよ?」
「ダメです。樹くんは私の解説を聞きながら、私の隣で可愛らしくうなずいていれば良いのです。……それとも、私の作ったノートはお気に召しませんか?」
「そんなことない! すごく分かりやすくて助かるけど……っ!」
上目遣いでうるうると瞳を潤ませる涼香に、私は完全に降参するしかなかった。
彼女の過保護と独占欲は、あのすれ違いを経て『完全解禁』されたのだ。
私がどれだけ恥ずかしがろうと、周囲がどれだけ騒ごうと、彼女はもう私を甘やかす手を緩めるつもりなど毛頭ないらしい。
「ふふ、良い子ですね♡ 講義が終わったら、食堂で私のお手製お弁当を『あーん』で食べさせて差し上げますからね」
「講義室だけじゃなくて食堂でもやるの……!?」
「当然です。我が家のルールは『いかなる場所でも愛を隠さない』にアップグレードされましたから♡」
◇
昼休み。
3号館の食堂へ移動すると、そこにはすでに葵と白鳥先輩が陣取っていた。
「あ! お兄ちゃん! 涼香さん!」
葵が手を振るが、私たちの密着ぶりを見た瞬間、白鳥先輩とともにフリーズした。
「……ちょっと樹くん。仲直りしたとは聞いていたけれど、いくら何でも過保護の度が過ぎていないかしら?」
白鳥先輩が呆れ半分、羨ましさ半分の溜め息をつく。
「白鳥先輩。これが私たちの『日常』です。文句はお聞きしません」
涼香はフンと鼻を鳴らすと、重箱風のお弁当箱を広げ、手際よく卵焼きをピックに刺した。
「さあ、樹くん。お口を開けてください。あーん♡」
「っ……! 葵たちも見……」
「嫌なのですか……? 私の愛を受け取ってくれないのですか……?」
ウルウルと瞳を揺らす氷山妻。
向かいの席では、葵が「お兄ちゃん、観念して食べなよ~」とニヤニヤ笑い、白鳥先輩はスマホのカメラを無音で高速連写している。
「……あ、あーん」
観念して口を開けると、甘い出汁の効いた卵焼きが口内に広がった。
「……美味しい?」
「……すごく、美味しいです」
「ふふ♡ 偉いですね、樹くん!」
満足そうに微笑んだ涼香は、私の頭を優しく撫で上げ、そのまま私の頬にそっと自分の唇を重ねてきた。
「っ……!? ちゅ、チュッてした!? ここ学食だよ!?」
「夫婦のスキンシップに場所は関係ありません。……さあ、次はハンバーグですよ♡」
学食全体から「うわぁぁぁ……!」「甘すぎて直視できない……!」という絶叫と羨望の悲鳴が巻き起こる。
だが、私の腕を抱きかかえ、幸福そうに目を細める涼香の温もりに包まれながら、私は悟っていた。
もう、逃げ出すことなんてできない。
この過保護で、独占欲が強くて、愛おしい氷山妻の手の中で、私は一生、幸せなダメ人間として飼い慣らされていくのだと——。




