FILE9・FILE10 扼殺・絞殺 5
「ふふ、変なの」
その声は不意に聞こえてきた。
ふたりで季節外れの薔薇園を、手を繋いで眺めているときだった。
ヘンゼルもグレーテルも知らなかったことだが、悪意のある声とは、善意の声よりずっと耳に届きやすいものである。
悪口。陰口。嘲笑。
それが耳に届いたとき、グレーテルは心臓でも肺でも胃でもないどこかの臓器がムカムカと苛立つ心地に見舞われた。
「……ね、あのふたりって」
「そうそう。蓮璉様が下弦研究室から奪った……」
「あんな風に、ね、男の子なのにワンピースなんか着て」
「それ今言ったら問題だよ。……でもさ、似合う似合わないの前に、髪とか男の子のままでワンピースってね、滑稽よね」
「女の子の方もさ、自分のことナイトなんて言って、性同一性障害なのか、そういうのに憧れる歳なのかわかんないけど……ねえ?」
「ちょっとイタイよね……くすくす」
黒い鳥の面を着けた女性たち。
彼女らは裏社会で活動する慶の生活を支えるために、鷹姫が尾鷲忍軍から派遣した給仕である。尾鷲忍軍に所属しているがゆえに、裏社会のどんな事情も呑み込み、承知している。
給仕であれば鵺がいるが、彼女も忍者であって給仕の経験は薄いために、その補佐役でもある。鵺は必要ないと言ったが、慶の側近に集中したいなら給仕を完璧に仕上げる必要はないだろうと鷹姫は言った。彼女は幼いながらも本人の適正と要望を両立させる気遣いを得ていた。
尾鷲忍軍の者――つまり彼女たちもしのびであるが、落ちこぼれの部類だった。
鷹姫の個人の力量を見る才能があったがために、彼女たちがしのびとして活動するのは少々リスクが付き纏うことに早々に気付き、このように裏社会の事情を承知していれば就ける仕事しか采配できなかったのである。しかも先の会話のように、一応のところの雇い主の保護した子供であるヘンゼルを聞こえよがしに嘲笑してしまう浅はかさは、致命的に陽忍にも隠忍にも向かない欠点であった。
「う……ぅ……」
だが、そんな彼女らの事情や欠点などヘンゼルもグレーテルも知らない。
事情があったところで許せる陰口でもない。
ヘンゼルの精神が、また危うい場所へ歩を進めようとしていた。
「グレーテル!」
グレーテルはヘンゼルに呼びかける。頬を両側から包み、視界に自分しか映らないようにして、意識を逸らそうとする。
「グレーテル、ボクだよ。ねえ、今日はなにして遊ぶ? なにが食べたい? 慶さんがね、今日のおやつはボクらが欲しいものを食べさせてくれるんだって。あのね、クロカンブッシュって知って――」
「グレーテルを馬鹿にするな!」
グレーテルの言葉を遮って、ヘンゼルが給仕たちに殴りかかろうとした。慌ててグレーテルが振りかぶった腕を抑えつける。
「へ……ヘンゼルっ」
思わず何年かぶりに彼のことをヘンゼルと呼べたが、今はそれを喜べる状況ではない。
「グレーテルは変なんかじゃない! ぼくのお姫様だ! ぼくはグレーテルの勇敢な騎士なんだ!」
「きゃあ」
ヘンゼルもグレーテルも実験動物で、その腕力、筋力の桁外れさは同じように常人より上だ。――だが、どんなに偽っても、どんなに着飾っても、男女の力量さそのものには違いがある。女の子のようにワンピースを着てグレーテルだと自認してもヘンゼルは男で、グレーテルは女だった。
簡単にグレーテルを振り切ったヘンゼルは、給仕のひとりに掴みかかる。
しかし相手も落ちこぼれとは言え尾鷲忍軍に名を連ねる者。戦闘の心得はある。
「なにをなさいます――お嬢様?」
にやにやと笑う口元はおぞましく下卑ている。お嬢様と慇懃に呼ぶが、そこに嘲りが含まれるのは明らかだった。ゆるりとヘンゼルの腕から逃れて、挑発するような声で応じる。
「ふふ、ふ、老婆心ながらに忠告させていただきますけれど――お嬢様、そのような、どう見ても男のあなたがワンピースを着て、坊ちゃまのようなどう見ても女のあなたがナイトを名乗って……それをわたくしたちの一般常識では『イタイ』と申すのですよ」
彼女らには、ヘンゼルとグレーテルがどうしてそんな行動を取っているのかの説明がなされていなかったのか。……否、説明はしていた。慶はその辺りを殊更デリケートな問題であるときちんと認識していた。しかし彼女らは、それがどれだけデリケートで、重要な問題であるかの認識が薄かった。
その認識の齟齬が、自身の命に影響を与えようなど。
微塵も考えなかったのだ。
首が取れる音を、聞いたことがあるだろうか。
首を取る、首が引き千切れる音を。
一般的に首を落とすものはギロチンなどの処刑器具や、刀などの鋭利な刃物だ。
しかしそれが人の手でできるとしたら。
背骨に繋がる頸椎が砕かれ、筋肉繊維が乱雑に分離させられ、皮膚が安い布のように裂かれる音。
首を絞めただけなのに、そうなってしまった。
「グレーテルを馬鹿にするな。グレーテルは素敵な女の子なんだ。ぼくのお姫様、ぼくの、ぼくの大事な女の子。ぼくの大事な、ぼくの、ぼくの……」
血まみれになりながら、もう命のない肉の塊をこれでもかと引き裂きながら、ヘンゼルは泣いていた。
なにが哀しいのだろう。なにが苦しいのだろう。
グレーテルを馬鹿にされたことだろうか? ヘンゼル自身が馬鹿にされるのは平気なようだ。だが矛先がグレーテルに向いた途端、彼は壊れてしまった精神が一瞬だが蘇って、まるで、まるで――殺人の鬼のように、豹変してしまって。
給仕の、ヘンゼルに襲われなかった方が悲鳴をあげるが、広い庭園でその声がどこまで届いたか――聞こえていたのは、彼女らと同じようにしのびとしての教育を受けていた彼女だけ。
「どうしましたか」
気配というものを感じなかった。
瞬間移動、という言葉をグレーテルは思い浮かべた。
その戸惑いなど知らん顔をして、鵺は涼しい顔をして惨状の場に現れた。
「ぬ――鵺!」
給仕が叫ぶ。
グレーテルは「もしかしたら自分たちは処分されてしまうかも」と危惧した。一般常識の教育の中、グレーテルは自分たちがどんな目的で生かされているかも教えられた。それは納得もあって、理不尽も感じて、そして自分たちを救ってくれた彼らも結局、それが目的なのかもしれないと懸念が芽生えていた。
処分されたらもうヘンゼルと一緒にいられないだろう。全部わたしのせいにして、ヘンゼルが死ななければいいけれど――そこまで考えていたが、鵺は案外冷静に把握していた。
「お嬢様が!」
「まったく、浅はかね」
「そうなの! オナガが――」
「貴女たちのことを言っているのよ」
「え――あたしたち?」
「ええ」
グレーテルは鵺の、あんなに冷たい顔を初めて見た。いつも優しい笑顔で、勉強でわからないところがあっても穏やかに教えてくれたり、遊んでいて誤って窓ガラスを割ってしまって叱られたけど最後は「怪我はありませんか」と訊ねたあの寛容な鵺の、冷たい、まるで慶のような視線、表情。
視線の先が自分でないことにこれほど安堵したことはない。
ヘンゼルももう給仕の蹂躙をやめていた。呆然と、がらんどうの瞳で鵺を見つめている。
壊れてしまっても、どこかでまだ壊れていない部分があって、そこが鵺の普段との違いを不思議に思っているのだろう。
「慶様から聞いていなかったの? このおふたりはとても繊細な問題を抱えているのよ。ふたりの大事な花園を、適当な言葉で伐採して剪定した気になって……ああ本当に残念」
「残念……?」
「同郷だからこんな手段は取りたくなかった。でも……貴女たちの言動には前から懸念していたの。一応言っておくけれど、この判断は私の……引いては慶様の判断であることを分かっておいてね」
そう言って。
次の瞬間に、生きている方の給仕の足はなくなっていた。
勿論埒外の動体視力を持つグレーテルには見えていた。鵺がいつも持っているツルハシ。あれで給仕の足を薙いだのだ。ツルハシの形状から考えると、足を骨ごと身体から分離させることができる芸当など本来ならできないはずだが――。
「武器商人ってね、意外となんでもできるのよ」
と、鵺が零した。
もはや残りの給仕も、生きているけれど死んでないだけで、生活に支障を来すレベルの状態になってしまった。
痛みに絶叫する給仕に「腐ってもしのびならばその程度耐えなさい」と吐き捨て、くるりとヘンゼルとグレーテルに向かう。思わず身体が強張るが、鵺はふたりには優しかった。
「大丈夫?」
「……ぬ、鵺、さん」
「はい、なんでしょう」
「……怒らないの?」
茫然自失としているヘンゼルはしばらく戻って来ることはできないだろう。だからグレーテルが応答することになる。
「怒りませんよ」
「どうして?」
「あなたたちが大切だからです」
大切――と、鵺は言う。
グレーテルはヘンゼルが大切だ。それはヘンゼルも同じ。だが、出会って間もないふたりを大切に想う鵺の気持ちが、グレーテルにはわからない。
「なんでわたしたちが大切なの?」
「…………」鵺はほんのちょっと考え込んで、言った。「似ているからです」
「似てる?」
「はい」
「誰と?」
「私の大切な人と」
「誰が?」
「あなたたちが」
優しく頬を撫でられる。温かい。安心する。
まるでオカアサンのようだ。
「……さあ、行きましょう。おやつの時間ですよ」
空虚だったヘンゼルも連れて、鵺は手を取ってその場をあとにした。その後あの給仕の姿を見ることはなかったが、グレーテルにとってはどうでもよかった。
おやつの時間のあと「これは提案なのだけれど」と鵺がふたりの部屋に訪れた。
「あの子たちの言葉がすべて的外れだったわけではないの――これから裏社会で生きるにしても、一般人に擬態して生きるにしても、あなたたちのその姿は不自然すぎる。だからね、偽るなら――最後までやりましょう」
「最後まで?」
「ええ――誰もがあなたたちを見て間違えるくらい。少なくとも、本当はどちらが男で、どちらが女なのか、勘違いしてしまうくらい」
しのびは変装のプロフェッショナルだ。専売特許であるとさえ言ってもいい。
鵺にはその人生中必要に迫られることはなかったが、情報収集するには必須の技術であった。
変装の技術を忌憚なく、遠慮なく、ふたりに教えることに、抵抗なく。
とある日のおやつの時間、ふたりの姿を見て――慶は珍しく冷たい表情を和らげて、眉を意外そうに上げて驚いた表情を象った。「――おやおや」
「誰がリビングに入って来たのかと思いましたよ。あなたは……ヘンゼルさん?」と言って、グレーテルを向く。青年の姿の、すらりとした美貌の貴公子に。「そしてあなたが……グレーテルさん」と言って、ヘンゼルに向く。ふわりと纏う空気の柔らかな、天真爛漫な令嬢に。
「そうだよ」と、グレーテルは頷く。
「そうよ」と、ヘンゼルも頷く。
「そうですか――それはなにより」
慶の片眉が変な風に歪んで、口元がぎこちなく持ち上がった。鵺が「慶様はね、今、笑おうとしたの」とグレーテルに耳打ちする。なんだかおかしくなって、自然と笑顔が零れた。
「それでね、慶さん」
「なんでしょう」
「ボクたち、飼い慣らすことにするよ」
グレーテルの言葉に、慶は少し面食らったような顔をした。今日の彼はなんだか表情豊かだ。
「ボクたち、殺人鬼になるよ」
人を殺したふたりはもう戻れない。最初から定められた道だ。少し横道に逸れて、最初の予定とは随分違う方向に進んでいるみたいだけど。
平和に生きることは無理だろう。
そんなの分かっている。
でも――ふたりで決めた。
いい? と、グレーテルは訊ねた。
いいよ。と、ヘンゼルが答えた。
それだけでいい。
ふたりで生きていけるなら。
死ぬまでふたりでいられるなら。
最初からふたりで――最後までふたりでいられるなら。
わたしにはヘンゼルがいるし、ボクには扼殺がいる。
ぼくにはグレーテルがいるし、ワタシには絞殺がいる。
嘘吐きたちは偽って、聞かれないから答えないだけで、真実は彼らの中にのみ存在する。
世界で最初の人間、アダムとイブ。彼らの世界が蛇によって崩されたのなら、世界にふたりきりしかいなかったヘンゼルとグレーテルが、蛇によって世界に引きずり出されてしまったのは、果たして幸か不幸か。
別世界の人間たちに、どんな効果をもたらしたのか。
――彼らの最期は、本当にふたりきりでいられるのか。
魔女は知ることができないし、蛇も死んでしまった。
神さえ想像できない結末が待っていても――おかしくない。
戦争の行く末は、生者しか見ることができない別世界だ。
殺人記はこれにて完結となります。
彼らの今後の構想もありますが、着手するかはわかりません。
ここまで読んでくださりありがとうございました。またの機会があれば、お会いしましょう。




