お前の目に、このイリウスの空は美しく映っているか?
魔都ボローディアの王宮。広々とした薄暗い王の間に倒れ伏す魔導士の少年。何の警戒もしていなかった背後から斬りつけられ、床には彼の血が広がり続けていた。
「ザッシュ!」
誰が何をしたのかを理解した瞬間、アスカは身体を捻り振り向きざまに短剣で第二撃を受け止めていた。
見上げた男の顔に表情はない。普段ならへらへらと笑っていて、敵と戦う時には頼もしいし、稽古の時には腹立たしいというのに。
「なんで、こんな……!嘘よ!」
エレナは言うし、アスカもそうであってほしいが、残念極まりないことに現実である。今、ザッシュの剣はアスカたちに向けられ、最悪なことにすでにクルセルドを斬り倒している。
「きゃああ!」
悲劇の始まりから十数秒。最後に事態を把握したミシェルの悲鳴が上がった。彼女はクルセルドに駆け寄ると、血だまりに膝をついた。
エレナは弓に矢をつがえ、彼女とクルセルドの前に立つと鏃を魔王へと向けた。アスカも渾身の力でザッシュの剣を押し、その身体を蹴り飛ばすと、エレナとは反対、ザッシュに対峙する格好で剣を構えた。
「急げ、ミシェル!」
「……」
「ミシェル?」
二人がほんの僅か振り返って確認したミシェルは、ただ涙を流しているだけだった。戦慄く唇は回復魔法の呪文詠唱を始めない。クルセルドのバッサリと割れた背中を撫で、その掌にぬちゃりとした感覚と赤を染み込ませた。
「おい!」
アスカが怒鳴っても、ミシェルの耳に届いていない。
「アスカ!」
「ッ!」
そして彼は襲い掛かる大きな刃を受け止めて流すので精一杯だ。
ファストで反応速度をあげているので何とかしのげているが、だだっ広い空間において彼はザッシュに対し不利だ。クルセルドが氷や土で狭く複雑な足場を作ってくれれば。炎や風の牽制があれば。今まで考えてもみなかったことを思いついたところで遅い。
金属音が連続して響く。アスカはすぐ後ろにミシェルたちがいて、下手にザッシュの剣をかわせない。しかし、まともに受ければ、止めるまではできても斬り返す余裕は殆どなかった。
「ミシェル!お願いしっかりして!早くしないと間に合わないわ!」
エレナは魔王に注意を向けたままそう叱咤するが、ミシェルは声も上げずにぼろぼろと泣いて丸くなってしまった。
「エレナ、何とかしろ!」
「何とかって何よ!」
アスカとしてはこの状況でエレナが正気を保っているだけでも感謝すべきだが、思わず無茶ぶりをしたくなる程度にはまだ混乱している。横からの一閃を受け止めたものの、大きく力任せに振りぬかれて身体ごと吹っ飛んだ。
「っ、アスカ!」
エレナは動く気配のない魔王から、振り返ってザッシュへと弓を引き絞った。
「いい加減にしなさい、ミシェル!」
「!」
「今、クールを助けられるのはあなたしかいないの!分かるでしょう!」
ゆっくり、ミシェルは顔だけを上げて隣に立つエレナを見た。きっと、この場で最も混乱し、泣き叫んでいてもいい彼女が弓を構えるその姿勢はとても美しかった。その様を見たミシェルの瞳に徐々に光がともり、唇が呪文を紡ぎだす。
「我……、は神の子、神の使徒……、祈り願いて彼の者を癒すべし――ヒールッ!」
赤く染まった法衣。銀色の髪も汚れていた。しかしその手元は優しく光り、エレナはほっと安堵した。
しかし、これで終わってくれる話ではない。彼女はゆらりと一歩近づいてきたザッシュを見据えた。
「ザッシュもよ!いくら頭悪くても、そう簡単に操られるような馬鹿ではないでしょう!」
言いながら、彼女の視界にはザッシュと、右手の指輪と、そしてアスカ。アスカがこの指輪を使えば、ザッシュを元に戻せるかもしれない。
アスカもその可能性を分かっている。したたか背中を打ち付けて呼吸するのもつらいが、しびれた腕で身体を支えて起き上がった。気づいていないのか、それとも気にしていないのか。ザッシュはエレナに対して剣を構えて一歩を踏み込んだ。
「……!」
エレナは眉を寄せ、矢を放つ。絶対に外す距離ではない。逆に、意図的に急所を外すことも可能だ。矢はザッシュの右肩をかすめ、ほんの一瞬動きを止めた。
刹那の間であったが、アスカには十分で、エレナとザッシュの間に滑り込んで一撃を食い止める。
「寝ぼけてんのか、あんたは……!」
跳躍、身体を捻って剣を握る手首を蹴り飛ばした。よろめいた相手の、先ほど蹴ったのと同じ場所を今度は左手の柄で打ち据え、右手の剣はがら空きになった腹部を薙いだ。
「アスカ!」
「心配しなくても、思いっきり避けられている。手ごたえゼロだ」
「それはそれでどうなの!」
「というか、少々怪我したところでミシェルが――」
言いさして、アスカは言葉を飲んだ。アスカが切り裂いたのはザッシュの服。その切れ間から覗いたたくましい腹筋に、まがまがしい紋章が浮かんでいるではないか。
「おい……、待て……」
「あ、れは……、屍鬼魔法の陣……?」
ミシェルが引きつった喉で絞り出すように言った。かつて悪魔族の一部が用い、今にゾンビという魔物として残る上級黒魔法のひとつだ。死体を操作し、使役することができる。
「嘘……」
ぽろり。エレナの口から零れた言葉は、アスカもミシェルも、そして意識があればクルセルドも、心の中でつぶやいたものであった。
もしそれが真実黒魔法の魔法陣ならば、ザッシュという剣士はすでに死んでいるということである。だが、今の今まで普通に話をして、飲み食いをして、笑って、怒っていたではないか。
「言っただろう。夢の終わりだと」
コツン。硬く冷ややかな足音はそれまで動かなかったゼルディスのものである。
魔王ゼルディスにとっての誤算はいくつかあった。ひとつは、初めの予兆があってから己が狂っていくのが非常にゆっくりとしたものであったこと。ひとつは、決定打が妻の死であり、本来闇を押さえつけるために使うはずだったアンジェリカ・シルバーの光の魔力をその蘇生に使おうとしたこと。
そして、最大の誤算。それはいざという時娘を守るために育てた剣士が、エリシアのために乗り込んできてしまったことだ。
我に返ったゼルディスは、息絶えているザッシュと、重傷を負っているエレナを見て焦った。彼の計画では、異変と危機を察知したザッシュはエレナを連れて早々に逃げてくれているはずだったのだ。そして、頭の固い魔族のお歴々より、ウィリアムを頼り勇者を探してくるだろうと。彼を介せばアルカディア王国ないしは聖都セルーゴの協力を得ることはたやすい。そのはずだった。
ここでゼルディスがボローディアに大混乱を招いてでもヴァイスなりドレイクなりを使っていれば違っただろう。だが彼は、五百年の間に身につけた知恵も経験もどこかへ忘れた。エリシアに対して使用する予定であったアンジェリカ・シルバーと白魔法の魔法陣を、ザッシュに対して使ったのである。
しかし、ゼルディスの魔力は闇の色が濃く、その上触媒は所詮小さな指輪。ザッシュの意識は戻り傷もふさがったが、それ以上動かなかった。不完全な蘇生を補うため、彼はザッシュに黒魔法の陣を刻んだ。
「ザッシュはお前を守って死んで、お前のために父さんが生き返らせたんだよ、エレナ」
勇者が自分を倒す、それまででよかった。けれどここでさらなる誤算。闇の浸食が、これまでからは想像できないほどに加速した。まるで、抵抗するゼルディスを嘲笑うかのように。
「何ということを……!」
「おっとお嬢さん、気は抜かない方がいいぞ。この空間、俺の魔力のせいで君の魔法は普段より効きづらいはずだ」
「!」
ゼルディスを睨んでいたミシェルは慌ててクルセルドの回復に再度集中する。彼の言う通り、傷のふさがり方が遅かった。クルセルドの呼吸は浅く、意識も戻る気配がない。
「お願いです……、間に合って……!」
「っふ、ははは!」
ミシェルの痛切なる祈りは、魔王の笑い声でかき消された。
「はは、なんだこれは。誰が得するこんな状況!全部パーだ!」
くっくっく、とゼルディスは腹を抱えて笑う。理性と、破壊衝動と、愛おしさと憎しみと。すべてをないまぜにして、彼はゆったりと顔を上げた。
「さあ……、堕ちようか」
※
どんどん息が浅くなるクルセルド。彼を必死に救おうとするミシェル。彼らしくもない無表情で剣を構えるザッシュ。対峙し、呆然とするエレナ。そして、アスカは。
「……っの……!」
反転、地を蹴ってゼルディスとの間を一気に詰めて短剣を振った。布切れが舞って、ゼルディスの胸部には一筋赤が浮いたけれど、彼は薄く笑っている。
「どうした?狙うのはここだろう」
とんとん、と己の首筋を指先で叩いて見せるゼルディスを、アスカは怒りと憎しみを強くにじませた漆黒の瞳で睨みつけた。
「何がしたいんだあんた……!」
「それが分かったらな、狂王などとは呼ばれないんだよ、勇者」
ゼルディスは笑う。アスカは知らないことだが、あまり表情の多くなかった彼からは想像もつかないほど楽しそうである。
「エリシアのいない世界など無価値。守る義理もない。いっそ壊れて、混乱でも絶望でも、どうにでもなればいい!」
「迷惑なじいさんだな」
「何、お前も同じ穴の狢だ。ああ、そうだ」
今度はゼルディスが間合いを詰めると、アスカの右手を左手で押さえて、ずいっと顔を近づけた。目の前に来た端正な顔。しかし、それはとても濃い闇のせいで、アスカには歪んで見えた。
「お前の目に、このイリウスの空は美しく映っているか?」
ひゅ、とアスカは短く息を吸って、止めた。瞬間、腹部にゼルディスの膝が入る。
「かはッ……!」
「アスカ!」
エレナの悲鳴にハッとする。顔を上げると、そこにはゼルディスではなく大剣を上段に構えたザッシュがいる。振り下ろされた一閃。交差させた短剣で受け止めたが、あまりの重さと腹部の痛みで膝を折った。
「重っ……」
金属の刃同士が嫌な音を立てている。やがて静かな悲鳴を上げて砕けたのはアスカの短剣であった。
「ッ!」
剣が砕ける瞬間、アスカは身を引き飛び退いて、ザッシュの腕にはエレナの放った矢が突き刺さった。しかし、アスカの左肩を避けきれなかった刃が浅く斬りつけている。
「アスカ下がって!」
駆け寄ったエレナが次の矢をつがえて前に出たので、血のにじむ肩を押さえるアスカはぎょっとした。
「馬鹿!あんたが下がれ!」
アスカはエレナの腕を掴んで己の後ろに追いやったが、もうこれ以上ザッシュの剣を防ぐ手がない。
「さて、勇者が王に殺されたら、世界は果たしてどうなるのかな?」
ゼルディスの言葉を受けて、ザッシュは剣を振るう。アスカはエレナの細い身体を力いっぱい突き飛ばした。
「アスカッ!」
「アスカさん!」
エレナたちの悲鳴。ギリリと奥歯を噛んだアスカ。その視界が、一瞬まばゆい光に包まれた。
シャラン。暗黒と絶望の立ち込めた空間に、それを打ち払うかのような涼やかな音色。そして間髪入れずに高い金属音。大剣は、大して太くもない錫杖に受け止められていた。
「レックス様!」
純白の法衣が大きく翻る。揺れる黒髪の下の表情は非常に硬いものであった。驚愕の色に染まるのはアスカたちだけでなく、むしろそれ以上にゼルディスの非常に整った顔だ。
「レックス、貴様!」
「……過ぎし理、来たれる理、万物流れ流れて時の理となす。彼の者の流れを断ち、理を今ここにとどめん――ストップ」
カチリ、と奇妙な音がしたかと思うと、レックスは錫杖を引いた。しかしザッシュの剣は下ろされず、ゼルディスも怒りの表情のまま動かない。
「あんた、何で、何を……」
何が起こっているのか、さっぱり理解ができない。アスカは仲間を見回したが、彼女たちも首を横に振るばかりだ。
「この魔法、あんまり使いたくなかったんですけど、ま、しょうがないですね」
くるりと振り向いた大神官レックス。この状況が理解できている唯一の人物でありながら、アスカたちの心境はまるで理解していないかのような能天気な表情である。
「さあて、逃げますよ」
幼い少女がピクニックに行くのだとはしゃいでいるのとほぼ同じテンションで、男はそう言った。




