冷え切った雨と、剥き出しの狂おしい本心
◇
ガラ……と、静まり返った部屋に重い音が響く。
涼香が去った後の玄関には、彼女が愛用していた柑橘系のアロマの残り香だけが、冷たい空気の中にポツンと取り残されていた。
「……涼香……」
静寂が痛い。
二人で暮らすには広すぎるこの部屋が、まるで巨大な棺桶にでもなったかのように、私の体を冷たく冷やしていく。
机の上には、昨夜彼女が残していった鍵と、整えられた文字で書かれた置き手紙。
『樹くんへ。
今まで、私の我が侭に付き合ってくれてありがとうございました。
あなたを縛り付け、苦しめていたのは私です。
しばらくの間、頭を冷やします。……どうか、私のいない時間を自由に過ごしてください。』
「自由……かよ……」
掠れた声が暗闇に消える。
自由なんて、どこにもなかった。
涼香のいない部屋で迎える朝は、呼吸をするのも苦しいほどの孤独で満たされていた。彼女の甘い微笑みも、過保護な言葉も、あの柔らかい膝の温もりもない世界が、これほどまでに灰色の砂のように味気ないものだとは思いもしなかった。
◇
大学のキャンパスは、相変わらず冷たい秋雨に濡れていた。
「あ……樹」
3号館の廊下で、佐藤が心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「お前……顔色ヤバいぞ。それになんで一人なんだ? いつも夏目さんがピッタリくっついてるだろ?」
「……涼香は、今日……休んでるから」
「休み……? あの夏目さんが? お前を一人にして……?」
佐藤が言葉を詰まらせる。
すれ違う学生たちの視線が、いつもとは違う意味で痛いほど刺さる。
『ねえ、今日夏目さんいないよ?』
『喧嘩でもしたのかな……?』
『やっぱり、法学部の氷山美女と普通男子じゃ長続きしないって……』
噂話が耳に入るたび、胸の奥が冷たい刃物で削り取られていくようだった。
講義中も、ノートを取る手が止まる。
隣の空席を見つめるたび、あの日、この席で彼女が誇らしげに『私の夫です』と言い放った瞬間の輝きが、脳裏に焼き付いて離れない。
(俺が……俺の優柔不断さが、涼香を追い詰めたんだ)
(傷つけたくなくて、無理をさせたくなくて引いた一歩が、涼香には『拒絶』に見えたんだ……!)
罪悪感と後悔で、頭がおかしくなりそうだった。
◇
放課後。
土砂降りになった雨の中、私は濡れるのも構わずにサークル棟へと走った。
部室のドアを力任せに開けると、そこには白鳥先輩と葵が待っていた。
「……お兄ちゃん!?」
「やっぱり来たわね、樹くん」
白鳥先輩は原稿用紙から目を離し、いつになく真剣な表情で私を見つめた。
「涼香さんから連絡があったわ。『しばらく樹くんのフォローをお願いします』って。……あの子、自分の実家で部屋に閉じこもって、一度もご飯を食べていないそうよ」
「っ……! 涼香が……!?」
「お兄ちゃん、バカだよ!」
葵が怒りで肩を震わせ、私の胸をポコンと叩いた。
「涼香さんがなんであんなに過保護か、お兄ちゃん本当に分かってないの!? 涼香さんはね、お兄ちゃんが自分以外の女の子を見たり、自分から離れていったりするのが死ぬほど怖いんだよ! 高嶺の花なんて言われてても、お兄ちゃんの前ではただの寂しがり屋の女の子なんだよ!?」
「葵……」
「『無理をさせてる』なんて、お兄ちゃんの勝手な思い込みでしょ!? 涼香さんにとって、お兄ちゃんを甘やかして飼育すること自体が、生き甲斐で、一番の幸せなんだよ! それを拒絶されたら……涼香さん、死んじゃうよ……っ!」
葵の叫びが、私の胸を激しくぶち抜いた。
ハッとした。
頭を金槌で殴られたような衝撃。
そうだ。
私は「涼香のために」という綺麗な言葉で逃げていただけだ。
彼女の重すぎる愛情も、嫉妬も、過保護も、すべてを受け止める覚悟から逃げ出し、かっこつけて引いていただけだったのだ。
「……白鳥先輩、葵」
「行きなさい、樹くん」
白鳥先輩がタクシーのチケットを私に押し付けた。
「あの『氷山美女』の仮面を剥ぎ取って、ぐちゃぐちゃに甘やかしてあげなさい。……あなたの執着を見せてやりなさい!」
「……ありがとうっ!!」
私は土砂降りの雨の中へと飛び出した。
◇
夏目家の邸宅の前に到着した頃には、私は全身びしょ濡れになっていた。
インターホンを何度も鳴らし、出てきた使用人を押し通るようにして、私は涼香の部屋のドアの前へとたどり着いた。
「涼香!! 開けてくれ、涼香!!」
ドアを強く叩く。返事はない。ただ、室内からかすかに息を殺して泣く気配が伝わってくる。
「頼むから開けてくれ! 俺が悪かった! 俺がバカだったんだ!!」
「……帰ってください……っ!」
ドア越しに、鈴の割れたような切ない声が響いた。
「帰ってください、樹くん……っ! 私がいたら、あなたをまた苦しめてしまう……! 私の愛は病気なんです……っ! あなたを閉じ込めて、誰も見せないようにして、私の手の中でダメ人間にしないと安心できない……そんな醜い私と一緒にいたら、あなたは不幸になる……っ!」
「不幸になんかなるかよ!!」
私は扉に額を押し付け、喉が千切れるほどの声で叫んだ。
「ダメ人間でいいって言っただろ!? 涼香の重い愛じゃなきゃ、俺は満足できないんだよ!!」
「え……?」
「他の誰に甘やかされたって意味がない! 涼香の過保護じゃなきゃ嫌なんだ! 涼香の冷たい手も、甘いアロマも、嫉妬深い琥珀色の瞳も……全部俺のものなんだよ!! 自由なんていらない! 俺を涼香の手の中で、一生飼い慣らしてくれよ……っ!!」
ガチャン、と鍵の開く音が響いた。
ゆっくりと開いたドアの向こう。
そこには、目を真っ赤に腫らし、髪を乱した涼香が立っていた。
いつもの完璧な『氷山』の面影などどこにもない、剥き出しの愛に飢えた一人の少女。
「……本当……ですか……?」
「本当だ……! 俺を二度と放すな、涼香……っ!」
私が手を伸ばした瞬間、涼香は弾けたように私の胸へと飛び込んできた。
「樹くんっ……! 樹くんっ……!! うぁぁぁぁあんっ!!」
彼女の細い腕が、折れそうなほどの力で私の首に巻き付く。
濡れた服のことなど気にも留めず、涼香は私の胸に顔をうずめ、狂おしいほどの涙を流しながら叫んだ。
「嫌です……っ! 離したくありません……っ! あなたを誰にもあげたくない……っ! 私だけのものになって……私だけに甘やかされて、一生私の膝の上で死んでください……っ♡」
「ああ……喜んで!!」
重ね合わされた唇。
雨の冷たさを吹き飛ばすような、互いの命を貪り合う激しく狂おしい口づけ。
舌が絡み合い、甘い体温と吐息が混ざり合う。すれ違っていた期間の孤独と欲望が、爆発的な情熱となって二人の体を満たしていく。
「……はぁ……っ、樹くん……大好きです……愛しています……♡」
「俺もだ……涼香、俺の愛しい妻……」
涼香の琥珀色の瞳に、以前以上の濃厚で甘美な『執着の光』が宿る。
二人の間に走っていたひび割れは完全に消え去り、より一層強固で、歪で、逃れられない狂おしい愛の鎖へと昇華されたのだ。
「……お家に帰りましょう、樹くん。今夜は……朝まで、私から逃げられると思わないでくださいね♡」
雨上がりの空に、深々と甘い夜が訪れる。
二人の『過剰飼育』の新婚生活は、誰も引き裂くことのできない絶対的な愛とともに、新たな狂おしい章へと突入するのだった――!




