図書館の静寂と、二人だけの密約
◇
日曜日の午後。
秋の心地よい風が吹き抜ける大学のキャンパスは、平日の賑やかさが嘘のように穏やかな静寂に包まれていた。
「……ふう。ここなら、さすがに静かで落ち着くね」
私は中央図書館の最上階にある閲覧席で、深く息を吐いた。
天井まで届く大きな本棚に囲まれたこのエリアは、休日ということもあって利用者の姿もまばらだ。平日あれほど悩まされた全校生徒からの痛いほどの視線から解放され、ようやく心が安らぐのを感じる。
「ええ。ですが、私にとっては少し物足りませんね」
向かいの席に座る涼香が、厚い法学の専門書から顔を上げ、琥珀色の瞳を少しだけ細めた。
本日の彼女は、柔らかいアイボリーのニットにチェック柄のロングスカートという清楚な装い。眼鏡を軽く押し上げる仕草は、まさに知的で高嶺の花そのものだ。
「物足りないって……涼香、平日のあの騒ぎで懲りてないの? どこに行っても『正妻宣言の夏目さんだ』ってヒソヒソ噂されてるんだよ?」
「噂など好きに言わせておけば良いのです。……それよりも」
涼香はスッと立ち上がると、足音を立てずに私の隣の席へと移動してきた。
そして、当然のような顔をして私との隙間をゼロにする距離までぴったりと身を寄せた。
「り、涼香……!? ここ、図書館だよ? 隣の席、空いてるでしょ……!」
「声が大きいですよ、樹くん。図書館ではお静かに」
人差し指を自分の綺麗な唇に当てて「しー」と囁く涼香。
……いや、静かにさせたいなら自分から離れてほしいのだが!
彼女の肩と私の腕が触れ合い、ニット越しに伝わる温もりと、いつもの心地よい柑橘系のアロマが鼻腔をくすぐる。私の一卵性心臓がトクトクと激しく脈打ち始めた。
「私はですね、周囲の視線よりも……樹くんとの距離が離れていることの方が耐えられないのです」
「なっ……」
「平日は講義室でも食堂でも、周りの目が気になって私に素直になってくれませんでしたから。休日の今日くらい、私に甘えさせてくれても罰は当たりませんよ?」
真顔で恐ろしいほどの甘いセリフを言い放つ妻。
元・生徒会副会長としての凛とした威厳はどこへやら、今の彼女は完全に『愛しい夫を独占したい少女』そのものだった。
◇
「……はい、樹くん。集中が切れた顔をしていますね。ノートの文字が躍っていますよ」
「だ、誰のせいだと思ってるんだよ……」
小声で抗議するものの、涼香は「ふふ」と嬉しそうに微笑むだけだ。
彼女は自分のバッグから小さなプラスチックケースを取り出すと、パカッと蓋を開けた。中には綺麗に切り分けられた一口サイズのガトーショコラが入っている。
「……これ、お家で作ってきてくれたの?」
「ええ。樹くんが図書館で勉強すると言っていたので、疲れた時の糖分補給用に焼いておきました。ほら、口を開けてください」
「えっ、ここで!? だから図書館だってば……!」
「大丈夫です。今は周りに誰もいません。……さあ、あーん♡」
涼香はピックで刺したガトーショコラを私の口元へと差し出してきた。
上目遣いで私を見つめる琥珀色の瞳には、断ることなど許さないという強い愛寵の光が宿っている。
ここで拒否すれば、彼女は「私のお菓子はお口に合いませんでしたか……」と悲しそうな表情を作り、私を更なる罪悪感のどん底に叩き落とすに違いない。私は観念して、ゆっくりと口を開けた。
「……あーん」
パクリと口に含むと、しっとりとした濃密なチョコレートの甘さと芳醇なバターの香りが口いっぱいに広がった。
「……美味しい。すごく濃厚で絶品だよ、涼香」
「ふふ、良かったです♡ 樹くんの『あーん』が見られたので、私も法学のレポートを書き上げる元気が湧いてきました」
満足そうに微笑んだ涼香は、あろうことか、私がかじったピックをそのまま自分の口へと運び、残っていた小さなひとかけらをパクリと食べた。
「っ……!? り、涼香!? それ、間接キス……!」
「夫婦の間で何を今更言っているのですか? ……それとも、樹くんは私と唇を重ねる方がお好きでしたか?」
「そ、そういう意味じゃなくて……!」
真っ赤になって狼狽する私を見て、涼香はクスクスと喉を鳴らして笑う。
完全に彼女の掌の上で転がされている。高校時代から何一つ変わらない構図だが、今の彼女からは隠すことのない『妻としての過剰な愛情』が溢れ出ていて、私の理性を容赦なく削り取っていく。
◇
それから一時間ほど、私たちは二人並んで課題と勉強に集中した。
静まり返った閲覧室に、ペンが紙を走るカリカリという音と、ページをめくる音だけが響く。
(……ふう、なんとか区切りがついたぞ)
キリの良いところまで課題を終わらせ、私は軽く肩を回して息をついた。
隣を見ると、涼香もノートパソコンを閉じ、優雅に背伸びをしているところだった。ニットの生地が胸の美しいラインを強調し、私は慌てて視線を逸らした。
「樹くん、課題は終わりましたか?」
「うん、なんとか目標のところまでは出来たよ」
「偉いですね、樹くん。さすが私の自慢の旦那様です♡」
涼香はそう言うと、私の頭をそっと撫でてくれた。
柔らかい指先が髪をすり抜ける心地よさに、私は思わず目を細めてしまう。……危険だ、本当に彼女の手に手なずけられ、ダメ人間にされていく感覚がある。
「ねえ、樹くん。帰る前に……一つだけ、私のお願いを聞いてくれませんか?」
「お願い……? なに?」
涼香は周囲をサッと見回すと、誰もいないことを確認してから、私の耳元にそっと唇を寄せた。
温かい吐息が耳たぶをかすめ、背筋にゾクゾクとした快感が走る。
「……今日はこの後、二人で新しく出来たショッピングモールに行きませんか? 樹くんの秋服を、私が選んで差し上げたいのです」
「俺の服……? でも、服くらい自分で買えるよ?」
「ダメです。樹くんのお召し物は、私が全身コーディネートして、私好みの格好になっていただかなければ困ります。……それに」
涼香はそっと私の手を引き、テーブルの下で指と指をきつく絡め合わせた。
「二人でデートがしたいのです。……大学ではなかなか二人きりになれませんから」
琥珀色の瞳に宿る、少しだけ寂しそうな、そして切実な愛おしさ。
そんな表情を見せられて、拒否できる男がこの世にいるだろうか。いや、いるはずがない。
「……分かったよ。一緒に買いに行こう、涼香」
「……っ! ええ、ありがとうございます、樹くん……♡」
花が咲くような満面の笑みを浮かべる涼香。
その神々しいほどの美しさに、私の胸はギュッと締め付けられた。
図書館を出て、秋の爽やかな風が吹く街へと繰り出す二人。
指をしっかりとお互いに絡ませたまま歩く私たちの姿は、どう見ても仲睦まじい新婚夫婦そのものだった。
「過保護で、独占欲が強くて、氷山妻な彼女」との新生活。
振り回されてばかりの毎日だけど――この甘くて温かい束縛から逃れたいなんて、私はもう、これっぽっちも思っていなかったのだ——。
このストーリーや登場人物について、さらに展開したいシチュエーションや気になる設定はありますか?




