FILE9・FILE10 扼殺・絞殺 1
『下弦研究局第四研究室』
ふたりが『家』だと思い込んでいた施設の本当の名前はそんな仰々しいもので、ふたりが施設から受けていた『愛』はすべて人を傷つけるために与えられていた『教育』だった。
『教育』という言葉でなければ『調教』と言い換えてもいい。
ふたりはお互いのことを「ヘンゼル」と「グレーテル」と呼んでいた。
甘いお菓子の家に誘われて魔女に囚われた哀れな兄妹を、幼いながらも自分たちと重ねたのだ。
可愛らしいひよこ柄の壁はビスケットなんかじゃないし、天井は高くて届かないけれど見た限りチョコレートじゃない。机も椅子もベッドも、無機質な象牙色で全然美味しそうじゃないから、ここは全然お菓子の家じゃないねと笑ったことは一度や二度ではない。
魔女がふたりに与えてくれるものの多さを考えれば、むしろあの兄妹のように哀れと言うほどの扱いを受けてはいない。
けれど、与えられる本から得られる『一般常識』と、彼らが持つ『一般常識』に大きな隔たりがあることをふたりは早くに気付いていた。
ふたりには絵本でよく見る親の記憶も、魔女に囚われた時の記憶もなかった。気付いたらそこにいて、気付いたらふたりきりだった。
「ご覧、グレーテル、この絵本に描かれている『カステラ』はなんて美味しそうなんだろう」
「本当だ、どんな味がするのかな」
「実際に食べてみればわかるよ。お願いしよう」
そして部屋のモニターに向かって「カステラをください」と願えば、一時間もしないうちに部屋へ搬入される。ふたりが願った通りの、フライパンいっぱいに膨らんだ黄色の美味しそうなカステラが。
「この服、なんだか小さくなっちゃった。新しいお洋服がいるわ」
言う通りピチピチになって着るのも一苦労になってきたワンピースを溜息と共に見下ろして、グレーテルはモニターに向かって「服をください」と願う。すると、三十分と経たずに部屋へ女の子用の可愛らしいワンピースが搬入される。グレーテルは大喜びでワンピースに袖を通し、飽きるまで何度も何度も着続けた。
また、ヘンゼルが「新しいおもちゃが欲しい」と願えば、次々と搬入されて、「もっと」と願うたびに様々な種類の積み木やブロックやパズルがヘンゼルのために用意された。
このように、ふたりが願えばなんでも手に入るのだ。
美味しい食べ物も、綺麗な洋服も、面白い玩具も、なにもかも。
部屋の中はふたりの楽園。不自由のない極楽浄土だった。
『部屋の外に出られない』ことと『魔女』が訪れることを除けば。
一度、ヘンゼルが外遊びをする描写のある絵本を読んでから「お外で遊んでみたい」とモニターに願ったら、魔女の声が「ダメよ、それは。そんなことを願う悪い子にはお仕置きが必要ね」とスピーカーから流れて、部屋の中になにかが流れ込んできた。それは気体であるらしく、ずっと吸っていると苦しくなって嘔吐感を覚え、グレーテルは本当に吐いたし、それはヘンゼルが「ごめんなさい、もう言わないから、もうお外に出たいなんてお願いしないからゆるして」とのたうち回りながら何度も謝らないと止まらなかった。部屋には窓などないため換気もままならず、完全に空気の入れ換えができたと判断したのは一日経って吐き気がなくなった時だ。
絵本でもたびたび見かける『おでかけ』だけは、どれだけモニターにお願いしても叶えられないものだった。
願うたびに苦しくなる空気が流れるから、すぐにふたりは『おでかけ』を望まなくなった。
けれど子供の憧憬や好奇心は果てしなく、モニターにさえ願わなければなにを話そうと自由であったため、ヘンゼルもグレーテルも頻繁に絵本を見て想像を巡らし語り合った。
ウミという大きな塩水、ヤマという大きなツチの塊、ソラという、日と時間によって色を変える際限のない天井。
「ねえグレーテル、外に出られたら、まずなにを見たい?」
睡眠の時間になると部屋の中は自動的に暗くなる。天井には蓄光の絵が描かれており、その光を頼りにベッドまで歩き、潜り込む。何度かもぞもぞと体勢を整えて眠れる姿勢が確保できると、決まってヘンゼルはグレーテルにそう訊ねる。
「わたしはウミが見たいな」
グレーテルの返事もいつも同じだった。
「だって終わりが見えないたくさんの水だよ。暑いときにお願いすれば出てくるプールよりもずっと大きな水、それが全部お塩の味がするなんて、信じられる?」
「信じられないよ。でも絵本には全部同じに書いてあるんだ。きっと本当にあるんだろうねえ」
「そんなにたくさんの塩水、どうやって作ったのかしら」
「ずっと塩を出し続ける石臼が沈んでるんだって、絵本には書いてあったよ」
「……ヘンゼルはなにが見たいの?」
「ぼくはヤマが見たい。ご飯のときに出てくる野菜よりも大きなキがたくさん刺さってる、ツチの塊なんだって。ツチってなんだろう」
「食べられないんですって」
「絵本ではチョコレートみたいな色をしてるのに、食べられないなんて変なの」
「でもそこから野菜は出てくるんだよ、それを食べてドウブツは生きてるんだって」
「ドウブツって変よね、わたしたちみたいに足で立たないで、腕も使って歩くのよ」
「歩きづらいよねぇ」
「でも絵本のネコやイヌは、たまに足で立ってるから、自分がやりやすい方法で歩いてるのかも」
「なるほど、きっとそうだ」
「外に出たら足で歩くドウブツと腕も使って歩くドウブツ、両方と会ってお話したいな」
「ヤマやモリにはドウブツがたくさんいるんだ。きっと素敵だよ」
「あら、ウミの方が素敵よ」
「いいや、ヤマだよ」
「………………」
「………………」
「でもやっぱり」
「一番に見たいのは」
「「ソラ!」」
そうしてふたりは満足して眠りにつき、一日を終える。
外についてふたりが知り得たのは、それだけだった。
一日を数えて七個目が来ると、ふたりの世界には必ず『魔女』が現れた。
魔女は自身のことを『ママ』と呼ぶようにふたりを教育していた。ヘンゼルもグレーテルもその教育に従った。背けば爪を剥がれたり髪を掴んで引きずり回されたりするからだ。
魔女は、まさしく絵本に出てくる魔女そのものだった。見た目は目の上や唇に色を付けた女のひとで、ヘンゼルやグレーテルの髪の毛は真っ黒なのに魔女はたまに白いのが混じっていて、黒くてツヤツヤした髪の毛みたいなのがくっついている上着を着ていたものだから、大きな身体がもっとずっと大きく見えた。いつも変な棒を持っていて、それから出てくる煙はひどく臭かった。
少しでも反抗的な態度を取ると、魔女は眉を吊り上げて怒る。爪を剥ぐだけではなく髪を引き抜くこともあったし、煙の出る棒を腕に押し当てることもあった。煙の出る棒は押し当てられるとできたてのご飯よりずっと熱くて、しばらくの間は服が擦れるだけでも痛かった。のちに変な棒は『煙草』という名前だと知った。
会うたびにそんな教育を受けていれば、なにも知らない幼子ふたりが魔女に従順になるなど造作もない。
従順でいればなにもされない、というわけではなかったが。
魔女は気分でふたりを殴ったり蹴ったりする。イライラしていたから憂さ晴らしで、誰かを殴りたいから体のいいサンドバッグとして、ただなんとなく「殴ったらどんな反応するかな」という好奇心で、魔女は脈絡なくふたりをよく殴った。骨のないところを殴られて悶絶するヘンゼルを見て、魔女は指を指しながらげらげら笑っていた。呻き声をあげるヘンゼルに駆け寄ろうとしたグレーテルを、魔女は「なにも命令していないのに動いた」罰として蹴り飛ばした。その日、ふたりは食事ができないほどの痛みを抱えて夜を過ごした。
毎日打つ注射は痛いと感じる間もなく終わるからふたりは平気だったが、魔女はどうやら注射を「痛いもの」と認識しているようで「痛いのに偉いのね」と頭を撫でてグレーテルを褒めたその直後に、顔面めがけて拳を振るったこともあった。鼻から血を流すグレーテルを「まぬけな顔」と嘲った顔は、今でも思い出せる。
「ヘンゼル、魔女はきっとわたしたちのママじゃないわ」
魔女が去り、毎日注射を打ちに来る『センセイ』が鼻を押さえるようにと処置してくれたガーゼを気にしながら、グレーテルは呟いた。
「だって、本当のママだったらこんなことはしないわ。どの絵本も、『オカアサン』はいきなり子供を殴ったりしないもの」
「そうだね――ぼくたちの本当のオカアサンは、一体どこにいるんだろう」
「いつかきっと迎えに来てくれるわ。そしたらわたし、めいいっぱい甘えちゃう……でも、甘えるってなにをすることなのかしら」
「うーん……ぼくにもわからないけど、ぼく、抱っこされてみたい」
「抱っこ! それならわたしはおんぶされたい」
痛みを忘れるために行う現実逃避は、いつでも七日に一度の恒例だった。
ふたりはオカアサンもオトウサンも、オネエサンもオニイサンも、オトウトもイモウトも、なにも知らなかった。
お互いが世界のすべてで、それ以外は自分たちの世界の外の、絵空事だったのだ。
いつかオカアサンが迎えに来るよ――などと夢見ていたが、現実になるなど微塵も信じていなかった。
そもそも『夢』を見るなど、ふたりには許されていなかったのだから。
ふたりは夢も見ず、希望も持たず、感情のない、戦争のための兵器となって命令のままに人を殺しせしめる存在としてあることを求められたモルモットだったのだから。
毎日打つ注射は徐々に人間離れした筋力を持たせるための実験薬だったし、外に出たいと願ったときに散布された気体はあらゆる毒に抗えるよう慣らされた毒素だったし、魔女の教育は『人間』の言葉に従わせるための洗脳だった。
年の頃が二桁に達した時には、すでにふたりは人間など簡単に捻じ殺せるだけの力を持っていた。毒もそう易々とふたりを害することはできなくなっていた。魔女の洗脳は完璧で、それだけの力を与えられながらも魔女や、魔女が従える『世界の外』のみんなから言われたことに唯々諾々と従う、ただそれだけの兵器として確立していた。
「まだ――まだだね」
グレーテルの、徐々に成長期を迎えた身体のデータと本人を見比べながら、魔女は呟いていた。その言葉の意味は――ふたりには理解できなかったけれど。
理解することは、ふたりに求められていなかったから。
「ヘンゼル、魔女がいつも言う『マダ』ってなんのことかしら」
「言葉からすると『未だ』のことだよ」
「あ、この間もらった辞書に載ってたこと、もう使ってる」
「ふふん、ぼくは辞書に載ってる言葉を全部覚えて、ガクシャってやつになるからね」
「ガクシャってなにするの」
「色んなことを知ってる人のことだから、色々知っていればなれるんじゃないの」
「ならわたしもガクシャになれる?」
「ええーっ、ぼくはグレーテルには、ぼくのジョシュになってもらおうと思ってたのに」
「ああ、噓よ、噓。わたしはガクシャにならないわ。ヘンゼルのジョシュになる」
その日一日、ふたりはガクシャごっことして、色んなことを知るために部屋の中の絵本をひっくり返す勢いで全部読み、モニターにお願いしてガクシャとジョシュの服を着て遊んだ。
そしてふたりのガクシャとジョシュになる夢は終わった。
ガクシャごっこをしたことで、ふたりの夢はもう済んだことになったのだ。
ふたりにとっての世界はこの部屋ですべて完結する。ガクシャになるには部屋の中の本を全部読んでしまえばいいし、ガクシャの服を着ればもう完璧なのだ。
そんな絶え間のない夢は実現が容易く、際限がなかった。
ある日は王様と家来に、ある日は探偵と怪盗に、ある日は画家とモデルに、ある日は先生と生徒に、ある日は医者と患者に、ある日はパティシエに、ある日は絵本作家に、ある日は音楽家に……ふたりは何にでもなれた。
特にふたりが気に入っていたのは、お姫様とその騎士になることだ。
お姫様は女であるグレーテルが、騎士はヘンゼルが担当していた。お姫様はとても愛らしいものだから、ぬいぐるみたちが彼女を狙っていつも悪だくみして騎士から奪おうとする。しかし騎士はとても強く勇敢で、悪いぬいぐるみたちに負けることなど一度もなかった。
「ありがとう、わたしの騎士」
「当然です。だってぼくは、グレーテルの騎士なのですから」
助けられたグレーテルはヘンゼルにお礼を言い、ヘンゼルはグレーテルに跪いてにっこり笑いかける。
魔女が来る日もそれは変わらず続けられ、ついに魔女の逆鱗に触れた。
いつもならば魔女には従順にしていなければならない場面。目の前でどれだけグレーテルが痛めつけられようが、ヘンゼルは黙って魔女に言われるまでじっとしていなければならなかったが、いつしかヘンゼルの中ではグレーテルとのごっこ遊びは本当のこととして馴染んでおり「自分はグレーテルの騎士なのだ」という意識が大きくヘンゼルに影響していた。ヘンゼルは、いつものようにグレーテルに煙草を押し付けようとした魔女の腕を掴んだ。
「ぎゃあ」
と叫んだ魔女は、持っていた煙草を取り落とす。
そんなに力を入れたつもりもないのに。
当然、それはふたりが改良に改良を重ねた実験体だったから、握力は常人離れした強さだったから、魔女の腕を掴んだヘンゼルの握力は相当の強さだったのである。
呆気なく、魔女の腕の骨は折れてしまった。
だらんと力なく投げ出された腕は見たことのない方向を向いていた。ヘンゼルは自身が魔女になにをしたのか――なにをしてしまったのか――咄嗟に理解できなかったが、魔女を怒らせてしまったことだけは直後に痛感することとなった。
「騎士と姫だって? お前たちがそんなものになれるわけはないだろう――お前たちにそんな幻想必要ないの」
そう言って。
魔女は初めてヘンゼルとグレーテルを『外』に出した。ふたりはもう望んでいなかった外に出たいという望みが、このとき、希望に反して叶えられたのだ。
見たことのない無機質な形をしたベッドに括りつけられ、麻酔もなく、ふたりは去勢させられた。
そもそもふたりにはもう、通常の麻酔は効かない身体になっていたのだ。そして魔女には、ふたりに倍以上の麻酔を使ってあげてまで痛みを和らげさせる必要性も、気遣いもなかった。
魔女にとっては大切な商品ではあったが、慈しむべき人間として映っていない。
手術の最中にされた処置らしい処置は、布を噛まされることだけ。その理由だって至ってシンプルな『聞き苦しい悲鳴を聞きたくないから』という、ヘンゼルとグレーテルを慮ったものではなかった。
手術中もふたりの様子は観察され、記録を取られた。しかし下腹部を切られメスやハサミが自身の内臓を遠慮なくかき混ぜてゆき、生殖器を摘出される想像を絶する痛苦を前に、記録を取られていた、などという事実はどうでもよかった。ただひたすら、手術が終わってこの痛みの連鎖が終わることを願うしかできなかった。
哀れにも、ふたりの人体実験の末に手に入れさせられた身体の強度のせいで、気絶することは叶わなかったのだ。
去勢手術の末に魔女が手に入れた人体実験の結果は、『被験体1029と被験体1030は痛みによる拷問に耐えうる強度を持つ』ことと『ショック死の可能性は極めて低い』こと――等等、人間兵器としてこれ以上なく満足のいくものだった。
きっとふたりが本気で暴れてしまえば手術台の拘束具だって簡単に壊せてしまえただろう。それができなかったのは、魔女が囁いたからだ。
「お前が大人しくしていなければ『もうひとり』をもっとひどい目に遭わせるからね」
実験結果には、精神面でも強く影響を及ぼす項目があった。
互いが互いを思い遣ることで枷として機能させる。
どちらかを盾に使えば必ず命令に従う。
例えば戦場で捕虜として捕らえられ拷問にかけられたとしても、『もうひとり』がどんな目に遭うかを戦場に立つ前に教え込んでおけばそう易々と情報を吐くことはないだろう。どんなに痛くても、つらくても、『もうひとり』を魔法の言葉として盾に取ればいくらでも我慢できる。
そういう風になるよう、ヘンゼルとグレーテルは『なんでもあるなにもない部屋』にふたりで育てられたのだ。
これでふたりの関係があまり良好でなければ結果もまた違っただろう。実際、別の部屋ではそういうことも起こっていた――らしい、とあとになって知った。そんな別の世界では互いが枷にならないと判断された時点で処分されたらしい。
生殖器を切り取られ、気絶もできなかったふたりは部屋に戻されると、魔女は気味が悪いほど優しい、甘ったるい笑顔で話しかけた。
「いい子ね――わたしの可愛い子供たち。お前たちはもう男でも女でもないの。騎士になんかなれない、お姫様なんかじゃない。だって騎士は勇敢な『男』で、お姫様は可愛い『女』なんだから」
裸のまま、手術の際に引き離された時間を取り戻すように手を取って身を寄せているヘンゼルとグレーテルに指をさして、だんだんと語気を強めていった。
「わかる? お前たちはなににもなれない。夢なんか見るだけ無駄。お前たちは人間さまの言うことを聞くだけの道具。夢も性別もなにもかも必要ない。お前たちにはなにもない。すべて人間さまの役に立つことだけ考えればいいの」
無造作に部屋の本棚から絵本を数冊選び取り、乱暴に開いて見せつける。
「この絵本に描かれている人間は、お前たちとまったく違う存在なのよ。お前たちはこうはなれない。こんな立派な世界に住めない。お前たちはこうやって暮らしている人間さまたちの世界を支える道具。お前たちはどうやったって、騎士にもお姫様にもなれないの!」
「ち、違う――」ヘンゼルが震える声で抗おうとする。グレーテルの肩を抱き、彼女の騎士として彼女の尊厳を守るために。「グレーテルはぼくのお姫様なんだ……ぼくはグレーテルの騎士なんだ……だって」
最後まで言う前に、魔女はヘンゼルの剥き出しの、切り取られてなにもなくなった手術痕に煙草を押し付けた。想像を絶する痛みに悶絶するヘンゼルをせせら笑いながら、魔女は更に手術痕を蹴り上げる。痛みに次ぐ痛み――だが、やはり気絶することすらできなかった。
しかしヘンゼルは痛みに悶える中で安心していた。自分が魔女に攻撃されている間だけは、グレーテルの安全が保障されているからだ。そう信じているヘンゼルの心は、間違いなくグレーテルの騎士そのものだった。




