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焼天-Burn the Heavens-  作者: 神箭花飛麟


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三 下山

蒼天嶺を離れる日は、あっけなく来た。


朝、目が覚めた。

荷物をまとめた。

小屋の戸を閉めた。


それだけだ。

十五年間過ごした場所なのに、黎の足は止まらなかった。


振り返ったのは一度だけ。

丸太を組んだ小さな小屋。

叔父貴が一人で建てたと聞いた。

黒ずんだ壁、歪んだ窓枠、煤けた屋根。

みすぼらしい。

でも、ここで生きてきた。


「行くか」


応龍の声が、頭の中で響く。


黎は答えなかった。

ただ、前を向いた。




山道は、思ったより険しかった。


蒼天嶺の下半分——黎がほとんど踏んだことのない場所だ。

叔父貴は「下には行くな」と言い続けた。

だから黎は、山の上だけで十五年を過ごした。


足元の石が崩れる。

急斜面、松の根、泥のぬかるみ。

枝が顔を打つ。鳥が飛び立つ。

どこかで獣の気配がする。


三時間かけて、ようやく平地に出た。


「これが、下の世界か」


黎は呟いた。


目の前に広がるのは、荒れた畑だ。

作物の育ちが悪い。黄ばんだ葉、細い茎、痩せた実。

天候のせいじゃない——土が死んでいる。

ひびだらけの大地。龍脈が歪んでいる証拠だ。


空は赤い。

いつもの、あの赤さ。

蒼天嶺の上から見ていた空と同じ色だ。

でも、ここで見ると違って見える。


重い。



最初の村に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。


名前のない村だ。

十数軒の家が、肩を寄せ合うように建っている。

壁は泥、屋根は藁、窓に紙を貼っただけ。


人の気配がない。


黎は立ち止まった。


「……静かすぎる」


「そうだな」


応龍の声が静かに言った。


市場もない。子供の声もない。犬も鶏もいない。

昼間なのに、村全体が息を殺している。


黎は路地を進んだ。


土の匂い。

腐った藁の匂い。

——そして、もう一つ。


血の匂い。


黎の足が止まった。



村の広場に、人が集まっていた。


老人、女、子供。

全員が、地面に膝をついている。


その前に、男たちが立っていた。

黒い鎧。胸に鳳凰の紋章。

黒甲軍の兵士——五人。


「今月の税だ。出せ」


兵士の一人が言った。

三十代、太った体、赤ら顔。

手に木の棒を持っている。


「……も、もう出せるものは」


老人が答えた。震えた声。

白髪、曲がった背、骨と皮だけの手。


「ないとは言わせん」


棒が振られた。


老人の背中に、鈍い音が響いた。


黎の体が、反射的に動きかけた。


「黎」


応龍の声が、頭の中で鋭く言った。


「動くな」


「でも——」


「今は動くな」


兵士がまた棒を振る。

老人が倒れる。

女たちが泣き声を上げる。

子供が母親にしがみつく。


黎は歯を食いしばった。


手が、応龍剣の柄を握っていた。

気づいたら、握っていた。

いつから握っていたのか、自分でも分からない。


「……応龍」


「分かっている」


「なんで、止める」


「お前一人で五人を倒せるか」


「倒せる」


「倒した後、どうする。この村に、報復が来る。お前がいない間に、この村は燃やされる」


黎は答えられなかった。


「帝舜の軍は五万人だ。一人倒しても、二人来る。二人倒しても、十人来る。今、お前にできることは——」


「分かってる」


「——ない」


黎は目をつぶった。


老人の声が聞こえる。

女の泣き声が聞こえる。

兵士の笑い声が聞こえる。


全部、聞こえる。


それでも、足が動かない。



兵士たちが去ったのは、半刻後だった。


荷車に食料を積んで、笑いながら去っていった。

村には何も残らない。

穀物も、干し肉も、干し魚も。


黎は路地の陰から出た。


老人が地面に倒れたままだ。

近くで、女が泣いている。子供が老人の名を呼んでいる。


黎は老人に近づいた。

膝をついて、肩に触れる。


「……大丈夫ですか」


老人が目を開けた。


黄ばんだ瞳。皺だらけの顔。

それでも、黎を見て少し笑った。


「見ない顔だの」


「通りがかりです」


「そうか」


老人はゆっくり体を起こした。

肋骨が一本、やられているかもしれない。息が浅い。


「若いの。どこへ行く」


「東へ」


「東か」老人は頷いた。「遠いな。気をつけろよ。道中、黒甲軍に会ったら、逃げろ。逆らうな。逃げるのが一番だ」


黎は答えなかった。


「……ここは、ずっとこうなんですか」


「十五年、こうだ」


老人は空を見上げた。

赤い空。


「昔は違ったんだがの。空が青かった。作物も育った。魔獣も今より大人しかった。子供の頃の話だが」


黎は空を見た。


赤い空。


父が死んだ夜から、ずっとこの色だ。


「変わりますよ」


黎は言った。


気づいたら、口から出ていた。


老人が、黎を見た。


「若いのが何を言う」


「変えます」


黎は立ち上がった。


「根拠はないですが」


老人は少し間を置いて、また笑った。


「ほう」


それだけ言って、老人は孫に支えられて家に戻っていった。



黎は村を出た。


赤い空の下、東へ向かう道を歩く。


「応龍」


「何だ」


「俺は正しいことをしたか」


しばらく、沈黙があった。


「正しいかどうかは分からん」


「じゃあ、間違いか」


「それも分からん」


応龍の声は静かだ。


「ただ、お前が今できる最善は、四神を解放することだ。それだけは確かだ」


黎は答えなかった。


手が、まだ剣の柄の感触を覚えている。

握りしめた感触。

でも、抜かなかった。


抜けなかった。


赤い空が、遠くまで続いている。


黎は歩き続けた。

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