四 野営
日が落ちるのは早かった。
赤い空が、暗い赤になり、暗い紫になり、やがて黒くなった。星は出ていた。でも月は薄い。
黎は街道を外れた。街道で野宿するな、と叔父貴が言っていた。盗賊が出る、黒甲軍の夜回りに見つかる、どちらも面倒だ。
林の中、岩を背にして腰を下ろした。焚き火は小さく。煙が出ない木を選んで。これも、叔父貴に教わった。
干し肉を噛む。硬い。塩辛い。でも腹に入れば同じだ。
応龍が傍にいた。姿は見えない。気配だけがある。白銀の鱗が、暗がりにわずかに光っている。
「眠れるか」
「眠れます」
「嘘だな」
黎は答えなかった。
今日の老人の顔が、消えない。折れた肋骨。黄ばんだ瞳。それでも笑っていた顔。
変えます。
言ってしまった。
根拠もなく、言ってしまった。
「後悔しているか」と応龍が聞いた。
「してません」
「そうか」
「でも……言葉だけじゃ意味がない」
「そうだな」
火が、小さく揺れた。
松の葉が燃える匂い。土の湿った匂い。遠くで、梟が鳴く。
「応龍」
「何だ」
「父上は、どんな人でしたか」
しばらく間があった。
「強い人だった」と応龍は言った。
「剣が強い?」
「それもある。だが、そういう意味じゃない」
応龍の声が、少し遠くなった気がした。
「皇望は、迷わなかった。何をすべきか、いつも分かっていた。分かった上で、動いた。正しいかどうかは、後から考えた」
「それは……無茶じゃないですか」
「無茶だな」
「でも、そのせいで死んだ」
「そうだ」
応龍は短く答えた。
黎は膝を抱えた。焚き火が、自分の足元を照らしている。
父の剣は、腰に下げたままだ。鞘の感触が、腰骨に当たる。
「俺は父上みたいには、なれないと思う」
「お前はお前だ」
「それだけですか」
「それだけだ」
応龍の声には、それ以上のものがあった気がした。でも黎は聞かなかった。
夜明け前に目が覚めた。
眠れたのか、眠れなかったのか、分からなかった。焚き火は消えていた。体が冷えている。
立ち上がる。手足を動かす。剣を五十回振る。体が温まってくる。
東の空がわずかに明るくなっていた。
赤い。夜明けも赤い。
蒼天嶺の上では、朝だけは少し青かった。でもここでは、朝から赤い。
黎は荷物をまとめた。街道に戻る。
歩き始めてすぐ、足音が聞こえた。
複数。早い。向こうから来る。
黎は立ち止まった。剣に手を添えた。抜かない。ただ、手を添える。
現れたのは、子供だった。
十歳くらいの男の子。半袖、裸足、息が上がっている。顔が真っ青だ。
子供は黎を見て、止まった。
二人は、しばらくお互いを見た。
「……逃げてるのか」と黎は聞いた。
子供が頷いた。
「何から」
子供は後ろを見た。
街道の向こう、土煙が上がっていた。馬の足音が聞こえる。
「黒甲軍?」
子供がまた頷いた。
「盗んだのか」
子供が首を横に振った。震えている。唇が紫色だ。昨夜から走っているのかもしれない。
黎は一瞬考えた。
余計なことをするな。
叔父貴の声が頭に浮かんだ。
余計なことをすれば、余計な面倒が来る。
「こっちへ来い」
黎は言っていた。
子供の腕を掴んで、街道の脇の林へ引っ張る。岩の影に押し込む。
「声を出すな。動くな」
子供が頷いた。
黎は岩の陰から街道を見た。
馬が三頭、走ってくる。黒甲軍の騎兵。槍を持っている。
三人は街道を走り抜けた。子供を探して、前を見ている。林には気づかなかった。
足音が、遠ざかる。
黎は息を吐いた。
子供が、黎の服の裾を掴んでいた。小さな手だ。冷たい。指が細い。
黎は子供を見た。
「大丈夫だ」
子供が、ようやく泣いた。声を殺して、肩を震わせて泣いた。
黎は何も言わなかった。
ただ、子供が泣き終わるのを待った。
子供の名は、小魚といった。
隣村から逃げてきた。昨日、黒甲軍が来て、父親を連れて行ったと言った。税の滞納だ。母親は五年前に死んでいる。兄がいるが、どこにいるか分からない。
「どこへ行くつもりだったんだ」
「東海城に兄がいる……かもしれない」
「かもしれない?」
「去年、東海城に出稼ぎに行くと言って出た。それっきりだ」
黎は黙った。
東海城まで、ここから五日はかかる。裸足で、食料も持たずに。
「一緒に来るか」
自分でも、なぜ言ったか分からなかった。
「俺も東へ行く。道案内はできないが、足手まといにならないなら」
小魚が黎を見た。
「……いいのか」
「俺が決める。お前が決めることじゃない」
小魚は少し間を置いて、頷いた。
「ありがとう」
「礼はいい」
黎は立ち上がった。荷物を持つ。
「あと、裸足で五日は歩けない。次の村で草鞋を手に入れるぞ」
「金がない」
「俺が出す」
「……なんで」
黎は答えなかった。
なぜかは、自分でも分からなかった。
ただ、裸足の子供を五日歩かせるのは、違う気がした。それだけだ。
二人は街道に出た。
東へ。赤い空の下を、並んで歩いた。
応龍は何も言わなかった。
でも黎には、応龍が笑っている気がした。
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