何にもない一日
朝、目が覚めた。
誰もいない部屋。静かで、少しだけ冷たい空気。
天井を見たまま、しばらく動けなかった。
――今日は、何をすればいい。
答えは出ない。
今までは考える必要がなかった。
起きて、装備を整えて、戦う。
それだけで一日が終わっていた。
でも今日は違う。
何も決まっていない。何もない。
ゆっくりと起き上がる。体が重い。
疲れているわけでもないのに、動きが鈍い。
机の上に、義手がある。
外したまま寝ていたらしい。
しばらく見つめる。
ただの、物だ。それ以上でも、それ以下でもない。
左手で持ち上げる。重い。
腕に装着すると、接続の感覚がじわりと広がる。
動く。問題なく。
それでも、それ以上の意味はない。
指を開いて閉じる。それを何度か繰り返して、やめた。
腹が鳴る。
食事を思い出す。そういえば昨日はまともに食べていない。
食べなければいけない。
立ち上がる。少しふらつく。
部屋を出る。
廊下は静かだった。誰もいない。当然だ。ここはもう、誰かが使う場所ではない。
一歩ずつ歩く。足音だけが響く。
外に出ると、光が眩しかった。
目を細める。
街は、普通だった。
人がいて、声があって、物が売られている。
当たり前の光景。今まで、ほとんど見てこなかった光景。
足が止まる。
どうすればいいのか分からない。
戦場では迷わなかった。進む場所も、やることも決まっていた。
でも、ここでは違う。
何をすればいいのか、分からない。
「……食事」
呟く。
それだけは分かる。
屋台が並ぶ通りへ向かう。
人が多い。距離が近い。声も近い。
それだけで、少し息が詰まる。
屋台の前で止まる。
「……これを」
適当に指差す。
店主が何か言うが、うまく聞き取れない。周りの声が混ざって、全部が曖昧になる。
金を出し、受け取る。
串に刺さった肉。温かく、匂いが立つ。
けれど。
それより先に、視線が気になった。
――見られている。
そう思った瞬間、呼吸が浅くなる。
誰も何も言っていない。ただ通り過ぎているだけ。
それでも。
義手に目が向けられている気がした。
勇者だと、気づかれている気がした。
――あれが勇者?
――あんな姿で?
――もう戦えないのでは?
聞こえないはずの声が、頭の中で響く。
ただの想像だ。分かっている。
それでも、止まらない。
一口食べる。
味が分からない。
飲み込む。喉がうまく動かない。
もう一口。同じだ。
ただ、食べているだけ。
それでも、視線だけは消えない。
居場所がない。
ここにいてはいけない気がする。
足が勝手に動いた。
逃げるみたいに、通りを抜ける。
食べ終わる前に歩き出し、何も見ず、何も聞かず、ただ前だけを見る。
それでも背中に視線を感じる気がした。
振り返らない。
振り返ったら、何かが崩れる気がした。
そのまま宿舎まで戻る。
扉を閉めた瞬間、ようやく息ができた。
壁に手をつく。義手が鈍く当たる。
冷たい。感覚はあるが、薄い。
「……っ」
呼吸が整わない。胸が苦しい。
戦場より、ずっと。
しばらくして、ようやく落ち着く。
部屋は静かだった。誰もいない。視線もない。
何もない。
――何もない。
それなのに、さっきより少しだけ楽だった。
ベッドに腰を下ろす。
義手を外し、机の上に置く。
それを見つめる。
ただの道具。自分の一部でも、何でもない。
「……楽だったな」
ぽつりと漏れる。
戦っている方が、ずっと。
剣を振って、敵を倒す。それだけでよかった。
今は違う。
何をしても、意味が分からない。
意味が、ない。
「……私は」
言葉が続かない。
何を言えばいいのか分からない。
ただ、何もないという事実だけが残る。
横になる。
目を閉じる。
眠れるわけでもないのに、ただ何も見たくなかった。
静かな部屋に、呼吸の音だけが残った。




