褪せゆく日常と、触れられない温もり
「……樹くん? どうしたのですか、そんなにぼんやりとして?」
講義室の窓から差し込む秋の夕日が、涼香の美しい琥珀色の瞳を黄金色に染めていた。
彼女は心配そうに私の顔を覗き込み、細く白い指先で私の頬にそっと触れようとして――その手が、ピタリと途中で止まった。
「……涼香?」
「……いえ。なんでもありませんよ」
涼香は胸の奥の痛みを押し殺すように、引きつった笑みを浮かべながら手を引っ込めた。
あの夜、お互いの重すぎる愛情と不安をぶつけ合い、深く抱き合ったはずだった。
「ずっと涼香だけのダメ人間でいる」と誓い、永遠の愛を確かに確かめ合ったはずだったのだ。
――なのに。
翌日から、私たちの間に走ったひび割れは、修復されるどころか静かに、そして確実に広がり続けていた。
「……今日の夕飯、何にしましょうか。樹くんの好きなハンバーグにしましょうか」
「うん……ありがとう、涼香。楽しみにしてる」
返事をする私の声が、どこか上滑りしているのを自分でも感じていた。
涼香の過保護な言葉、甘いアロマの香り、差し出される温かい手。そのすべてが、今の私にはなぜか「作られた優しさ」のように感じられてしまい、素直に受け止めることができなくなっていた。
あの日、涼香が涙ながらに口にした言葉が、毒のように私の頭から離れないのだ。
『私が妻という立場を利用して、あなたを私だけのものに縛り付けているのではないかと……考えたら、胸が潰れそうになるのです』
(涼香は、俺のために『理想の過保護な妻』を演じ続けてくれているんじゃないだろうか……?)
(本当は俺のお世話なんて負担で、自分の勉強や将来に集中したいのを、俺を失望させないために無理をして甘やかしてくれているんじゃないか……?)
一度芽生えた疑念は、冷たい霧のように私の心を覆い尽くしていった。
涼香が私に微笑むたび、「無理をさせている」という強い罪悪感が胸を締め付ける。
そして涼香もまた、私が一歩引いた反応を見せるたびに、「やっぱり重すぎたのだ」「嫌われてしまったのだ」と絶望を深めていく。
お互いを愛しすぎているが故に、相手を想う優しさが、鋭い刃となってお互いの心を削り削り削り取っていく。
すれ違う意図、深まる孤独。二人の距離は、繋いだ手の冷たさとともに遠のいていった。
◇
「……ただいま」
「お帰りなさい、樹くん」
二人のマンションに帰宅しても、以前のような温かい空気はどこにもなかった。
ダイニングテーブルに並べられた手作りの豪華な料理も、部屋に漂う柑橘系のアロマも、今の私たちにとっては息を詰まらせる檻でしかない。
「樹くん、今日もお疲れ様でした。……お風呂、沸いていますよ」
「あ、うん……ありがとう。先に入ってくるね」
私は涼香と目を合わせることができず、逃げるように浴室へと向かった。
背後に残された涼香が、どんな表情で私を見送っていたのか、確かめる勇気すら持てなかった。
脱衣所で服を脱ぎながら、ふと洗面台の鏡に映る自分の顔を見る。
目の下には隈ができ、疲弊しきった顔をしていた。
(何やってるんだろ、俺……。涼香を幸せにしたくて、ずっと一緒にいたくて大学まで来たのに……)
温かい湯船に浸かっても、冷え切った心の奥底までは温まらない。
お風呂を出てリビングに戻ると、部屋の明かりが落とされ、間接照明の薄暗い光だけが部屋を照らしていた。
ソファには、膝を抱えて小さくなっている涼香の姿があった。
「……涼香? 明かり、点けないの……?」
声をかけると、涼香の細い肩がビクッと跳ねた。
彼女はゆっくりと顔を上げたが、その瞳にはもう光が宿っていなかった。ぽろぽろと、涙が溢れ続けていた痕が美しい頬に残っている。
「……樹くん」
「っ……涼香、どうして泣いて——」
近づこうとする私を制するように、涼香は静かに首を振った。
その小さな拒絶の仕草に、私の足が氷ついたように止まる。
「……嘘をつくのは、もうやめましょう」
掠れた、今にも壊れそうな声だった。
「私……ずっと考えていたのです。あの日、樹くんが『ずっと側にいる』と言ってくれた時、本当に嬉しかった。でも……それからのあなたの顔を見ていると、分かってしまうのです」
涼香は小さく息を吐き、胸元をきゅっと掴みしめた。
「……私と一緒にいる時の樹くんは、ちっとも楽しそうじゃない。私の過保護を受け入れるたび、苦しそうな、申し訳なさそうな顔をしている……」
「ちがう! それは涼香が無理をしてるんじゃないかって心配で――」
「私も、無理をしています!」
涼香が叫んだ。
いつも冷静で、凛としていた彼女が、声を荒げて涙を流している。
「あなたに嫌われたくなくて、捨てられたくなくて……『完璧で過保護な妻』でいなきゃいけないって、毎日息が詰まりそうなのです! でも……それ以上に、私の存在があなたを苦しめていることが、耐えられない……っ!」
「涼香……」
言葉が出なかった。
お互いが相手のために「無理をして演じていた」という残酷な真実が、容赦なく突きつけられる。
愛しているのに。
世界で誰よりも大切で、かけがえのない存在なのに。
一緒にいればいるほど、お互いを傷つけ、擦り減らしていく。
「……樹くん」
涼香は涙を拭い、壊れた人形のような虚ろな笑みを浮かべた。
その笑顔が、どんな怒りや拒絶よりも深く、私の心を刺し穿つ。
「……一度、距離を置きましょう」
「え……?」
「私……明日から、実家へ戻ります。大学の講義も、しばらくは別々に受けましょう」
「待ってくれ涼香! なんでそうなるんだよ!? 二人で話し合えば――」
「話し合えば話し合うほど、樹くんは優しいから……私に気を遣って、また嘘をつくのでしょう!?」
涼香の声が痛切に響き渡る。
「私の……私の重すぎる愛情が、あなたを壊してしまう前に……私を、あなたの人生から切り離してください……」
涼香はそう言い残すと、自室へと駆け込み、ドアを固く閉ざしてしまった。
静まり返った暗いリビング。
ポツンと一人残された私は、冷たくなった床に膝をついた。
窓の外では、秋の冷たい雨が静かに降り始めていた。
二人で重ねてきた甘く温かい日々が、冷えた雨音の中に溶けて消えていく。
壊れてしまった私たちの関係をどう修復すればいいのかも分からないまま、孤独で残酷な夜が、深く重く更けていくのだった――。




