あなたは私の敵かしらね?
エレナはひとり、王宮から大聖堂へと移動する。途中ですれ違う神官や王宮勤めの官吏たちは彼女を見るとにこやかに挨拶をしてくれた。その中には数日前にクルセルドの暴走に巻き込まれた者もいたが、彼らは寛大にも笑って済ませていた。
「我々のことよりも、人間の身であんなにも高い魔力があっては逆に大変でしょう。セルーゴにも幾人か精霊魔導士がいるので、師事してみては」
怒るどころか、そんなふうに逆にクルセルドのことを心配してくれるので、エレナは素直に感謝した。
ライトの教えにおいて他者に救いの手を差し出すこと、そしてこれに対して見返りを求めないことは善である。ライトを信奉する聖族にとって誰かを助けることは呼吸をするのに等しい。神官はそう言って笑った。
実際この数日エレナたちは大聖堂に滞在し病院にも出入りしているわけだが、この病院での治療は無償であることに気付いた。運営費用はといえば、日々訪れる観光客や信者、そして王侯貴族や富豪たちの寄付によるそうだ。
そして何よりも。女神と聖女に選ばれた者は、その身と心を世界のためにささげるのだ。平和を維持するために、その身を器として、心が壊れてしまうまで。それに対する見返りなど何もないのに。
エレナは大聖堂の入り口ホールにある巨大かつ美しい聖女像を見上げた。タルス大陸、それも魔王領で生まれ育ったエレナにはあまりなじみがないが、この聖女像は多くの町や村にあり、教会とともに信仰の中心だ。
「聖女アンジェリカ、か……」
優しい微笑みをたたえる女性である。この像しかり、子供向けの絵本しかり、舞台しかり。アンジェリカは優しく美しい女性として描かれる。エレナの頭の中でもそのイメージがすっかり出来上がっているのだが、今はそれが少し憎らしい。
「あなたは私の敵かしらね?」
誰かが聞いていたら取り押さえられても不思議ではなかったが、幸い全員素通りだ。ただひとつだけ「エレナさん」とかけられた声は聞きなじんだものであった。
「ミシェル!」
振り返ると、少しきまり悪そうな苦笑を浮かべるミシェルが立っていた。背に流れる銀色を揺らし、彼女はエレナに近寄ると「お久しぶりです」などと挨拶をした。
「すみません、魔力の回復に時間をとられました。クルセルドさんは目が覚めたと聞きましたが」
「うん、元気そうよ。傷は無茶な動きしなければ大丈夫で、あとは体力が戻ってないくらいだって」
「そうですか、よかった……」
ほう、とミシェルは心底安堵したように胸を撫で下ろした。エレナは彼女の手を取って、病院の方へと向かう。
「まだ会っていないなら顔をみせてあげて。あれでも気にしているはずだから」
「はい」
ふふ、といつものようにミシェルが微笑む。空いた手を口元に添えた拍子に、少し袖が下がった。そこから覗いたものに、エレナは目を見開く。
「包帯……?」
「え、ああ。怪我は治っているのです。ご心配なさらず。ただちょっと……、ヒールで自分を治せるほど魔力が残っていなかったもので……、聖王様がしてくれて」
「え、でもあの人……」
「聞いています。エレナさんやアスカさんをからかっていたのでしょう?レックス様がすぐに呼びに来なかったと激怒しておいででしたよ。それも、すごく、嬉しかったです」
あれが「からかっていた」の範疇なのかは議論の余地があるとしても、エレナには不思議な点がいくつかある。このセルーゴで、彼女の治療をするのには別に聖王でなくてもいいはずなのだ。ここには優秀な神官が多数いるのだから。
エレナの戸惑いに気付いたのか、ミシェルは彼女を見下ろすと薄く微笑んだ。
「この間、クルセルドさんと戦ったあの地区。あそこが、私の出身地です」
「え……?」
「私は捨てられていたのを、聖王様に拾っていただきました。実質的に育ててくださったのはレックス様ですけれど……、私の書類上の父親は聖王様です」
「!」
「血の繋がりはありませんから、血統主義の聖族においてあまり意味はないのですけどね。すごく、すごく久しぶりに顔を見てお話ができました。とても嬉しかったです」
ミシェルはそう言って包帯を見つめた。少し不格好に巻かれたその下にもう傷はないのだが、ただこれが嬉しいのだそうだ。
「行きましょう、クルセルドさんにもご挨拶しなければ」
今度はミシェルの方がエレナを引いて歩き出した。ミシェルは最初、何故自分たちを助けるのだと言われたら「聖王とレックスの命令だ」と言い、礼を言えば「仕事ですので」と淡白に答えた。事実なのだろうが、決してそれだけが理由というわけでもなかったのだろう。エレナは僅かに俯いて、彼女の手を強く握り返した。
クルセルドは、目が覚めてから一階の治療室ではなく二階の病棟に移っている。階段を上り、エレナとミシェルは部屋のドアを開けた。クルセルドは看護担当らしい先ほどと同じ少女と話をしていたが、顔を二人の方へ向けるとどこかほっとしたように笑みを零した。彼を見て、少女も振り返ると会釈をする。
「アスカは?」
「まだ話しているわ」
エレナの返答でクルセルドは頷き、そしてその隣にいる長身の神官へと、ぎこちなく視線を向けた。
「あの、ミシェル、俺――」
「お元気そうで何よりです」
ミシェルはクルセルドの言葉を遮って発言した。眉を下げた彼女は、こちらもやや硬い笑みを浮かべている。
「あなたに悪意がなかったのは、分かっていますから。それに、申し上げたでしょう。私は、あそこであなたを救えなければ、存在意義がないのです」
「っ、そういう言い方……!」
クルセルドは苛立ちを隠さず、傍にいるエレナも険しい表情を作った。しかしミシェルは静かに首を横に振った。そして、クルセルドの傍に控えた青い法衣の神官に対し少し腰をかがめる。
「あなたも、ありがとうございました。治療にあたってくださった他の神官様方にもお伝え願えますか」
「そういえば、エレナさんもクルセルドさんも、何か入用なものはありませんか?私でできることならご用意させていただきますが」
少女は、ミシェルに応えなかった。それどころか視線を合わせる様子もない。けれどミシェルはにこにこといつも通りに笑うばかりだ。
「ああ、あなたは身の回りのお世話で十分ですよ。他のことは私がいたしますから」
「あとで少し外に出てみましょうか。ずっと部屋の中と言うのも気が沈むでしょう」
何かの芸かと思うくらいには、噛み合っていない。二人を見比べても、エレナにはいったい何が起こっているのかすぐには理解できなかったし、それはクルセルドも同じだ。
しかしエレナはややあって、ぽん、と少女の肩に手を置いた。
「ねえ、あなた本当にミシェルを知らないの?」
「ううん……、先程も申し上げましたが、存じ上げません。ここにそのような神官はいないはずです。何かの間違いではございませんか?」
「……何を、言って……!」
「エレナさん」
柔らかくエレナを呼んだミシェルは、力の込められた彼女の手を少女の肩から離させた。少し戸惑いと恐怖をにじませた少女は首を傾げているではないか。まるで、エレナが何故怒っているのか分からないという風に。
「いいのです。ここに、ミシェルという神官は存在しません。してはいけないのです」
ミシェルはエレナを見て、クルセルドを見て、へにゃりと笑った。
「ここには、罵倒も暴力もありませんわ。むしろ認識すること自体してくれませんので。彼女だけの話でもなく、彼女が悪いわけでもありません」
さあ、とエレナは青ざめる。アスカやエレナが尋ねても、神官たちは誰もミシェルのことを知らなかったが、それはある意味本心からの回答だったのだ。聖王が自ら治療に当たらなければならなかったのは、他の誰も彼女の治療などしないからだ。聖都の神官たちは、否、ミシェルの言からして、おそらく街全体がミシェルの存在を無視している。
「……私、初めてエレナさんに声をかけられたとき、嬉しかったです。というか、その前に盗賊の皆さんが反応してくれただけで正直驚きでしたわ」
「ミシェル、あなた……」
「クルセルドさんが大真面目に突っかかってきて、嫌いなのだとしても、私に感情を向けてくれて。すごく、すごく嬉しくて。それで、調子に乗ってしまって」
ミシェルの瞳が大きく揺れたが、滴が零れることはなかった。彼女は大きく深呼吸をした後、にこりと笑って、「だから」と続ける。
「私、エレナさんが悲しむのは嫌です。クルセルドさんがいないのは嫌です。私のこと、嫌いでもいいので一緒にいてほしいです。それができないのなら、死んだ方がましだと思ったのです」
エレナは涙ぐみ、クルセルドは口を半開きにさせたまま固まった。三人の間で、青服の神官だけが不思議そうに首を傾げているのが異質であった。
「……あまり私が長居をすると混乱してしまいますね。そろそろお暇いたします。お大事に」
「っ、待てよ!」
一礼して踵を返したミシェルを、ハッとしたクルセルドが慌てた調子で呼び止めた。ミシェルは振り返ったが、クルセルドはもごもごと口を動かすだけで言葉を発さない。しかし、選んで、選び抜いて、ゆっくりと告げた。
「……止めてくれて、ありがとう」
「いいえ、とんでもない」
ミシェルは笑う。少し照れたように、十六歳の少女らしく。
「お友達ですので」
そして彼女は静かに部屋を出て行った。ベッドの上のクルセルドは閉じられたドアをじっと見つめていて、その明るい赤毛をエレナの手が乱すように撫でた。




