FILE9・FILE10 扼殺・絞殺 2
確かにふたりの境遇は惨めなものだっただろう――だが、脱出もしくは脱獄しようという意思が、どうしてふたりの間に沸き起こることがなかったのか。
それは単純に、ふたりの中での脅威とは『魔女』ひとりだけだったからだ。
モニターに言えば食べたいものも遊びたい玩具も着たい服ももらえるし、互いがいるから寂しいと思うこともなかったし、たまに診察に来てくれる『センセイ』やその『ジョシュ』のひとたちは優しかった。
間違えて刃物で手を切ってしまったときも急いで部屋に来て、消毒をして絆創膏を貼ってくれたし、魔女に殴られて頬が腫れたときも、魔女がいなくなったあとに冷やしてガーゼを当ててくれた。
「可哀想にな――」と呟いた言葉を、グレーテルの耳ははっきりと聞き取っていた。
人間の心理など、実験動物のふたりにはそんな概念さえもないので推し量ることなどできないが、ただ少し、センセイとジョシュのひとたちが魔女に向けている心は、もしかしたら自分たちが魔女に向けている心と同じものなのではないかと――仲間意識に似た感覚を覚えていた。
人間らしい感性をもって、あのひとたちはふたりを見ていたのだろう。
世界中で起こっている争いの数々の中では人を人とも思わぬ所業に手を染めてきた人間はたくさんいたが、下弦研究局第四研究室の医療担当部の面々はそれを行うに足る人間性を持ち合わせていなかった。むしろ室長であり実験動物たちが『魔女』と呼び恐れる彼女のように、気まぐれだが冷酷に徹することのできる人間性であった方が、余計な累が及ぶことはなかっただろう。
彼らは優しすぎた。
通常の世界で生きるにはもしかしたら幸せになれたかもしれない。
優しさの美徳で周囲の人間から愛されて生きていけたかもしれない。
けれど、不運にも――彼らが生きていたのは裏社会の頂点に君臨する玉兎家のお膝元、下弦研究局だった。
優しすぎたからこそ実験動物たちからは慕われていたし、冷酷な『魔女』がそれを利用しないはずがなかったのだ。
◆◆◆
「痛いところはないかね」
つるりとしたセンセイの頭を眺めながらぼんやりしていたグレーテルの意識は、ゆっくりと掬いあげられた。本当に自分のことを気遣っているとわかる優しい声音のセンセイは、低く、ゆったりとしたテンポで話すから、いつも眠気を覚えるほど安心してしまうのだ。
寝る前に、絵本を読んでもらいたいわ――と思ったことも少なくない。でも彼らはいつも午後四時以降に部屋に来ることはなかったし、グレーテル自身もそんな我儘を言ってセンセイを困らせたくはなかった。
お願いしたらこのセンセイは、困った顔して笑うんでしょうね――できないことをお願いする虚しさはもう知っているから、やらないけれど。お願いして苦しくなる気体をまた部屋に流されるのもいやだし。
「あのね、センセイ」
グレーテルはセンセイの質問に対し、いつもの診察と同じ調子で訊ねた。
「わたしね、身体がおかしいみたいなの。ママと一緒なの」
「ママと?」
「ここ」と言って服を胸までめくりあげる。「先っぽがなんだかじくじく痛くて、周りが腫れてきたの」
それはグレーテルの身体が女性的なそれになってきた証だった。
去勢する前に月経が始まっていないことは確認していたが、女性ホルモンの投与は続けていたので当然の身体の変化だった。
女性ホルモンの投与については「女性的な身体的特徴があった方が都合のいい作用もあるだろう」という室長の指示だ。「都合のいい作用」になにを適用させるかを深く考えると、彼はひどく悲しい気持ちになった。
「グレーテル、よく聞きなさい」
センセイはいつも、ふたりが互いを呼び合う名前を呼んでくれた。
躊躇なく服をめくりあげた手を、センセイは優しく包んで、服の裾も直した。
「それはあなたの身体が女性らしくなってきたからだ」
「女性らしく?」
「ママとあなたは女性で、胸が膨らんできたのはあなたが大人の女性と同じものに成長してきたからなんだよ」
「でもママはわたしたちに性別なんてないって……」
「いいかいグレーテル、ママはあなたに性別は必要ないと言ったが、身体はそうはいかないんだ。成長するし、ヘンゼルと違う変化が現れる。それは病気なんかではないから安心しなさい。だが――もうヘンゼルや、特に私たちにおいそれと裸を見せたりしてはいけないよ」
「どうして?」
「ヘンゼルや私たちが男だからだ」
グレーテルはきょとんとしていた。男性と女性の違いはなんとなくわかるが、どうしてそれが裸を見せてはいけないことに繋がるのかがわからないからだった。
グレーテルの身体は徐々に女性のものになっていたが、心はいつまでも無垢な子供のままなのだろう。
それはきっと、ヘンゼルも。
性教育をふたりに与える権限は、センセイにない。教育はすべてママたる室長が与えることになっている。だからこれ以上グレーテルに説くことは重大な規約違反となる。
室長が求めているのは性教育を受けた女の子ではなく、飼い主たる人間に従順に従う理性ある兵器なのだから。
人間であることすら――許されない。
センセイだって失念していたわけではないだろう。
だが人間の情というものはいつだって薄弱だ。少しでも愛着が湧けば同情心も湧く。
ただのぬいぐるみにだって名前を付けたり服を着せ替えたりすればそれはもう人間扱いしているのとほとんど同じで――それは実験動物に人間並みの教育を与えたいと思ってしまったのと同じなのだ。
下弦研究局の総意として、それは――必要ないものだった。
瞬間、グレーテルの目の前にあったセンセイのつるりとした頭が横凪ぎになくなった。
投薬実験で極限まで高められたグレーテルの動体視力は、センセイの後ろに現れた魔女が部屋の中にあった玩具のバットで殴りつけた姿をきちんと捉えていた。センセイに魔女に殴られそうだよ、と注意しなかったのは、彼女にとって魔女の暴力はすでに日常と化していたからだ。ヘンゼルに暴力が振るわれるときでも彼を庇ってはいけないのなら、ヘンゼルより大事ではないセンセイに忠告する必要性は彼女に生じなかった。
「残念だよ十和田、お前は優秀な研究員だったって言うのに――お前のせいで、お前もお前の家族も死んでしまうんだね」
魔女の表情は優しかった。魔女の声音は温かだった。
「グレーテル」と初めてふたりが互いを呼び合うようにつけた名を呼んだ。いつもは『お前』としか呼ばなかったのに――狡猾な魔女は、利用できるものならなんでも利用する。「この男のことは好きかい」
突拍子もない質問だったが、魔女の質問は真実を答えるべきと教育されてきたので、グレーテルは正直に答えた。
「センセイのことは好きよ」
「そうかい、そうかい」
魔女はいやに上機嫌だった。
甘ったるい声がにやけた唇から発されるのが、ひどく不気味に感じた。
「じゃあグレーテル――」グレーテルの頭を不自然なくらい優しく撫でながら、魔女はグレーテルに命令した。「――この男を殺せ」
「――え?」
「聞こえなかったのかい」
「聞こえた、聞こえたわ、ママ。でも、コロすってなにするの。センセイをコロすって、センセイになにすればいいの」
たどたどしく整理しようとするグレーテルの言葉に、魔女は「ああそうだったね。お前たちにはまだ、殺人自体は教えてなかったね――」と更に笑顔になった。
「殺す」という脅しは常に彼らには投げかけ続けていた。「お前が抵抗すればもうひとりを殺すよ」と。
だが、ふたりにはもともと「死」の概念がなかった。
「死」の概念がないのにどうしてふたりが「殺す」という脅しに素直に従ったのかは、ふたりが「殺す」という言葉そのものを不明なものとしたまま、普段から自分たちが晒された暴力の延長線上の、最高峰に位置する暴力を振るわれるのだろうと無意識の内に考えていたからだろう。
事実その通りである。
暴力の延長線上の最高峰に「殺す」という行為はあり、それを受ければ生き物はただでは済まない。
いつもの暴力だってヘンゼルもグレーテルも自分が受けるのは嫌だったし、『もうひとり』がそれを受けるのはもっと嫌だった。
命令に従っていれば「殺す」行為に及ぶことは絶対になかったから、ふたりにとって「殺す」行為は最も恐ろしい暴力であり、最も実態が掴めなかった暴力だった。
ヘンゼルが「ガクシャになる」と言い出した頃、辞書に載っていた言葉は確かにたくさんふたりの知識に様々な概念を与えた。しかし「殺す」項目に載っていた「命を奪うこと」という説明はふたりにはピンと来なくて、やがて他のたくさんの項目と同様忘れられてしまった。
それを今、魔女が直々に教育を施すことになったのだ。
「殺すということは命を奪うこと」
「コロすということは命を奪うこと……命を奪われたらどうなるの」
「死ぬのさ」
「死ぬって……どうなるの」
「動かなくなる、いなくなることさ」
「……、……?」
「まあ――実感は湧かないか」
呟いて、魔女は薄くて四角い箱に指を突き立てて何回かクルクルトントンと動かした。しばらくすると部屋にたくさん人が入って来て、なにかを続々と運んできた。
自分たちの世界に今まで見たこともない大人数が侵入してきて、グレーテルはほんの少しざわざわした気持ちになったが、あまり不満を表すと魔女の方が不機嫌になって暴力を振るわれ、もしかしたら自分が「殺す」をされるかもしれないと考えて黙っていた。どうせいつかはいなくなってふたりの世界に戻るのだし、今だけ我慢すればいいだけだ。
センセイはいつの間にかロープで縛られていた。
顔色がいつもよりずっと悪い。ああこれが「顔が真っ青になる」と言うのね――と、グレーテルは暢気に考えていた。きっとこれからセンセイに「殺す」暴力をすれば、それが治ったとき、また優しく自分たちの診察をしてくれるだろうと、暢気に。
縛ったまま椅子に座らされたセンセイは、部屋に運び込まれたものを見ると青かった顔を更に青くさせた。おもむろに「許してください室長……それだけはどうか……」と魔女に向かってお願いを始めた。
だけど魔女がそんなお願いを聞き入れるはずがないと、グレーテルも、ヘンゼルも、そして当のセンセイだって分かっていた。
「ヘンゼルはそこで見てなさい――グレーテル、こちらへおいで」
言われるがまま、グレーテルは魔女のもとへ寄った。
机の上に並べられた様々な種類のなにものかを、グレーテルに指し示す。
玩具で持っているバットに似ているけれど、玩具とは違ってそれは金属でできていて、同じような金属の棒が無数に刺さっているものや、おままごとで使う包丁に似ているけれど、玩具と違って工作のときに使うハサミみたいな鋭さがあって、ハサミよりずっと危ないものに見えるものなど、たくさんありすぎてそのどれもがどうやって使うのかグレーテルには想像もできなかった。
それらがすべて、人を殺すためにあるものだなんて。
「グレーテル、ママはお前が悪いことをしたらいつもどうしていたっけね」
「わたしが悪いことをしたら、ママは怒るわ。怒って、罰としてとても痛いことをする」
「そうだね。それでね、このセンセイは悪いことをしたんだよ」
「え? センセイが悪いこと?」
「ああそうさ――とても悪いことさ」
にたりと湿気を帯びた笑顔で、魔女は笑う。おかしくてたまらない、そんな顔だ。
「センセイはどんな悪いことをしたの」
「お前に必要ないことを教えようとしたんだよ」
グレーテルは首を傾げた。センセイが自分に必要ない知識を与えたなんて、そんな覚えはひとつもなかった。
「お前は可愛いわたしのお人形だ。わたしが教えることだけ信じていればいい」
「………………」
魔女の言うことにいまいち理解が追い付かなかったグレーテルは、しばらく思考のために黙っていた。どう思い出してみても、センセイが悪いことをグレーテルに教えた記憶がないのだ。
「返事は」
しかし思考は打ち止められる。魔女の語気が強くなり、指輪だらけの手を顔の横に握って持ってきていた。返事を返さなければどうなるか簡単に予想できる。
「はい、ママ」
「いい子ね……あのね、悪いことをしたら、とてもとても悪いことをしたら、その人は『死刑』になるのよ」
「しけい」
「殺されてしまうの――それが罰なのよ」
悪いことをしたら罰を受ける。
ヘンゼルもグレーテルも、何度も悪いことをしたから罰を受けた。
魔女の言いつけを破ったときや、魔女の腕を掴んで骨を折ってしまったときや――外に出たいと願ったとき。
本人が悪いことをしたという自覚がなくとも、悪いことをしたのは変わらない。だから罰を受けるのだ。罰を受けるようなことをしたから悪いのだ。
きっとセンセイもそうなのだろう。
本人に自覚はなくて、でも魔女が言うから本当にセンセイは悪いことをしたのだ。
だから罰を受けるのだ。
「グレーテル、ここにある道具、好きなのを選んでセンセイに使いなさい」
「――はい」
頷いて、訳も分からぬままグレーテルは道具を見比べた。
グレーテルは可愛いものが好きだ。ピンク色のもの、丸い形のもの、リボン、フリル、レース、ハート形やキラキラしたもの。でも魔女の用意した道具の中にはそんなものはひとつもなくて、カクカクした黒光りするものやキラキラ輝くけれどグレーテルの思う輝きとは違うものばかりあって「好きなもの」と言われてもピンと来ない。
「グレーテル?」
迷ってばかりで時間が過ぎていく。魔女が不機嫌そうな声でグレーテルを急かす。
焦ったグレーテルは、狭窄する視界に映った筋のように光るものを慌てて掴んだ。
ビーズを用いたアクセサリーを作るときに使う、ピアノ線だった。
「ふうん――それを使うんだね。使い方はわかる?」
「わ、わからないけど、綺麗だったから」
「いいよ、わからなくて当然さね。ママが教えてあげるからおいで」
そして魔女は丁寧に手解きを施した。
緩めたピアノ線をセンセイの首に巻きつけなさいと言われて言う通りにしたら、センセイはひどく怯え出した。許してくださいあなたに逆らうつもりはなかったのですお願いです殺さないで――グレーテルはそんな風に怯えるセンセイが可哀想に思えて、すぐに殺してあげてその怖さから解放してあげなくちゃ、とピアノ線を巻き付ける手を速めた。
「そう。そうしたら、交差させてギュッと力いっぱい引っ張るのよ」
「はい、ママ」
ギュ。
かふ、とセンセイは詰まったような声を出した。青かった顔はつるんとした頭まで赤くなって――一瞬、グレーテルは手を緩めた。「ママ、これはいつまでやればいいの?」
「死ぬまでさ、ほら、手を緩めちゃ駄目だよ」
「はい、ママ」
もう一度力いっぱいピアノ線を引っ張った。
センセイの顔はどんどん赤くなり、目も血が滲んだみたいに白目の部分が赤くなり、口をガパっと開いて舌先を突き出して、苦しそうで苦しそうでグレーテルはセンセイが可哀想に思えて早く「死ぬ」状態にしてあげなきゃと更に力を強めた。
やがて顔色は赤色から紫色に変わり、それでも「死ぬ」状態にならなかった――否、それはもう、死ぬ過程真っ只中であることを、なにも知らないグレーテルは気付かなかっただけだ。
一瞬大きく痙攣して、今まで強張っていたセンセイの身体はぬいぐるみみたいにぐにゃぐにゃになっていた。
「よくやったわねグレーテル!」
魔女は嬉しそうに笑い、喜び、グレーテルに抱きついて頭を撫でてキスまでした。
「ママ」グレーテルは呆然と呟く。「これは、センセイは『死ぬ』になったの?」
「ええそうよ――」
「なら早く手当てをしてあげなきゃ。目も赤くなってて大変だったのよ。死ぬになったら罰は終わりでしょう」
「ええ終わったわ。センセイは死んだの。もう生きてないの」
「生きてない?」
「生きてない」
「……そう――そうなのね」
グレーテルは魔女の言葉を受け取って、受け入れて――諒解した。
その日のご飯はとても豪華で、ヘンゼルは非常に喜んでたくさん食べた。しかしグレーテルは自身の内側に起こった変化に呑まれて食がそれほど進まず、お風呂に入って綺麗な服に着替えて、ふかふかのベッドに入っても変化による混乱は収まらず、眠る直前のヘンゼルとの会話もぼんやりとしていて、ちゃんと返答できていたかの意識もなかった。
暗い部屋でヘンゼルの規則正しい寝息を聞きながら、グレーテルは胸の前で祈るように手を組んでひたすら考えていた。
「どうか、どうか――ヘンゼルは『殺す』なんて気持ちの悪いことをしないで済みますように。ヘンゼルが『殺す』をしないで済むなら、わたしがいくらでも『殺す』をするから――ヘンゼルがわたしの騎士であるように、わたしもヘンゼルのナイトになる――だから、ヘンゼルがあんな気持ちの悪くなることをしませんように――」




