帳面にでもつけておけ
ちゃぷん、と。セルーゴ大聖堂の裏庭、人気のない池で、レックスは錫杖を引き上げた。水面が揺れて、それまで映していた過去の映像も乱れて、やがて消えた。
レックスの隣に立っている男は、池の水が浮かんだ蓮の花を鏡のように映すのみになっても、表情を凍らせて視線を逸らすことができない。
「おい、これは……」
「うーん、あの剣士君の違和感はこれですかあ。まずいですねえ」
ぽりぽりと頭をかくレックス。彼は僅かに震えている男を一瞥し、法衣を翻して背中を向けた。
「レックス?」
「ゼルディスが簡単に倒されても困りますが、勇者が殺されては元も子もありません」
「っ、貴様……!」
ざわりと怒りが立ち上ったが、レックス相手に無意味と、男はすぐに諦めてため息をついた。
「お前のことは、私もあの方も予測ができないし、止められない。だが、邪魔をすることだけは許さん」
「ご心配なく。少なくとも私とゼルディスは利害が一致しているはずですよ」
そう言って、レックスは歩き出した。
「私、か……。どちらのことやら」
栗色の髪の下、菫色の瞳は複雑そうである。何十年、何百年たとうとも、彼にはレックスの目的も思考も、何一つ読めないし、読めたとしてもきっと理解できないのだろう。
「それにしても……」
池の水を使ってレックスが魔法で見せた過去の映像。久しぶりに見た魔王ゼルディスはずいぶんと様変わりしていた。
彼の知るゼルディスは感情の起伏をあんなにも表す人ではなかったし、愚かな手段を選択する人でもなかった。強く美しく、賢く、そして、冷徹であった。
王が狂うとはそういうことなのだろうか。それとも、彼が誰かを――ひとりの女を愛したせいだろうか。もしも後者であれば、今ここにいる彼もすでに狂い始めているに違いない。
池に激しく波が立ち、美しい水鏡を破壊した。男が水面を蹴り飛ばしたのである。
「陛下!このようなところにおられましたか。アルカディア王国の使者がお見えになっておりますよ」
「……放っておけ。いつも通り適当な情報をくれてやるといい」
呼びに来たのは大聖堂に勤める神官のひとりであった。機嫌の悪そうな聖王に首を傾げれば、王は振り返り彼の肩を軽く叩いた。
「そんなことより、何が起こってもいいようにしておけ。レックスが面倒を持ち込むぞ」
「は?はあ……」
またふらりとどこかへ行く聖王を見送ることしかできなかった神官だが、彼を含めて大聖堂にいた者の大半が、翌日にはその意味を把握することになった。
第四章 神と精霊
ゆっくり、アスカは目を覚ました。身体を起こして見回した部屋は質素だが広く、ベッドが彼の横たわるこのひとつしかないのがもったいない程である。そして、この部屋の中にはアスカ以外の人物の姿はない。
正直なところ、彼はここがどこなのかもわからなかった。逃げる、とそう言ったレックスが呪文を唱えて、気が付いたらここにいた。
ベッドわきの棚に、ボロボロの自分の衣服を見つけた。清潔なベッドシーツや部屋の中でやけに浮いているように思える。
そろりと触れてみたのは左肩。大きなガーゼが張ら貼られててれていて、彼はややためらいがちにそれを外した。その下の皮膚にはうっすらと痕が見えるものの、傷口はふさがりかけているようだ。
「……」
斬ったのは、誰か。思い出してアスカの手に力が入る。その拍子に、ぴりっとした痛みが走り、僅かに皮膚が裂けた。じんわりと赤がにじみ出て、アスカは一度外したガーゼで押さえた。
とにもかくにも、現状を把握しなければならない。アスカはベッドから降りてそろりと窓に近づいた。部屋は一階で、外は緑豊かな庭園であった。太陽は天高く、昼間。丸一日以上が経過しているようだ。
部屋には大きめのクローゼットがひとつ。開けると、オフホワイトの綿のシャツと、下級神官の青い法衣がかけられていた。アスカたちを助けたのは大神官のレックスであるし、ここは教会だろう。
アスカはシャツを取り出して着る。ここまでは何のためらいもなかったのだが、法衣に伸ばした手はぴたりと止まった。傷口は治療済み、場所は教会。最低限、ここは敵陣ではない。変装は妥当な選択肢ではなさそうだ。
クローゼットを閉じて、それ以外の戸棚やら何やらを探ってみる。アスカにとって、武器を手にしていないというのは不安でしかない。小さな折り畳み式の果物ナイフを見つけて、ないよりはましだとズボンのポケットに突っ込んだ。
ゆっくり、音もなくドアを開ける。一直線の廊下は長く、部屋がいくつか並んでいた。アスカの部屋から見て左手は行き止まりだ。
アスカは部屋を出て、隣の部屋のドアノブに手をかけた。こちらも鍵はかかっておらず、簡単に開いた。当然、音など立てない。僅かな隙間から覗いてみると、さらりと動く布が見えた。誰かの長いスカートである。もう少しだけドアを押したアスカは、ひゅっ、と息を吸って、止めた。
アスカと同じようなシンプルな布の服。下は淡い桃色のスカート。背中に揺れた金色の髪を持ち上げる指は白くて細い。片手でまとめた髪、もう片方の手は唇にくわえていた細い紐をとった。
器用に金糸を束ねていく少女は、宝石のような目を縁取る長い睫毛を僅かに伏せていた。しかし、きゅ、と紐を結び終えると、しっかりと鏡に映った彼女自身を見つめた。
その鏡越し、力強い瞳に魅入られたかのように固まっていたアスカは、盗賊としては大失態を犯した。
「あれ、アスカ?」
「……」
ばつが悪そうに部屋に入ってきたアスカを振り返り、エレナはほっと安堵したように表情を緩めた。
「よかった、目が覚めたのね」
「……ここは?」
ごまかすように、彼は尋ねる。エレナは頷いて説明した。
「聖都の大聖堂、らしいわ。君やクールのことはここの神官が治してくれるって」
「そうか」
「クールは傷が深いから、一気に回復できなくて……、一命はとりとめたけど……」
予断を許さない状態らしく、熟練の回復魔法の使い手がつきっきりであり、面会謝絶とのこと。ミシェルはそちらにいるのか、まったく姿を見せないそうだ。
「……って、何日たっているんだ?」
「二日。急に知らない場所に連れてこられるし、君は倒れるし……、なんか、もう……」
じわあ、とにじんだ涙がその瞳を揺らしたが、アスカが手を伸ばすよりも早く、エレナはそれを己の手の甲で拭った。
「エレナ」
「ご、ごめん。大丈夫。危ないのも悲しいのも分かっていて、自分でついていったんだもの。そんなことより、これからどうする?お父さんはもちろんだけど、ザッシュまでいるんじゃ……」
「エレナ」
まくし立てるように喋っていたエレナの手をとったアスカは、彼女を引き寄せた。後頭部に手を置いて、黙れとばかりに自分の肩に押し付ける。
「ア、スカ……」
「……ごめん」
「!」
「ごめん」
小さく、本当に小さく彼は言った。一度大きく目を見開いたエレナだが、徐々に張り詰めたものはやがて弾けて、アスカの服を濡らした。部屋が広くて静かなせいだろう、少女の嗚咽はやけに大きく聞こえる。
アスカはエレナの頭を撫でながら、そっと窓の外を見た。澄み渡る青い空。ボローディアで見たそれと同じなのかが疑わしいほどに、眩しかった。
※
気のすむまで泣いたエレナは、やがてアスカの肩に少し血がにじんでいることに気付いて大層慌てた。緊張のおかげでもあろうが、この比ではないクルセルドの血液を見た時には気丈にしていた彼女がわたわたと手を振るのがおかしくて、アスカは「あー、痛い痛い」などと真顔かつ棒読みで言ってやった。
エレナは「もおお!」と頬を膨らませて薬をとりだすと、問答無用でアスカを脱がせた。
「あんた、すぐ赤くなるくせに妙に積極的だよな」
「怪我人は黙ってもらっていいかしら?」
ビシッ、と包帯を伸ばして、エレナはにっこりと笑った。その包帯を、薬を塗りなおして新しいガーゼを置いた肩に巻いていく。
「……動きにくい」
「動かさないようにやってるのよ」
エレナはぐいっと包帯を巻く力を強めた。そこへ、コンコンコン、と扉を叩く音がした。アスカから離れたエレナがドアを開ければ、「失礼しまぁす」と何となく鼻につく声がした。
入ってきたのはアスカと同じ黒髪黒目の青年であった。大神官レックスである。白い法衣の裾が緩やかに揺れて、手にした錫杖が涼やかな音を立てた。彼はアスカを見つけると、やんわりと目を細める。
「よかった、ここにいましたね。部屋がすっからかんだから、ひとりで逃げ出したのかと思いましたよ」
「……その言い方、あんたたちは俺を助けたんじゃなく捕まえたつもりだったのか?」
「はは、強がりが張れるなら結構です」
二人の間で戸惑うのはエレナだ。ひとりは窮地を助けてくれた神官なのだが、アスカは攻撃の意志こそないとはいえ僅かな敵意を隠していない。この神官が自分ないしはアスカに危害を加えるとも思えなかったが、彼女はそっとアスカの隣に立った。
「おや、私ちょっと傷つきましたよ?」
「自業自得って言葉を知っているか?」
胡散臭い、とはこの男のためにあるような言葉だろう。決して敵ではないはずなのに、心底信用することはできない。
助けた礼すら言わずに睨みつけているアスカを見返して、レックスは苦笑した。
「……何か言いたそうですね」
「あんた……、ザッシュのこと、気づいていたんじゃないのか」
あの夜、レックスは妙なことを口走っていた。その事情は知らないが、エレナは驚いてアスカとレックスを見比べる。
二つの視線を受けたレックスは「まさか」と肩をすくめて見せた。
「私が気付くなら、その前にミシェルが気付いていますよ。というか、本来打ち消し合う性質の黒魔法と白魔法を同時にかけるなんて発想するのゼルディスくらいでしょうし、想定外もいいとこです。しかも剣士君は無自覚かつ本来の自我がありましたし」
レックスは言う。彼が覚えたのは小さな違和感。これから魔都に乗り込もうかという一行に指摘する価値もなかった。少なくとも、その時は。
「念のため聖都で確認していたら、ギリギリあのタイミングですよー」
ひらりひらり、レックスは軽い調子で手を振った。しかしすぐにその手を下ろすと、今度は静かに微笑んだ。一瞬前とはまるで別人のような、深い悲しみと慈愛に彩られた顔立ちはアスカやエレナを少々驚かせた。
「彼の身体を動かすための力は黒魔法でした。けれど蘇生の白魔法は、その魂までも戻していた。君たちといる間、彼が発した言葉は、取った行動は、間違いなく彼自身のものです」
きっと、それを確かめる術はない。すべてがゼルディスの思惑通りであり、ザッシュの言動は彼の意志が反映されていた可能性もある。しかし、アスカもエレナも、それを口には出さなかった。これは彼らのただの願いだが、そうあってほしかったから。
「あの……、今更、ですけど。助けてくださって、ありがとうございました」
レックスに向かってそう言ったのはエレナである。レックスはまたころっと表情を変えて軽薄そうに「いえいえ~」などと答える。そしてアスカに向かってにたにたと嫌な笑みを浮かべて見せた。
「ほーら、お姫様はお礼を言ってくださいましたよ?勇者様?」
「全部終わったらまとめてかりを返してやるから、帳面にでもつけておけ」
「そういうこと言う人って、大体とんずらこくんですよねえ」
ふうむ、とレックスは口元に手を当てたが、それ以上は何も言わなかった。「それより」と話を元に戻す。
「彼の蘇生がアンジェリカ・シルバーによって成功していたことは由々しき事態です。魔王の狙いはもう決まりました。おそらく、聖都に総攻撃を仕掛けてくるでしょう。この地下には歴代聖王の遺物が収められていますからね」
「お母さんを生き返らせる、ため……?」
「ミシェルの報告通りなら」
アスカの隣で細い身体が震えた。分かっていても、受け入れがたい現実というものもある。アスカが「おい」とレックスを睨んだ時だ。大きな爆発音と窓ガラスが割れる音、そして悲鳴が響いた。
「何だ?」
「いやあ、襲撃には早すぎませんかね」
緊張を走らせるアスカと、真逆の緩い反応をするレックス。彼らの足元がぐらりと揺れて、机の上に置かれた花瓶が落ちた。
「地震?」
アスカはそう口にして、はっとした。同じく気づいたらしいエレナと顔を見合わせる。
「クールは!」
「クルセルドはどこだ!」
先ほどまでしょげ込んでいた二人がそろって鬼気迫る様子で問い詰めてくるので、レックスはわざとらしく身を引いた。
「ええ……、彼なら治療中ですけど」
「起きたら暴れるに決まっているわ!」
「建物のひとつやふたつ、平気で吹き飛ばすぞ!」
この状況でそれは非常にまずい。最悪だ。アスカがレックスの胸倉を掴んで揺さぶると、「ぐえ」とカエルのような声を出した。
「この反対の……、西棟一階が治療室です」
それを聞き、アスカがレックスを解放するより早くエレナが駆け出した。アスカもレックスを放り投げるようにした後で続いて部屋を飛び出す。レックスはぽかんとして二人を見送った後、壁にもたれて、くつくつと笑った。
「ああ、ゼルディス。君の蒔いた可能性の種は、面白い感じで育っていますよ」
誰が聞くわけでもない言葉を、彼は泣いているようにも笑っているようにも見える不思議な表情で呟いたのであった。




