FILE9・FILE10 扼殺・絞殺 3
グレーテルの祈りは届かなかった。
魔女はグレーテルに『殺す』を教えて味を占めたのか、それとも最初からそのつもりだったのか――今度はヘンゼルに『殺す』をさせる準備を整えていた。
グレーテルがいつしか『殺す』をした気持ち悪さにも慣れ、普通の日常として『なんでもあるなにもない部屋』で過ごしていたある日――その日、ヘンゼルは壊れてしまった。
一週間の中でふたりが最も嫌っていた日。
魔女がふたりの世界を蹂躙する日。
魔女はあの日のセンセイと同じように、ロープで縛られた何者かを連れて来た。椅子に座らされて荒い目の袋を頭に被せられたそのひとは、魔女が言うには「わたしを殺そうとした悪いひと」らしい。グレーテルはそれを聞いて、ほんの少し「魔女を殺そうとしたなら悪いひとじゃなくてヒーローなんじゃないかしら」と思ったが、魔女が怒って自分やヘンゼルに痛いことをしようとするのがわかっていたのでなにも言わず、ただいい子に頷いた。
「さあヘンゼル」魔女は気味が悪くなるほど優しく、ヘンゼルを呼び寄せた。「あなたもグレーテルのように、『殺人』ができるようにならなきゃね」
「待って!」
グレーテルは思わず叫んでしまった。途端、魔女の瞳が怒りに塗り潰され、ぎらりと光る。
「どうしたんだい」
声に含まれる怒りと威圧感にグレーテルは若干怯んだが、魔女に怒られるよりヘンゼルに『殺す』をさせる方が嫌だった。
――わたしはヘンゼルのナイトなのよ――。
己を鼓舞して、恐怖で震えそうになる脚を頑張って踏ん張って、グレーテルは寒くもないのに震える唇を懸命に動かした。
「『殺す』をするならわたしがするわ。ねえママ、だからヘンゼルに『殺す』をさせないで」
だが魔女は冷酷だ。そのことをグレーテルもわかっていないわけではなかった。
「お前はわたしに意見できる立場だと思っているのか?」
次の瞬間には、グレーテルの右頬に魔女は拳を放っていた。
殴られた衝撃で床に転がるグレーテルは、違和感に呑まれて動けなかった。
――あら?
ヘンゼルがとても哀しそうに、グレーテルに駆け寄りたい、でも魔女の前で勝手に動いちゃいけない――と分かりやすく葛藤している姿を視界に捉えながら、混乱に苛まれる。
――痛くないわ?
最後に魔女に殴られたのはいつだったか――あのときはとても痛かったはずだった。
それなのに、今、魔女に殴られてもまったく痛みを感じなかった。
「グレーテル、ヘンゼルはお前と同じようにひとを殺さなきゃいけないの。それがお前たちの生きる意味なんだから。お前たちはわたしたちのために『殺人』をする。それがお前たちの幸福――わかるかい」
魔女はグレーテルの混乱など気付かないまま、教育を始めた。
魔女の言うことは絶対なのだ。ヘンゼルは『殺す』をしなければいけない。
ヘンゼルにみすみすあの気持ちの悪い行為をさせてしまう。
それは嫌なことだった。絶対にさせたくないことだった。
――どうして。
グレーテルは混乱していた。
――どうしてわたしは、あんなに気持ちの悪いことなのに、魔女に『殺す』をしたくなっているのかしら?
それは彼女が生まれて初めて抱いた感情。
魔女に対する感情の多くを占めていた恐怖よりもっとずっと膨大な。
――憎悪だった。
グレーテルの感情の成長に気付かず、彼女を殴ったことで一応のところで怒りを収めた魔女は、ヘンゼルに向き直って甘ったるく笑った。
猫撫で声が気持ち悪かった。
「ヘンゼル、好きな道具を使ってこの男を殺しなさい」
乱雑に頭に被せていた袋を取って、対象の顔が露わになった。至るところが赤かったり黒かったり、腫れていたりして痛ましかった。きっと魔女に暴力を振るわれたのだろう。ヘンゼルもグレーテルも魔女に殴られたあとはあんな風に殴られたところが変色したり腫れたりしていた。
グレーテルが『殺す』をしたときのように、部屋の中に次々と道具が運ばれていく。
「好きな道具……」
ヘンゼルは困惑しているようだった。
「でもぼく、殺したくないよ」
「殺さなきゃグレーテルがもっとひどい目に遭うわよ」
いつも通りの脅し文句。それもグレーテルには許せなかったが、その次の発言はもっと許し難いものだった。
「グレーテルはやったのにねぇ」
やめろと言ってふたりの間に介入したかったが――今まで魔女が施してきた『調教』の甲斐もあってグレーテルは力尽くで魔女を止める行動には出られなかった。
自分がすでに魔女を殺せるほどの力があることも、痛めつけられても痛覚をなくしているからもう痛みを感じることができなくなっていることにも気付けなかった。
だからグレーテルは見ていることしかできなかった。
ヘンゼルが壊れていく様を。
「さあヘンゼル、殺しなさい」
「グレーテルを同じ目に遭わせたいの」
「殺しなさい」
「殺しなさい」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」
元来、ヘンゼルは非常に心の優しい性格だった。
グレーテルが魔女に殴られたときも、自分が殴られたわけじゃないのにグレーテルよりつらそうな顔をするし、グレーテルが魔女に否定的な言葉で責められた後、自分も同じように魔女になじられていたのにグレーテルを慰めるばかりで、自分の心の傷は二の次に考えていた。
グレーテルはヘンゼルのことを誰よりも理解しているつもりだったが、肝心の彼の心の底で起きていた異変に気付いていなかった――それを、今、グレーテルは目の当たりにした。
優しすぎるくらい優しい、穏やかな心を持つ彼が、センセイを殺したグレーテルを見てなにを感じていたのか?
グレーテルを盾にされて、殺人をしなければいけなくなった彼の心にどんな影響があるのか?
「グレーテルのため……」
譫言のように呟かれた声にグレーテルは戦慄した。
――あれは本当にヘンゼルなの?
あんな空虚な、真っ黒な瞳は、わたしの知ってるヘンゼルじゃない。
まるで中身のない空っぽな声。ヘンゼルの声はいつも優しくて温かかった。今はその面影もない。
「ヘンゼル……」
グレーテルが呼んだ声が聞こえたのか、ヘンゼルはグレーテルに向かって微笑んだ。
「グレーテル、ぼくね、グレーテルのためならなんでもできるんだよ」
「ヘンゼル、やめて」グレーテルは涙を零した。自分の中にあるあらゆる感情がぐちゃぐちゃにかき回されて吐き気がしそうだった。「お願い、『殺す』をしないで」
魔女はそんなグレーテルの顔を蹴飛ばして黙らせた。痛くなかった。けれど逆らうことはできなかった。
「殺しなさい、ヘンゼル」
「はい、ママ」
ヘンゼルはそう言って、道具を使わず男のそっ首に手をかけた。
魔女は道具を使おうとしなかったヘンゼルを別段咎めるでもなく見守っていた。ヘンゼルの握力がどれほどのものか見て確かめるいい機会だ――とでも思ったのかもしれない。
まず、気管が詰まる音が聞こえた。男は恐怖で顔を強張らせた。
ヘンゼルが徐々に手に力を入れていくと、男の顔色はどんどん赤く、そして黒くなっていった。あの日のセンセイと同じだった。
あの日と違ったのは、センセイは「死ぬ」になる瞬間びくりと身体を痙攣させたが――その前に、男の首からボキンと音がして、男は動かなくなった。
ああ「死ぬ」になったんだわ――。
グレーテルは直感した。
ああ――ヘンゼル。
グレーテルは泣きたくなった。
男が死んだことよりも、ヘンゼルが男を殺したことよりもなお一層哀しかった。
ヘンゼルが壊れてしまっていた。
茫然自失としたヘンゼルは『殺す』をすると、力が抜けたように男の首から手を離し、足の力が抜けたのか座り込んでいた。
魔女に「いい子ね、ヘンゼル」と褒められ抱きしめられてキスを浴びせられても反応を返さなかった。魔女はそんなヘンゼルにまるで頓着せずさっさと部屋から出て行き、他のひとたち――魔女の手下だ――が諸々の片づけを終えてまたふたりだけの『なんでもあるなにもない部屋』の平穏を取り戻しても、ヘンゼルは座り込んだまま動かなかった。
「……ヘンゼル?」
「………………」
「ねえヘンゼル」
「………………」
グレーテルはそれなりに聡い子供だった。
このままだと、もしかしたらヘンゼルがいなくなってしまうかもしれないと、理由はわからないが直感した。
「ヘンゼル――」ヘンゼルの両頬を手の平で包んで多少無理矢理に顔を上げさせると、その顔のがらんどうさに、グレーテルは一瞬たじろいだ。
表情はない。
感情もない。
ヘンゼルは壊れていた。
「ヘンゼル、起きて」
届かない呼びかけの虚しさ。
「あ――あぁぁぁ」
どうして壊れたのがわたしでなかったのだろう。
どうして優しいという理由でヘンゼルが壊れなければならなかったのだろう。
「魔女め――魔女め、魔女め!」
ヘンゼルの両頬を両手で包んだまま、グレーテルは初めて呪詛を唱えた。
自分からこんな乱暴な言葉が出るなんて知らなかった。
「ちくしょう、ちくしょう――なんでヘンゼルを、許さない、許さない、許さない――わたしたちがなにをしたって言うんだ、ヘンゼルがなにをしたって言うんだ――ヘンゼルをこんなにして、これ以上わたしたちになにをさせたいって言うんだ――ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう――魔女め、魔女め」
涙と共に、それは先程より鮮明に、強烈に、グレーテルを支配した。
「――殺してやる」
やりきれない感情に呑まれたグレーテルは、ヘンゼルの両頬から手を離してすぐに彼に腕を回して抱きしめた。
泣いて、呪詛を繰り返す。
ときにヘンゼルの名を呼び、思い出したように魔女へ向けて呪詛を吐き、そして自身にさえ暴言を吐いた。
「わたしは嘘つきだ。なにも守れなかった。わたしはヘンゼルのナイトなのに――ヘンゼル、ヘンゼル――わたしの騎士様。わたしは、どうして、わたしが壊れればよかったのに!」
「そんなこといわないで」
幼い、たどたどしい声でグレーテルの呪詛は阻まれた。
グレーテルはその声が大好きだった。
「ヘンゼル……?」
「わたしはヘンゼル? グレーテル? ふふ、大丈夫、グレーテルはぼくが守る。あれ、でもぼくは誰? ヘンゼルじゃないのにそんなこと言っちゃダメ、ぼくはヘンゼル? ヘンゼルはいないよ。ヘンゼルは誰、誰、誰? わたしはグレーテル。わたし、わたしは、わたしわたしわたしわたし……」
「ボクはヘンゼル!」
グレーテルに躊躇はなかった。
ヘンゼルのためなら、グレーテルはいくらでも自分を偽ることができる。
壊れてしまったヘンゼルのためなら、グレーテルはいくらでもヘンゼルになれた。
「きみはボクのお姫様のグレーテルでしょ。ほら、今日はもう寝よう、グレーテル。明日もいっぱい遊ぼう」
「ワタシはグレーテル。そうだったわね、ヘンゼル」
ヘンゼルは、空虚に演じてグレーテルに笑いかけた。
「ねえヘンゼル、お外に出たらなにが見たい?」
胸が押しつぶされるかと思ったが、グレーテルは顔を歪ませたような笑顔を象って言った。
「ボク……ボクは、ヤマが見たい」
「ふふふ、ワタシはウミが見たいわ」
「でも一番に見たいのは」
「「ソラ」」
そうしてふたりは満足して眠りにつき、一日を終えた。
ひとりは偽り、ひとりは壊れたまま、明日を生きる絶望を得て。
◆◆◆
「どうしてお前たちはお互いの服を着ているんだい?」
魔女が疑問を持つのは当然のことだ。
ヘンゼルが自身をヘンゼルと認識できなくなって七日経った。
自身をヘンゼルであると認識させようとすると、彼はまた壊れた音楽機器のように同じ言葉を繰り返したり、半日以上貝のように黙ったままだったりと、異常の見られる精神状態でいた。
彼をヘンゼルでなくグレーテルであると認識させておけば、目立つ異常は見られない。
「あのね、ママ」ヘンゼルの服を着たグレーテルが魔女の耳に口を寄せて囁いた。魔女はそんな風に、子供が懐いた大人にするような行為をグレーテルからされて、幾分か気分がよくなったらしく嫌な感じの笑った顔をしていた。グレーテルは魔女の香水の匂いに吐きそうだった。「わたしとヘンゼルは今、入れ替わりごっこをしてるのよ。ヘンゼルは役者さんだから、今ヘンゼルにお前はヘンゼルだろうって言ったらとても怒ると思うの。だからママもヘンゼルがグレーテルだって思ってお話ししてね」
「ああわかったよ、可愛いグレー……ヘンゼル」
魔女はグレーテルの頭を撫でて、ついでにキスもした。相当上機嫌だったのだろう。グレーテルはその手を振り払って触れてきた唇を摘んで引きちぎりたかったが我慢した。
それから何日も、何ヶ月も、何年も。ふたりの入れ替わりごっこはずっと続いていた。
否、これは入れ替わりごっこではない。ふたりにとっての現実だ。
ヘンゼルがこれ以上壊れないための。グレーテルがこれ以上奪われないための。
◆◆◆
「ねえグレーテル」
「なに、ヘンゼル」
「知ってる? ボクたちは明日、この『なんでもあるなにもない部屋』から出られるんだよ」
「知ってるわよ――でもそれは、解放ではないでしょうね」
「もう、夢のないことを言わないで」
「だってヘンゼル、魔女に捕まったワタシたちを助けてくれるひとなんて」
「うん、どこにもいないよ」
「ほら――」
「だけどグレーテル、ボクはきみの騎士なんだよ。どんなことになっても、ボクがグレーテルを守ってあげる」
「心強いわ、ヘンゼル。ワタシ、あなたがいればどんな地獄に行ったって構わない」
「そうだよグレーテル。ボクもきみさえ一緒なら、どんな別世界にだって生きていける」
ふたりが眠る前にする幼い会話に割り込んだのは、最初に響く大きな爆発音とそれから――ふたりだけの世界を破壊する衝撃だった。
「え、え、ええ……?」
「ええ、え、え、え……?」
思わず互いを抱きしめ合い庇い合う。
どおん。
どおんどおんどおん。
揺れる視界。
いや、揺れているのは視界ではない。それは世界。
ふたりだけの世界が破壊されている。
ふたりの『なんでもあるなにもない部屋』が崩れていく。
「ヘンゼル……!」
「大丈夫、グレーテル、ボクがいる」
ヘンゼルと呼ばれた少年は必死に少女を守る。
宣言通り、自分のお姫様を守るために。
崩れる瓦礫から恐ろしい魔女から不確かな破壊から。
ヘンゼルはグレーテルを守らなくてはならない。
どこからか足音が聞こえる。瓦礫の崩れる音からヘンゼルはその音を聞き分けた。
誰だ。魔女か?
いや、違う。
魔女はこんなにも静かな足音ではない。いつも必要以上に自分を大きく見せるために、わざとらしい大きな音を立てている。こんな状況で足音を殺す必要性もない。
ならば誰が。
ひしゃげたふたりの世界を画するその扉。瓦礫の音よりも激しい轟音で。
ふたりだけの世界は終わりを告げた。




