二 出立
やっと自分の中でイメージが固まったので再開したいと思います。
読みやすさを重視して一行ずつ開けるようにしました。
日が暮れても、皇凱は剣を研ぎ続けていた。
砥石の音だけが庭に低く響いていた。皇黎は縁側に腰を下ろして、その背中を見ていた。何か言おうとして、やめた。叔父の背中はいつも広い。三十を半ば過ぎて、それでも肉が落ちない。蒼天領の暮らしがそうさせているのか、それともこの人が元からそういう人間なのか、皇黎には判断がつかなかった。
「明日、出ます」
砥石の音が止んだ。
「そうか」
それだけだった。また音が始まった。
応龍はとっくにどこかへ行っていた。夜になるといつもそうだ。山の向こうへ飛んでいくのか、あるいは別の何かがあるのか。十五年一緒にいて、夜の応龍がどこにいるか知らなかった。聞いたこともなかった。
星が出ていた。蒼天領の夜空は星が近い。空気が澄んでいるからだと応龍は言っていた。他の地域では霞んで見えるらしい。そういうものか、と当時は思ったが、今夜初めてそれが惜しいと思った。明日からは、この空ではない。
皇黎は父の剣を縁側の隣に置いていた。鞘は地味だが、柄に龍の紋様がある。触れるたびに、知らない人間のことを考えさせられる。会ったことのない父親というのは不思議なものだと思った。恨む気にも、慕う気にもなれない。ただ、この剣を持っていた手があったという事実だけがある。
砥石の音が止んだ。皇凱が立ち上がり、縁側に入ってきた。皇黎の隣に座ることはなく、そのまま奥へ消えた。特に声もかけなかった。皇黎もかけなかった。
それでよかった。
翌朝、暗いうちに起きた。
外はまだ紺色だった。春でも高山は冷える。吐く息が白かった。台所に火を入れ、残っていた粟を煮た。昨日捌いた鹿肉を刻んで放り込んだ。塩を少し入れた。それだけだが、肉の出汁が出れば十分だ。
二人分よそって待った。
皇凱が出てきたのは、湯気が落ち着いてきた頃だった。顔を見たが、特に何もわからなかった。昨日と同じ顔だった。黙って椀を受け取り、黙って食った。皇黎も食った。昨日の猪肉より、今日の鹿のほうがよほど旨かった。猪は脂がくどい。鹿はあっさりしている。こういうことだけはよくわかる。
食い終えると皇凱が奥に入り、しばらくして布の包みを持って戻ってきた。卓の上に置いた。
「銭だ。足しにしろ」
「ありがとうございます」
「要らんと言うなよ」
「言いません」
持ち上げると重かった。かなり入っている。これをいつから用意していたのかは聞かなかった。
荷を括りつけた。
着替えが二組、干し肉、砥石、火打ち石。弓と矢筒は鞍の右に吊るした。父の剣は背に負った。鞘の龍の紋様が朝の薄い光の中にあった。慣れない重さだった。剣を背負うのは初めてだった。
飛天は大人しかった。手綱を引くと素直についてきた。まだ心は通じていないが、それでいい。道中で通じればいい。
「遅い」
上から応龍が言った。いつの間にかいた。
「待っていたなら声をかけろよ」
「待っていない。ちょうど来ただけだ」
どちらでもいい。皇黎は飛天の首を一度叩いて、小屋の前に向き直った。
皇凱が立っていた。腕を組んでいた。いつもの顔だった。皇黎が物心ついてから変わらない、無駄のない顔だった。
「叔父貴、達者で」
「死ぬなよ」
十五年、一度も言われたことのない言葉だった。立合でも、冬の狩りでも、崖を登る時も。皇凱は一度も言わなかった。当たり前のように危ういことをやらせて、当たり前のように帰ってこいという顔をしていた。
何か返そうとした。言葉が出てこなかった。皇黎は一つ頷いて、飛天の手綱を引いた。
石の多い道を歩いた。蒼天領の道は整備されていない。そもそも人が少ない。行商が年に数度来るくらいで、後は山師か、あるいは道を誤った旅人くらいだ。
蒼天領の端まで来ると、視界が開けた。
「これが外の空か」
「そうだ」と応龍が言った。「慣れろ。もう蒼天領の空ではない」
皇黎は少しの間、その空を見ていた。悪い空ではない。ただ、知っている空ではなかった。
飛天の腹を締めた。歩みが速くなった。
振り返らなかった。
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