触れ合う体温と、すれ違う不器用な情愛
◇
完全復活を果たした学食でのあの大騒動から数日。
大学のキャンパスは少しずつ秋の深まりを見せ、敷地内の銀杏並木が鮮やかな黄色に染まり始めていた。
「……樹くん。今日の講義はこれで終わりですね。一緒に帰りましょう」
講義室の出口で待っていた涼香が、いつものようにふわりと優しく微笑む。
だが、私は彼女の琥珀色の瞳の奥に、ほんのわずかな影が差しているのを見逃さなかった。
ここ最近、涼香はどこか様子がおかしかった。
相変わらず私を過保護に扱い、身の回りの世話を焼き、甘やかしてくれる。けれど、ふとした瞬間に視線を泳がせたり、私が他の女子学生と挨拶を交わしただけで、以前なら堂々と介入してきたはずの彼女が、どこか切なそうな目でじっと私を見つめるだけだったりするのだ。
「……うん、帰ろうか。涼香」
手を繋いで歩く帰り道。
秋の少し冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。涼香の手はいつになく冷たく、握り返す力もどこか弱々しい。
「……涼香、何か悩んでることでもある? 最近、少し元気がなさそうに見えるけど……」
思い切って尋ねてみると、涼香は一瞬ハッとしたように目を見開いたが、すぐにいつもの完璧な『氷山美女』の微笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ、何もありませんよ。樹くんが元気になってくれたことが、私にとって最大の幸せなのですから」
そう言って微笑む彼女の横顔は、どこか遠くを見つめているようで、私の胸をキュッと締め付けた。
◇
その夜。
夕食を終え、二人でリビングのソファに並んで座っていた。
テレビからは静かなニュース番組の音声が流れている。いつもなら、涼香が私の膝の上に頭を乗せて甘えてきたり、耳かきやお世話をしてくれようと積極的にスキンシップを求めてくる時間だ。
しかし今夜の涼香は、私の隣に座ってはいるものの、拳一つ分の距離を開けたまま、静かに温かい紅茶のカップを両手で包み込んでいた。
「……涼香」
「……はい、何でしょう、樹くん?」
「やっぱり、おかしいよ」
私は逃がさないように、彼女の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。
「俺に隠し事してるでしょ。大学でもそうだし……今だって、こんなに距離を開けてる。俺、何か涼香の気に障ること言ったり作ったりした……?」
私の言葉に、涼香の手がかすかに震えた。
彼女は静かにカップをローテーブルに置くと、膝の上で細い指をきつく握りしめた。美しい長い睫毛が伏せられ、影を落とす。
「……気に障ることなど、あるわけがありません」
「じゃあ、なんで——」
「……怖いのです」
ぽつりと漏れ出た声は、消え入りそうなほど小さく、震えていた。
「え……?」
「怖いのです、樹くん……。私がこうしてあなたを独占し、過剰に甘やかし、自分の手の中に閉じ込めようとすればするほど……いつかあなたが、私の重すぎる愛に愛想を尽かしてしまうのではないかと……」
涼香は顔を上げないまま、ポロポロと大きな涙を瞳から溢れさせ始めた。
「学食で……あなたが私に『あーん』をしてくれた時、とても嬉しかった……狂おしいほど幸せでした。でも、それと同時に思ったのです。樹くんは私を喜ばせるために、無理をして合わせようとしてくれているのではないか、と」
「そんなこと——」
「高校時代からずっと、私は自分の欲望のままにあなたを過保護に飼育してきました。……でも、ここは大学です。あなたはもっと自由に、色んな人と関わり、色んな世界を知ることができるはずなのに……私が『妻』という立場を利用して、あなたを私だけのものに縛り付けているのではないかと……考えたら、胸が潰れそうになるのです……っ」
涼香の肩が激しく上下する。
『全校生徒に恐れられた元副会長』でも、『誰からも憧れられる法学部の氷山美女』でもない。
目の前にいるのは、ただ一人の男を愛しすぎるが故に、己の醜い独占欲と不安に苛まれ、泣きじゃくる不器用で可憐な一人の少女だった。
彼女の「過保護」は、決して単なる自己満足や余裕からくるものではなかったのだ。
「私から離れていかないでほしい」という、痛いほどの切実な恋心と裏表の感情だったのだと、私は今更ながら気づかされた。
「……涼香」
私は開いていた拳一つ分の距離を詰め、彼女の華奢な体を強く、強く抱きしめた。
「っ……樹、くん……?」
「バカだな……本当にバカだよ、涼香」
彼女の頭を優しく撫でながら、耳元で言葉を紡ぐ。
胸の奥から湧き上がる温かい愛おしさが、私の声に情熱を宿らせていくのを感じた。
「無理なんて一回もしたことないよ。学食でのあーんも……甘やかされてダメ人間になっていくのも……全部、俺が涼香の側に行きたいからやってることなんだ」
「で、ですが……私の愛は重すぎます……! あなたの自由を奪って——」
「自由なんていらないよ、涼香の側を離れるくらいなら!」
はっきりと告げた言葉に、涼香の体がピクリと跳ねた。
「俺は、涼香に過保護に甘やかされるのが大好きなんだ。涼香の温かい膝の上も、甘い香りも、俺だけに向けられる重すぎるくらいの愛情も……全部、俺にとって一番心地いい居場所なんだよ」
私は彼女の細い肩を抱き寄せ、涙に濡れた美しい顔を覗き込んだ。
琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように揺れている。
「だから……不安にならないで。俺を縛り付けていいよ。涼香の独占欲も、過保護も、全部俺が受け止めるから。……俺を、ずっと涼香だけのダメ人間でいさせてくれ」
「っ……あ……うぁ……っ……!」
涼香の目から、堰を切ったように新しい涙があふれ出した。
彼女は小さな子供のように私の胸に顔をうずめ、私の服の裾を両手でギュッと掴み返してきた。
「樹くん……樹くん……っ! 大好きです……っ、誰にも渡したくありません……っ!」
「うん……俺もだよ、涼香。大好きだ」
二人の体温が重なり合い、深くて切ない愛の情熱がリビングを満たしていく。
すれ違いかけていた心が、より一層強く、深く結びついた瞬間だった。
涼香は涙を拭うこともせず、顔を持ち上げると、蕩けるような情愛を宿した瞳で私を見つめた。
「……誓ってください、樹くん」
「なにを?」
「一生……私の手の中から逃げ出さないと。私だけに甘やかされ続けると……」
「……ああ、誓うよ」
誓いの言葉とともに、どちらからともなく唇を重ね合わせた。
今までのどの口づけよりも甘く、深く、お互いの存在を確かめ合うような長い口づけ。
涼香の舌先がそっと私の唇を割って割り込み、甘い体温と吐息が溶け合っていく。
彼女の過保護な愛寵は、私の心だけでなく、全身の理性を優しく溶かしていった。
「……ふふ、捕まえましたよ、私の可愛い旦那様♡」
唇を離した涼香は、涙の痕を残したまま、世界で一番美しい雪解けの笑みを浮かべた。
二人きりの夜の静寂の中で、私たちは互いを強く抱きしめ合いながら、確かな愛の余韻に深く浸っていくのだった——。




