手作りスイーツと、夜の甘い秘密
◇
夕食の特製カレーを食べ終え、食洗機の心地よい稼働音が静かなダイニングに響いていた。
「ふう……美味しかった! 涼香のカレーは本当に絶品だなあ」
「ふふ、樹くんに喜んでもらえて何よりです。……さて、約束のお菓子作りを始めましょうか」
涼香はエプロンの紐をギュッと結び直すと、どこか凛とした表情でキッチンカウンターに立った。その佇まいは、高校時代に生徒会室で書類の山を処理していた副会長そのものだ。
「今日は何を作るの?」
「クッキーですよ。型抜きクッキーなら、樹くんと一緒に楽しく作れますからね」
涼香が冷蔵庫と棚から手際よく材料を取り出していく。
バター、グラニュー糖、卵、そして小麦粉。すでに完璧に計量されたボウルが並べられており、彼女の几帳面さが窺えた。
「すごいな……もう全部準備してあったんだ」
「当然です。樹くんと過ごす時間を、準備の手際で無駄にするわけにはいきませんから。……さあ樹くん、手洗いを済ませたら、まずこのバターを練ってください」
「うん、分かった!」
手袋をはめ、木ベラを手に取って作業を始める。
室温に戻されたバターは程よく柔らかく、力を入れると滑らかに潰れていく。
「上手ですよ、樹くん。力の入れ方がとても筋が良いです♡」
「そうかな? 単に混ぜてるだけだけど……」
「いいえ、樹くんが心を込めて混ぜているのが伝わってきます。ふふ、私のお手伝いをしている樹くんの姿……動画に収めておきたいくらい愛くるしいです」
「なっ……! 頼むから撮らないでよ!?」
真っ赤になる私を見て、涼香は琥珀色の瞳を小さく細めて楽しそうに笑う。
彼女はグラニュー糖を少しずつ加えながら、手際よく泡立て器を回していく。
「次は卵黄ですね。ゆっくり混ぜ合わせていきましょう」
涼香が私の背後に回り込み、私の手の上から自分の白く繊細な手をそっと重ねてきた。
ふわリと広がる柑橘系の香りと、彼女の甘い体温。
「り、涼香……? これじゃ混ぜにくいんだけど……」
「いいのです。これは共同作業ですから。二人で愛を込めて生地を捏ねることに意味があるのです」
「愛って……ただのクッキー作りでしょ!?」
「ただのクッキーではありません。『私たち夫婦の共同制作』です♡」
耳元で甘く囁かれ、私の手元が狂いそうになる。
彼女の柔らかい体躯が背中にぴったりと密着しており、呼吸をするたびにその温もりが伝わってくる。これでは集中できるわけがない。
◇
「——よし! 綺麗に伸びたね!」
数分間の甘い攻防を経て、打ち粉をした台の上に平らに伸ばされた生地が完成した。
冷蔵庫で少し休ませた生地は、扱いやすい硬さになっている。
「ええ、完璧な出来栄えです。では、好きな型で抜いていきましょう」
涼香が差し出してきた型抜きを見て、私は思わず噴き出しそうになった。
「……ねえ涼香、この型抜き、ハート型と『猫』の型しかないんだけど」
「何か問題でも? ハートは私たちの愛の象徴、そして猫は……私の中で可愛らしく甘えてくる樹くんのイメージです」
「俺は猫じゃないって……」
苦笑しつつも、私は猫の型を手に取り、生地に押し当てていく。
カチャン、と心地よい音とともに、可愛らしい猫のシルエットがくり抜かれた。
「あら、樹くんの抜いた猫ちゃん、とても上手にできていますね。では、私はハート型を……」
涼香は真剣な眼差しで、生地の隙間を埋めるように整然とハート型を抜いていく。その集中力たるや、まるで法学部での難解な判例を分析しているかのようだ。
「よし、これで天板がいっぱいになったね」
「ええ。オーブンに入れて、十五分ほど焼きましょう」
予熱の完了したオーブンに天板を滑り込ませ、スイッチを押す。
しばらくすると、香ばしいバターと甘い砂糖の香りがキッチン全体を満たし始めた。
◇
「……ふふ、焼けましたよ、樹くん」
オーブンから取り出された天板の上には、綺麗なきつね色に焼き上がったクッキーがずらりと並んでいた。
「うわぁ、すごく良い匂い! 美味しそう!」
「熱いので気を付けてくださいね。……さあ、冷めるまで少し待ちましょう」
焼き上がったクッキーを網の上に移し、少し冷ました後、二人はリビングのソファへと移動した。
ローテーブルの上には、焼きたてのクッキーと、涼香がいれてくれた温かい紅茶が用意されている。
「それじゃあ……いただきます!」
私はサクッと猫型のクッキーを一口かじった。
口いっぱいに広がる芳醇なバターの香りと、優しい甘さ。絶品だ。
「美味しい! 涼香、これすごくサクサクしてて最高だよ!」
「お口に合って良かったです。……ふふ、樹くん。口元にクッキーのくずがついていますよ?」
「えっ、本当? どこ——」
手で拭おうとした瞬間、涼香の顔が目の前に迫ってきた。
「ん……っ♡」
唇の上に、柔らかく温かい感触が触れる。
涼香は私の口元のくずを、自分の唇でそっと掠め取るようにして奪っていったのだ。
「……っ!? り、涼香……っ!?」
「ふふ、ごちそうさまでした。とても甘くて美味しいクッキーですね♡」
悪戯っぽく微笑みながら、唇をペロッと舐める涼香。
その艶やかな仕草に、私の心臓は爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされた。
「な、なんてことするんだよ……! 恥ずかしすぎるだろ……!」
「夫婦間でのスキンシップです。何も恥ずかしがることはありません。……それに、まだ『お返し』をいただいていませんし」
「お返し……?」
疑問を口にする隙すら与えられず、涼香は私の胸に飛び込むようにして抱きついてきた。
二人分の体がソファの上に倒れ込み、私が下に、涼香が上になる体制になる。
「……樹くん」
琥珀色の瞳が、すぐ間近で私を見つめている。
昼間の厳格な『氷山美女』の面影はどこにもなく、そこにはただ、愛しい夫を求める一人の少女の瞳があった。
「今日一日、大学で周りの視線に耐えて頑張ってくれた樹くんに……もっと特別な『ご褒美』を差し上げます」
「ご褒美って……涼香、顔が近い……っ」
「逃がしませんよ。今夜は朝まで、私の腕の中でたっぷり可愛がられていてくださいね♡」
涼香の柔らかい指先が私の髪に絡みつき、二度目の、今度は深く甘い口づけが交わされる。
香ばしいクッキーの香りと、彼女の甘い体温。
キャンパスでの噂や好奇の視線など、今の私にはどうでもよくなっていた。
ただただ、私を過保護に愛してくれる最愛の妻の腕の中で、私は幸せな甘い毒に溶かされていくのだった——。




