第三十四話:ストリート・レクイエム・神戸大氾濫
夜の山底に敷かれた冷たいアスファルトの上に、智規さんは力なく座り込んでいた。右肩を射抜いた博雅の黄金の矢はすでに消え去っていたが、そこから滴る生々しい赤だけが、街灯の歪んだ光にレンダリングされている。
その男の前に、現当主・博臣さんがゆっくりと歩み寄り、ただの不器用な一人の『兄』の顔になって静かに視線を落とした。
「智規……お前がそこまで抱え込んでいたバグ(劣等感)に、兄として気づいてやれんで、すまんかった」
静かだけど、夜の静寂をすべて押し潰すような重いログだった。
だけど、智規さんはそれに対して、何も言わなかった。言い訳のパケットを吐き出すことも、兄を罵倒するコードを走らせることもなく、ただ眼鏡の奥の瞳を伏せたまま、深く、深く沈黙を守り続けた。裏世界のドロドロしたシステムエラーなんて、結局は言葉にしたところで一ビットの救いにもなりゃしねえんだわ。
やがて、保憲が手配した本物の兵庫県警の車両が静かに滑り込んできて、智規さんの両腕に冷たい手錠がかけられた。
パトカーのリアドアが開けられ、連行されるその間際だった。
智規さんはふと足を止め、振り返って、涙で視界をボロボロにしている博雅をじっと見つめた。その眼鏡の奥の瞳には、狂気のエラーカラーなんてどこにも残っていなかった。薬物の呪縛が完全に剥がれ落ちた、かつて博雅を抱き上げて笑っていた、本来の優しい叔父のテクスチャがそこにあった。
「博雅……お前のその黄金の氣、やっぱり天使みたいやなぁ……」
智規さんはそれだけを伝えると、静かに、本当に穏やかな笑顔を浮かべて、パトカーのシートへと滑り込んだ。バタン、と重いドアの音が響き、赤色灯の波の中に叔父のログは消えていった。
「……ぐっ、うあぁぁぁ……ッ!!」
博雅がアスファルトに両膝をついて、子供みたいに声を上げて泣きじゃくる。道満がその隣で静かに寄り添い、俺は胸のポケットからジッポを抜き出し、カチャリと冷たい金属音を響かせた。
終わったんだ。どれだけ泥沼のトラブルだろうが、ストリートのルールに則って、一応のタスクは完了した。そう思って、タバコに火を点けようとした、まさにその時だった。
――スマートフォンのバイブレーションが、保憲の指先を不気味に震わせた。
画面を引き出すまでもない。保憲が、血相を変えて俺たちの元へと駆け込んできたんだ。あのいつも冷静な生徒会長が、完全に処理落ち寸前の、余裕をデリートされた顔をして絶叫を上げやがった。
「安倍君! 泰臣さん! ぐずぐずしている暇はない、今すぐ新快速をハックしてでも神戸に戻るぞ!!」
「……あ? 何言うてんねん会長、神戸はさっき親父が言うた通り、うちの母ちゃんが七本目解放して留守番しとるから安全やろ」
「違うんだ! その葉子さんの妖気のせいで大変なことになっているんだ!!」
保憲がスマートフォンの画面を俺の網膜へと突きつける。そこにレンダリングされていたのは、衛星スキャンが捉えた、神戸の街全体を真っ赤なエラーノイズで完全に塗りつぶす、見たこともない圧倒的なエネルギー波形だった。
『……加茂家と土御門家のメインサーバーが、たった今、神戸の全域から発信された特級の妖気コードを検知した。智規を囮にしたコレクターの別働隊が神戸にログイン(侵入)した形跡があるんだが……それを迎撃している葉子さんの七本目の妖気が強大すぎて、神戸の霊的防衛システム(地脈)が完全にオーバーヒートを起こしている! 街全体の電子機器や気象ログまでバグり始めて、今まさに大変な騒ぎになっているんだ……っ!!』
「――ッ!?!?!」
その最悪にマヌケな追報が脳内を完全に上書きした瞬間、俺の咥えタバコがアスファルトの上へと力なく落ちた。五芒星のジッポの炎が、夜風にかき消される。
なぁ、あんたならどう思う?
姫路の心霊スポットを命がけでデバッグして、ようやく最悪の家族の因縁をクローズしたと思ったその瞬間にさ。留守番を頼んだ俺の母ちゃんがフルパワーで暴れまくったせいで、俺たちの生きる本拠地(神戸)の街全体が、文字通り物理的に大パニックに陥りかけてるんだわ。親父の夜の営みの副産物で、街が一つ消し飛びかけてるんだぞ。
「……やりたかないねー、ホンマによー! 終わらねえタイムアタックの次は、母ちゃんの強制シャットダウン(機嫌取り)のラストバトルかよ……! 行くぞ道満、博雅! 神戸のドメインが、あの人の怒りで完全に更地にされる前に、大急ぎで回線を閉じに戻るぞッ!!」
俺たちは涙を拭った博雅を引っ張りあげ、武上組のセダンへと飛び乗ると、深夜の国道を、コレクターの残党ごと街を消し飛ばそうとしている無敵の九尾の狐(母ちゃん)が待つ、神戸の街へと向けて、限界突破の速度でアクセルを踏み込ませた。




