FILE9・FILE10 扼殺・絞殺 4
「これは一体なにごとだ」
その女は叫んでいた――叫ぶだけで、なにもしようとしなかった。
「早く原因を探して! 通信回線が切れた!? なんとかしなさい、なんのために無能なお前たちを雇ってると思ってる! ああ――明日は大事な日だって言うのに!」
目の前を忙しなく走る部下たちを殴り、蹴り、罵倒して、自身は一度もモニターなど見ようともせず、施設内に響き渡るサイレンに苛立っていた。
「室長! 侵入しゃ――」
その職員は自身の責務として室長である女に異常事態の原因の報告をする途中でこと切れた。最後まで言う前に、彼の身体はバラバラになって地面に転がっていた。
「なに――」
「やあ、僕はきみの名前を知っているが、きみはぼくの名前を知っているかな?」
かつて職員だった肉片をハイヒールで踏み潰しながら、その少女は悠然と微笑んだ。
その微笑を見たとき、女は思わず自身も先程の職員のように身体をバラバラに刻まれる想像をして、膝の力が抜けて座り込んでしまった。
「お前――侵入者……」
「そ――う! 僕は侵入者の尾鷲鷹姫! 尾鷲忍軍の頭領だよ」
「尾鷲……忍軍? どうして、お前たちと玉兎家は協力関係のはずじゃ」
「生憎ながらきみたち下弦研究局との直接の取引はない。玉兎連邦全員と仲良くしてたら僕たちの仕事がなくなっちゃう。……まあ、はずれのクジを引いたと思って諦めてくれたらいいかな」
「はずれのクジだって? お前みたいな小娘がこのわたしに逆らうなど……」
「口を慎めよ」
細められた視線に射貫かれた途端、あまりに膨大な死の群像に、女はたまらず失禁した。少女は「うわくさ」と言ってまるで頓着した様子もない。
「きみがここでどれだけ偉くっても、僕の前では狩られる側の獲物でしかないんだ。そんなこともわからないのかい」
ぐるりとモニタールームに存在する人間の様子を見渡して、少女――尾鷲鷹姫はにっこりと笑った。
「……ま、これだけいればいっか。おーい慶くん、こっちこっち」
後ろを振り返って誰かを呼ぶ鷹姫が招き入れたのは、二十歳そこそこの青年だった。その面影はどこかで見覚えがある気がするが――今の女にはそんなことに意識を傾ける余裕はなかった。
青年に次いで入って来たのは青年と歳の近そうな、少女とも女性とも認識できる年頃の娘と――自分たちが二十年弱、大事に大事に研究し育て上げてきた実験動物たち。
『人間兵器・白夜』の成功作。
「貴様――わたしの成果に!」
鷹姫に食いつかん勢いで叫んだ女だったが、その間に青年がするりと侵入してきたので口を噤む。
「初めまして、蓮璉慶と申します。この度は下弦研究局の皆様に多大な被害とご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。重ねて恐縮ですが、こちらの『被験体1029』さんと『被験体1030』さんを僕に譲っていただきたく、馳せ参じました」
「譲る……? こんな、こんなのそんな優しいもんじゃ」
「それはその通りですね」
口調こそ丁寧だが、態度や表情の刺々しさでひどく心象の悪い青年――蓮璉慶はにこりともせず女に相対する。
「では脅させていただきます。あのおふたりを僕にください」
「………………」
女は絶句していた。そもそも彼女は玉兎連邦に所属するそれなりの立場ある家に生まれ、今の地位につくことが約束された順風満帆な人生を送って来た恵まれた子供だったのだ。そんな彼女が急に壊され、脅され、奪われる立場に落とされたのなら――急激な没落に身を落とすことになれば、受け入れがたいのも仕方がないことだった。
いやいや期の子供よりも、なんの苦労もしていない高慢な大人の癇癪の方が手が付けられないことは誰もが知ることだろう。
女はいつでも他者を制圧できるよう、銃を携帯していた。実際に使ったことはあまりないが、戦争をあまりしない平和な国では銃とは見せるだけで十分他者を制圧できる見せかけだった。
しかし彼女は知らなかった――目の前に立つ幼気な彼らには、銃程度では大した脅しにならないことを。
震える手で銃を突き出す女を見て、彼らは無言で視線を交わしまた女を見て、一拍置いて肩を竦めたり首を傾げたりと緊張感の欠片もない。
それに更に苛立ち――彼女は自分の思い通りにならないものはなにもかもが嫌いだった――本当に殺してやろうと引き金を引こうとした指は、銃と一緒に床に落ちていた。
「は――――ぎぁ、ぎゃぁぁぁぁあああああ!」
女の叫び声を聞きながらすでに納刀していた鷹姫は、もはや彼女にまったく興味がないらしく視線を向けようともしない。
どころか「ほら、きみの計画だと……」と蓮璉青年と次の段取りの確認をしていた。
「まあ――彼女は殺すしかありませんね」
「そうするしかありませんね」
「でもあの子たちはどうするのさ、もしこのおばさんに情でもあったら目の前で殺すのはまずいんじゃない」
「訊いてみますか」蓮璉青年はくるりとモルモットたちに向いた。急に視線を向けられて、男の子の服を着ているメスの方のモルモットは身体をびくりと強張らせて、女の子の服を着ているオスの方のモルモットはぼんやりとなににも反応を示さなかった。ただ力強く、お互いと手を繋いでいた。「失礼ですが、『被験体1029』さん、『被験体1030』さん」
「ワタシはそんな名前じゃないわ、グレーテルよ」オスのモルモットは夢見心地に反論した。
「ボクはそんな名前じゃないよ、ヘンゼルだよ」メスのモルモットは不服そうに抗議した。
「失礼しました」
丁寧に頭を下げて青年は謝罪をする。女に対する態度と明らかに慇懃さが違う。
「グレーテルさん、ヘンゼルさん、こちらの方はあなた方の――」
「ママだよ」オスのモルモットが答えた。
「魔女だよ」メスもモルモットが答えた。
「この方のことは好きですか」
「…………」「…………」
モルモットは顔を見合わせた。
女は面食らった。モルモットたちに好かれている自信が――根拠のない自信が、彼女にはあった。何故なら室長の自分は、誰もに好かれているから室長でいるのだと疑ったことなどなかったからだ。生まれたときから愛される存在でしかないと、そんな風に育ってきたのだ。
「……魔女のこと、嫌い」
オスのモルモットはなにも応えなかったが、メスのモルモットは非常な嫌悪を湛えた声音で言った。
「殺したいですか」
「殺したい」
「では殺してください」
「いいの?」
「いいですよ」
呆気なく、女の運命は決まってしまった。
まるで日常会話で交わされた殺人の許しに、メスのモルモットはじわりと笑みを滲ませる。
その凄惨さ――残忍さ。
――わたしは、ああ、わたしは。
女はこれから殺されるという現実に混乱しながらも、冷静に目の前にモルモットが向かってくる恐怖を体感した。
メスのモルモットはオスのモルモットと繋いでいた手を解く。片割れは身じろぎしたが、「大丈夫だよ、グレーテル。怖い魔女を倒すだけさ」と、いつもの入れ替わりごっことお姫様と騎士ごっこを続けていた。「頑張ってね、ワタシの騎士様」と、オスのモルモットも応える。
こちらに近付いてくる途中で、メスのモルモットはその辺のコードを引き千切って両手に持った。「これがいい」と、初めて殺人をさせたときのことを思い出す。
――わたしは、なんて化け物を。
するりと首に巻かれるコードのくすぐったさに怖気が走った。
モルモットの目に映る感情は、あまりにも陰惨な殺意を滲ませて、殺意を実現できる喜びに満ちていた。
「ママ、ママ、あのね」
コードを交差させて力をこめる。その感覚は、ひどく気持ちが悪かった。
「ヘンゼルはもうとっくに壊れてしまったのよ――お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで! ようやく殺せる。ようやく――魔女を殺せる」
もうモルモットがなにを言っているのか女にはわからなかったが、今まで虐げてきた実験動物に殺される屈辱だけは、彼女の中にずっと残っていた。
魔女は最期まで、自分の価値を見誤ったままだった。
◆◆◆
車というものに、ヘンゼルとグレーテルは初めて乗った。それ以前に車の実物を見たことさえ初めてである。
過去から現代へタイムスリップした武将などが車を見て『鉄のイノシシだ』と驚く描写はいつだって通用する常套手段だ。しかしヘンゼルとグレーテルは初めて車を見ても『鉄のイノシシだ』と驚かなかったのは、そもそも彼らには『イノシシ』さえも実態の知れない絵空事の存在だからである。車そのものはラジコンやミニカーで知っていたので、そこまで大仰な驚き方はしなかったが、それを見て「これが動くの? どうして? 乗る? どうやって?」と、移動手段が必要なかった世界から引っ張り出されたふたりは鉄のイノシシ以前の驚き方をしていた。
そして黒髪の、優しそうな垂れ目をした、背格好はグレーテルと同じくらいの女性が、逐一丁寧に車に乗るやり方を教えてくれた。彼女は魔女のように突然殴ったりしないのに、質問をすると殴られるかもしれない――と全身に教え込まれているふたりはぎこちない動きになってしまった。それでも女性は一切怒らず、「そうですよ」「上手ですよ」と、柔らかな微笑と声で応じてくれた。
車に乗ったふたりはその速度に驚いた。車を停めてある場所は下弦研究局の屋内だったが、車がぶるると唸って動き出すと前に進み、しばらくすると『外』へ出た。
ふたりが生まれて初めて『外』に出た瞬間だった。
「――ほんと、辺鄙なところに建ててある研究局だったよね」
「研究内容からして周囲に知られるわけにはいきませんし、処分した実験体の遺棄も容易かったでしょう」
「……僕だったら普通に街中の研究施設みたいにカムフラージュしちゃうと思うけど……考え方は人それぞれか」
「ここまで徹底して人の住まぬ土地、というのも珍しいですがね」
そんな、蓮璉慶と尾鷲鷹姫と名乗った人たちの会話などもう聞こえない。ふたりは窓ガラスにピッタリくっついて外を眺めていた。
絵本で見たよりずっと……なんだか細かくて、ざらざらしてそうで、色も違う気がするが、あれが『キ』で、あれが『ツチ』で、あれが――ソラだ。
今は真っ暗だ。でも絵本に描いてあった通りになにかがちりばめられている。じっと見ているとピカピカして、そう、あれは『ホシ』だ。ずっと見ていると小さなホシも増える。こうして見ているだけで、ホシというものは無尽蔵に増えるものなのだろうか。
「危ないですよ」と、榛鵺と名乗った女性が優しく諭したことで、魔女のように暴力を振るわれたくないと従ったふたりは、緊張の緩みのせいか眠くなってきた。眠る前になんでもあるなにもない部屋から救い出されて、魔女を殺し、そして魔女の手下たちも何人か手にかけたふたりは多少の興奮状態にあったが、車の暖房と心地よい揺れ、そしてまるでいつかのセンセイのような優しい声音の女性に、正体の分からない安心を覚えて眠くなっていた。
見た目はグレーテルと同じくらいの歳に見えるのに、魔女よりずっと落ち着いていて、変な風に怒ったりしなくて、優しくて――絵本で見たオカアサンのようだと、眠りに落ち行く意識の中で、グレーテルは思った。いつのまにか手を繋いでいるヘンゼルが眠っているので、繋がっているグレーテルも安心して眠ることができた。
きっと明日から、素敵なことが起こるのだと確信を抱きながら。
そして本当に――素敵なことばかり起こったのである。
家――というものも、絵本から知識を得てはいた。その大きさが果たしてどれくらいの普通なのかが彼らにはわからなかっただけで、実際は屋敷と呼んで差し支えない大きさである。
急ぎで掃除をしたので、手が届いていない部分があるかもしれませんが――と鵺は言って、ふたり専用の部屋へ案内してくれた。そこは確かになんでもあるなにもない部屋より綺麗ではなかったが――腐っても研究室だったので、衛生管理は厳しかったのである――ベッドや机や本棚などの調度品はきちんとあるし、いつからか精神的にも成長していたふたり――正確にはグレーテルだけだが――の感性に合う部屋は即座に気に入った。
一日の内の数時間は、鷹姫が手配した事情を知る先生からこの別世界のいろはを学ぶ。絵本や辞書が読めていたので識字に問題はない。しかし一般常識がないのは困るだろう、との配慮だ。勉強のあとに、いつかに夢見た『おでかけ』ができる。一応先生も連れ立って、社会勉強の一環ではあるが、外は見たことがないものでいっぱいで楽しかった。
動物園に行った。二足歩行する動物はいなかった。あれは絵本の演出だった。
海に行った。海水は塩辛く、飲もうとしたら慌てて止められた。綺麗な水ではないらしい。
山に行った。木がたくさんあった。果物がなる季節は過ぎていた。動物はなかなか見つからなかった。
空は青かったり、赤かったり、黒かったりした。雲に乗りたいと言うと、先生は「あれには乗れないんですよ」と苦笑された。
ある日、慶がふたりを部屋へ呼んだ。
その部屋はそこそこ広い、いつもみんなでご飯を食べる部屋だった。リビング、と慶は呼んでいたが、それにしては広すぎるよねと鷹姫が茶化していたのを覚えている。
「ヘンゼルさん、グレーテルさん」
慶はふたりを呼ぶ。ヘンゼルが壊れ、グレーテルが偽っていることはすでに慶も諒解しており、ふたりを呼ぶ際の目配せも完璧に捉えていた。
ちっとも笑わない慶が、グレーテルは少し苦手だった。魔女のようにこちらを害する気がないのはわかっていたが、魔女や、魔女の手下のようにお愛想笑いを浮かべることがなく、ずっときっちりした固い表情をしているので、なんだか近寄りがたく感じていたのだ。
慶の後ろには鵺が控えていた。黒いワンピースにひらひらしたエプロンを身に着けている。あのエプロン可愛くていいなぁとグレーテルは思ったが、可愛い服を着るよりヘンゼルを守ることの方が大事なので、見るだけに留めている。
「僕は殺人鬼クラブというものを設立しようと思っているのです」
真っ直ぐこちらを見て、慶は言う。しかし聞き慣れない言葉だった。
「殺人鬼クラブ?」
「ええ――僕も、僕が少々お世話になった方も人殺しなのですが」
人殺しと聞いて、グレーテルはぎょっとした。ヘンゼルがまた壊れたスピーカーのようにならないかと危惧し、思わず隣のヘンゼルを窺う。ヘンゼルは夢見心地のようにぼんやりしたままで、少し左右に揺れているだけだ。
大丈夫そうだと判断し、唇に力を入れる。
「そしてこちらの鵺さんも、そしてあなたたちも人殺しです」
「……そう――ですけど」
「葛藤がありますね?」
「ないわけないじゃないですか。お勉強してて気付きました。魔女がボクらに殺人を教えたのは、そういう道具として使いたかったからでしょう。ボクは、ボクはいい。けど、グレーテルにこれ以上殺人をさせるなんてやだよ。ボクはグレーテルのナイトなんだ」
「……ヘンゼルさん」
慶は言う。
「あなたたちが人を殺したことはもうなかったことにはできません。その記憶は、つらいものですか? 魔女や、魔女の手下たちを殺した感覚は不快でしたか?」
「当然じゃないか。あんな気持ち悪い感覚、これ以上グレーテルにさせるなんて……」
「しかし記憶は残ります。今後一生、忘れられないつらい、ひどい経験として」
「だからそれを思い出さないように、幸せなことしかグレーテルが経験しないように……」
「そしてその幸せの中で、不意に思い出してしまうでしょう」
「――っ」
「いやな記憶、不快な感覚、それらを不意に思い出して、グレーテルさんは気も狂わんばかりに苛まれる」
「そう……っ、だけど、グレーテルにこれ以上……っ」
実際、なんでもあるなにもない部屋から出て、時折ヘンゼルがパニックを起こすことは多々あった。急にベッドから叫び声と共に飛び起きて、いやだいやだと泣き喚く。すぐにグレーテルも起き上がって宥めるが、なかなか回復しない。
今が幸せだからこそ、その忌まわしい記憶の温度差にヘンゼルの精神が耐えきれていないのだ。もうとっくに壊れているのに、もっと壊れようとしている。
「忘れることはできません――しかし、飼い慣らすことはできる」
魔女は敵だった。それは物心ついてすぐに気付いていた。――では、目の前の蛇のような男は?
ヘンゼルとグレーテルを救い出してくれた存在だ。ただのボランティアでないことはすでに気付いている。だがどんな打算があったところで、事実は変わらない。そこに恩義は感じている。
その恩義につけ込む気か――まるで、悪魔のように。
「勿論無理強いはしません。幸せな生活しか望まないと言うのなら、こちらの鵺さんの生まれ故郷へ移る手配を整えましょう。あなたたちが望まなければ、血生臭い世界とは無縁とは言えなくとも、多少の安寧は保証できる。――しかし、忌むべき記憶は薄れません。幸せであればあるだけ、記憶は色濃く残ります」
無意識に、グレーテルはヘンゼルの手を強く握った。ヘンゼルが弱々しく握り返した。
「しかし飼い慣らせば――殺人を重ねれば、その忌むべき記憶は日常の延長線上でしかなくなる。血液の温かさに慣れ、冷えていく死体に順応し、こちらの世界に適応する。もう一度言います、無理強いはしません。いかがでしょうか」
すっと細められた瞳は恐ろしく冷たい。
その冷たさに、自分の体温さえ奪われていくようだ。
唇から血の気の失せるのがわかる。
膝が震える。これが『怖い』という感覚か。
どちらがよりヘンゼルの心を守れるかわかっているからこそ――しかしその選択もいばらの道であることがわかっているからこそ。
「……答えを急がせる気はありません。今日はここまでにしましょう。決心がついたら教えてください」
慶の与えた猶予に甘える形で、その場はお開きとなった。
どちらへ向かうかの決心は、グレーテルに委ねられる。




