『正妻』の余波と、キャンパスの日常
◇
昨日の大騒動から一夜が明け、大学のキャンパスはいつも通りの爽やかな朝の空気に包まれていた。
……と言いたいところだが、現実は甘くない。
「あ、見て……あの男の人じゃない?」
「昨日、夏目さんに膝枕されてた人……!」
「嘘でしょ、本当にあの『法学部の氷山』を仕留めたの……?」
校門をくぐった瞬間から、すれ違う学生たちのひそひそ声が耳に届いてくる。
視線が痛い。痛すぎる。私は思わずフードを深めにかぶり、うつむき加減で歩幅を速めた。
「……樹くん。そんなに猫背になって歩いていては、腰を痛めてしまいますよ?」
すぐ隣から、鈴の転がるような美声が降ってくる。
整った制服風のブラウスにミモレ丈のスカートをなびかせ、颯爽と並んで歩くのは、もちろん我が妻・夏目涼香だ。
その透き通るような美貌と堂々とした立ち振る舞いは、周囲の好奇の視線などまるで存在しないかのように洗練されている。
「涼香は平気なの……? こんなに注目されてるんだよ……?」
「平気も何も、事実を事実として公表しただけですから。それに……」
涼香はふっと歩みを止めると、私の腕に自分の細い腕をキュッと絡めてきた。
柔らかい感触と、いつもの甘い柑橘系のアロマが鼻腔をくすぐり、私の心臓が跳ね上がる。
「こうして腕を組んで歩いていれば、樹くんに変な虫がつく心配もありません。私にとっては好都合以外の何物でもありませんよ」
「む、虫って……俺に寄ってくる女子学生なんて最初からいないって……」
「甘いです、樹くん。あなたは自分の魅力を理解していなさすぎます。……高校時代から、あなたの優しさに救われていた人間がどれだけいたか、私はすべて把握しているのですよ?」
琥珀色の瞳がジロリと私を見つめ、小さな唇が不満そうにへのある字を描く。
大学に入っても、彼女の『過剰な独占欲』と『重すぎる愛情』は健在どころか、ますます研ぎ澄まされているようだ。
「とにかく! キャンパス内ではもう少し控えめに……」
「嫌です。夫婦なのですから、仲良く歩くのは当然の権利です」
毅然と言い放つ涼香に、私はぐうの音も出ない。
結局、私は真っ赤な顔をしたまま、彼女に腕を引かれるようにして文学部の講義棟へと向かうのだった。
◇
「——というわけでさ! 昨日の掲示板のトレンド、1位から3位まで全部『夏目涼香』と『謎の文学部男子』で埋まってたんだぞ!?」
3号館の食堂。昼休みの喧騒の中で、友人の佐藤が身を乗り出して熱弁を振るっていた。
目の前のうどんをすする私を、呆れたような、それでいて羨ましそうな目で見つめている。
「お前さ……高校時代から『涼香さんとは幼馴染で~』とか言ってたけど、まさか本当に結婚してるとは思わないじゃん! 嘘だろ!? あの氷山美女だぞ!?」
「いや、嘘言っても仕方ないだろ……。本当に婚姻届提出してるし……」
「嫉妬で狂いそうだわ! 法学部の連中なんて、昨日今日で息息息絶え絶えだぞ。『俺たちの夏目さんが……』って悲鳴が聞こえてくるんだからな!」
佐藤が誇張気味に頭を抱える。
確かに、涼香は入学早々その圧倒的な容姿と頭脳で『法学部の氷山姫』として有名になっていた。そんな彼女が『私の夫』と宣言したのだから、大学内に激震が走るのも無理はない。
「……でも、樹」
「ん?」
「お前、大丈夫か? 夏目さん、マジで過保護すぎるって噂だけど……昨日も講義室で膝枕させてただろ?」
「うっ……それは、その……」
昨日の出来事を思い出して、頬がカッと熱くなる。
「なんか、お前が夏目さんに甘やかされすぎて『ダメ人間化』させられてるんじゃないかって、一部で心配されてるぞ」
「心配って、誰にだよ……」
「白鳥先輩のサークルの連中とか、葵ちゃんの友達とか」
(白鳥先輩と葵の仕業か……!)
頭を抱えたくなったその時、背後からスッと冷気が漂ってきた。
「——誰が誰をダメ人間にしているとおっしゃいましたか?」
氷のように冷ややかな、しかしどこか甘みを帯びた声。
振り返ると、そこにはお弁当箱を手にした涼香が立っていた。背後になにか恐ろしいオーラを纏っているように見えるのは気のせいだろうか。
「ひっ……! な、夏目さん!?」
佐藤が跳び上がらんばかりに驚き、椅子を引く。
「佐藤くん。樹くんはダメ人間などではありません。私の大切な夫であり、私が世界で一番愛し、甘やかす権利を持つお方です。……何か文句でも?」
「い、いえ! 全くございません! 幸せそうで何よりです!」
佐藤は脱兎のごとく逃げ出していった。残されたのは、私と、微笑みを浮かべた涼香の二人だけだ。
「……もう、佐藤を脅かさないでよ」
「事実を訂正しただけです。……それより樹くん、今日もお弁当を一緒に食べましょう。ほら、空いている席へ行きましょうか」
涼香は私の隣に腰を下ろすと、丁寧に包まれたお弁当箱を開けた。
中には、色彩豊かなおかずと、綺麗に丸められたおにぎり。そして、卵焼きは私の大好きな甘い味付けのものがぎっしりと詰まっている。
「はい、樹くん。まずは卵焼きからどうぞ。あーん♡」
「こ、ここ学食だよ!? 周りに人がたくさん……!」
「関係ありません。さあ、口を開けてください。……それとも、私に恥をかかせるのですか?」
上目遣いでうるうると瞳を潤ませる涼香。
元・副会長の圧倒的なカリスマ性と、甘え上手な妻としてのギャップ。これに勝てる人間がこの世に存在するだろうか。いや、存在しない。
「……あ、あーん」
意を決して口を開けると、涼香は嬉しそうに微笑み、卵焼きをそっと私の口へと運んでくれた。
口の中に広がる出汁と砂糖の優しい甘さ。
「……美味しい?」
「……すごく、美味しいです」
「ふふ、良かったです♡ 午後の講義も頑張れますね」
満足そうに微笑む涼香を見て、周りの学生たちが「うわぁ……」と溜め息を漏らすのが分かった。
こうして、私の『氷山妻に甘やかされ尽くすキャンパスライフ』は、否定する間もなく着々と定着していくのだった。
◇
放課後。
講義を終えた私は、涼香と待ち合わせて一緒に帰路についた。
夕日が街並みをオレンジ色に染め上げ、二人の影が長々とアスファルトに伸びている。
大学の敷地を出ると、周囲の視線も幾分か和らぎ、ようやく肩の力を抜くことができた。
「……ふう。今日はなんだか一週間分くらい疲れたよ」
「お疲れ様でした、樹くん。大学という新しい環境は、予想以上に体力を消耗するものです」
涼香はそう言うと、そっと私の手を握りしめてきた。
指と指を絡ませる、恋人繋ぎ。
「でも、樹くんが頑張っている姿を見られて、私はとても誇らしかったです」
「俺、何もしてないよ。ただ周りに圧倒されてただけだし……」
「そんなことはありません。私からの過剰な愛情をしっかり受け止めてくれました。それだけで、樹くんは十分立派です」
さらりと恐ろしいことを言う涼香だが、その横顔はどこまでも優しく、暖かかった。
「ねえ、樹くん。今夜は何が食べたいですか? 樹くんの好きなもの、何でも作って差し上げますよ」
「うーん……じゃあ、涼香の作ったカレーが食べたいかな」
「まあ! ふふ、分かりました。とびきり美味しい特製カレーにしましょうね。隠し味に、私の愛をたっぷり込めて……♡」
「隠し味じゃなくてメインになりそうだな……」
二人の軽やかな会話が、夕暮れの街に溶けていく。
大学に入り、二人の関係は『隠された秘密』から『公認の夫婦』へと変わった。
周りからの視線や噂話にはまだ慣れないけれど――こうして二人で手を繋ぎ、同じ家に帰り、同じご飯を食べる。
その当たり前で特別な日常が、私にとって何よりも愛おしく、かけがえのないものなのだと実感する。
「……あ、そうだ。樹くん」
「なに?」
「今夜はカレーを食べた後、一緒に甘いお菓子を作りませんか? 葵ちゃんから『お兄ちゃんは甘いものに目がない』と聞きまして」
「葵のやつ、余計なことを……。でも、お菓子作りか。いいね、一緒にやろう」
「ええ! ふふ、楽しみですね……♡」
嬉しそうに微笑む涼香の手を、私は少しだけ強く握り返した。
甘くて、過保護で、少しだけ騒がしい。
私たちの新しい新婚生活は、まだまだ始まったばかりだ――!




