第19話 ◆どこまで行っても。
ウルリックは奪った短剣を腰に下げ、
すでに意識のない男を階段の奥に押し込んだ。
――申し訳ない。
金の為に仕事をしているのは自分も同じだ。
だから、ほんの少しだけ同情した。
だが……これはさすがに見過ごせない。
禁制品の薬物。
依存性のあるあのような商品が国内に流出すれば、安心して暮らせない。
安心、安全、安定。
――ソニアと子供の、平和な暮らしに必要なもの。
「――この巣も、そろそろ潮時かな。」
水路側から声が聞こえ、
ウルリックは反射的に身を隠した。
「狐に見つかった。」
――鼬鼠だ。
気配を消し、物陰から様子を窺う。
深い頭巾に隠された鼬鼠の顔は、
やはり見えなかった。
《貂》ディアオと名乗る商会の元締めは、傍に幼い少年を連れていた。
「シャオトゥ、帳簿と印は持ったね。」
「はい。」
《小兎》シャオトゥ、と呼ばれた少年は頷いた。
ディアオの隣に立つその顔は、どこか誇らしげだった。
少年が、
後ろに控える商会の男達に指示を与える。
「では、後はいつものように。
残りの金は皆で分配して下さい。
痕跡は残さないように。」
「は。」
――あの少年が、ディアオの側近なのか。
年端も行かない子供が、大の大人よりも上に立っているのは不思議な光景だった。
「では、行こうかシャオトゥ。」
「はい、ディアオ様。」
鼬鼠が、兎を連れてこちらに歩いてくる。
この先にあるのは、地上へ繋がる階段。
――まずい。
このままでは見つかる。
だが、やり過ごせば逃げられる。
――迷っている暇はなかった。
選択肢は、一つしかない。
「……ここは通さない。」
ウルリックは物陰から姿を現した。
行手を阻まれた鼬鼠は、一瞬立ち止まった。
「――君は確か……」
「ディアオ様。」
言葉を遮るように、
少年がディアオを庇って前に出た。
小さな身体でウルリックを睨みつけ、身構える。
「それ以上近づくな。」
シャオトゥの声に、
後ろの男達が、武器に手を掛けた。
“もしも、鼬鼠が現れたなら――”
エドリックの言葉が脳裏をよぎる。
“押さえろ”
「――逃がさない。」
ウルリックは、短剣の柄を握った。
刻限まで、あと数分。
◆
――ウルリックが戻らない。
競売の壇上を眺めながら、エドリックは手元の懐中時計へ視線を落とした。
あと、数分。
水路の確認をするには、
時間がかかりすぎている。
何か、あったのだろうか。
一旦、待機部屋に戻ろうとエドリックが立ち上がった途端、商会側から制止の声がかかった。
「何かございましたか。」
「いや、ちょっと外の空気が吸いたくなってね。」
エドリックは男の肩越しに見える待機部屋へ視線を向けた。
部屋の奥は、荷を運び込む為に広く作られており、競売会場からでも水路へ続く扉がよく見えた。
「競売終了までは席を離れることはご遠慮ください。」
「…………。」
そう告げる男の背後で、人の動く気配がした。
太い閂を抱えた男達が、
慌ただしく水路への扉を閉じる。
――ウルリックは、戻っていなかった。
閉じるには、まだ早い。
……水路側で、何かあったに違いない。
「悪いね、急用で。」
「お待ちください!」
エドリックは制止を振り切り、
そのまま会場入口へ足早に向かった。
建物の構造を見る限り、一階から水路側に降りられる階段があるはずだ。
そこから、水路へ回るしかない。
「お戻り下さい!」
「無理だね。」
エドリックは止まらない。
「待て、通すな!」
入口近くに立つ男に後ろから袖を掴まれ、
力づくで引き戻される。
僅かに、エドリックの眉が上がった。
「……悪いね。」
深く息を吐く。
男が訝しげに目を細めた、その瞬間。
狐は、男の顔面に拳を叩き込んだ。
鈍い音が響き、男はよろめいて壁へ背中を打ち付ける。
「――触らないでもらえるかな。」
そう告げると、
エドリックは拳を軽く払い、
地上への階段を駆け上がった。
◆
耳元を掠める短剣を、紙一重で避けた。
ウルリックの目は、
男達の動きを完全に捉えていた。
剣撃を避ける勢いのままに重心を落とし、一人目の足元を横に薙いだ。
刃が男の靴の革を裂き、遅れて赤い血が飛んだ。
「ぐッ……!」
男が苦鳴を漏らし、片膝をついた。
間髪入れず、左拳を横から顔面に叩き込む。
―― 一人目。
一歩踏み出し、
続いて左から来る二人目の剣撃を、
身を捻りながら刃で受け流す。
その反転する勢いのまま、
右の踵を相手の脇腹へ蹴り込んだ。
肋骨の軋む、嫌な音がした。
―― 二人目。
たじろいだ次の男に向かって、下から伸び上がるように剣撃を見舞う。
刃が浅く頬を掠め、
赤いものが散った。
反応されるよりも早く、
左肘を顎先に打ち込む。
男の意識が途切れ、その場に崩れ落ちた。
―― 三人目だ。
ウルリックの動きを眺めながら、
ディアオは小さく口笛を鳴らした。
「――いいね。」
「ディアオ様!」
シャオトゥに呼ばれ、
ディアオは水路に係留された小舟へ乗り込んだ。
――駄目だ。
「待て!」
左右から同時に迫る二人の男を躱しながら、
ウルリックはディアオに向かって叫ぶ。
「ウルリック!!」
その時。
背後から名前を呼ばれた。
聞き慣れた声。
「左をやれ。」
「――承知。」
ウルリックは、左へ踏み込んだ。
右側の男が水路へ飛ばされ、激しい水飛沫が起こった。
「やあ、派手にやってるね。」
エドリックが、
微笑みながらそこに立っていた。
「……今、ウルリックって呼びませんでした?」
「気のせいだよ。」
エドリックは、
こちらに顔も向けずに返した。
今日一日、俺はヴォルフじゃなかったのか。
「君が閉じ込められたみたいだったからさ、四人ほどぶん殴ってきちゃったよ。」
エドリックはわざとらしく手首を振りながら、手にした短剣をウルリックに渡した。
「おかげで手が汚れた。後は、君がやってよね。」
……血痕がついている。
「殺しちゃだめだよ。」
「……はい。」
ほんとに殴っただけだろうか。
エドリックは髪に刺した簪を引き抜いた。
結いあげていた金の髪が、肩に溢れた。
簪を指先にひっかけ、
尖った先端を前方に向ける。
「僕は、こっちで。」
どうやら主人は、暗器も使えるようだった。
「――やあ、狐。」
「――鼬鼠!」
声の主に視線を向けた途端、
エドリックの顔色が変わった。
小舟の上で、ディアオが僅かに首を傾げる。
「まさか狐が、群れを作るなんてね。」
駆け寄ろうとしたエドリックを別の男が遮る。
ウルリックは左から斬りかかる男の剣を二本の短剣で受け止め、鳩尾に蹴りを繰り出した。
男を倒して顔を上げると、
シャオトゥが小舟を繋ぎ止めていた縄を解き、櫂で岸を突いたところだった。
「待て――」
その時。
閂で閉ざされた扉の向こう側から、
激しい衝撃音が響いた。
続いて、男達の怒号。
剣のぶつかり合う音。
――約束の刻限だ。
エドリックを遮っていた男の顔色が変わった。
「何だ!?」
扉の向こうで、
人が慌ただしく動く気配がする。
続いて、会場へ続く扉が激しく叩かれた。
「開けてください!」
「どうした!?」
「開けてください!!」
「何があった!?」
「騎士団です!!」
「表から、イール国騎士団が突入してきました!開けてください!!」
――騎士団。
閂を押さえていた男が、困惑する。
開ければ、自分達も捕まってしまう。
「――ディアオ様。」
すでに、小舟は岸を離れていた。
「ディアオ様!」
「お待ちください!!」
水路側に残された男達は叫んだ。
「ディアオ様! 我々はどうすれば!?」
悲鳴に近い声が水路に響いた。
ディアオは振り返らなかった。
シャオトゥが櫂を握り、小舟は暗い水面を進んでいく。
「後は、君たちの好きにすればいい。」
「ディアオ様!!」
男達は岸に駆け寄る。
逃げ場はない。
金も、商品も、仲間も。
全てを残して主人だけが消えていく。
「そんな……。」
誰かが、呆然と呟いた。
「じゃあね、狐。また遊ぼう。」
鼬鼠の声だけを残し、
小舟は、
暗がりに溶けるように遠ざかっていった。
「――鼬鼠め。」
吐き捨てるように、エドリックは呟いた。
ドンッ!!
閂のかかった扉が、激しく叩かれる。
会場側の混乱が、
叩かれる扉の向こうから聞こえてきた。
ドンドンッ!!
「開けてちょうだい!!」
「ここを開けろ!!」
客達も、逃げようと必死になっていた。
ドンドンドンッ!!!
「いいから開けろ!」
「金なら払う!開けてくれ!!」
「大人しくしろ!」
「ぐぁッ!」
ドンドンドンドンッ!!!!
「もう、無理だ……!!」
閂を押さえていた男が手を離し、
こちらに走ってきた。
「上だ! 上に逃げろ!」
誰かが叫んだ。
主人に見捨てられた男達の視線が、
一斉に階段に向く。
そして、逃げ場を求めて我先にと殺到する。
――これ以上、誰一人逃がさない。
狐は命じた。
「出番だよ。」
「承知。」
ウルリックは短剣を構え、身を低くした。
◆
ドガンッ――!!
とうとう、扉が閂ごと破られた。
「おーーう、やってるねぇーー!!」
数名の騎士が、水路側へ駆け込んでくる。
その後ろから、
扉を破った大柄な騎士がゆっくりと歩いてきた。
周囲を見渡し――
ひとつ、息を吐いた。
「――なんでぇ、終わってるじゃねえか。」
つまらなさそうに、
左手の酒瓶を呷った。
床には、呻き声を漏らす商会の男達が転がっている。
戦意を失い、
その場に座り込んでいる者もいた。
ウルリックは短剣を下ろし、
侵入してきた騎士達に目を向けた。
騎士達は、倒れている男達の生存を確認している。
「やあ、ギャリック。」
「あ……?」
エドリックに声をかけられ、
大柄な騎士は目を剥いた。
「お前――狐じゃねぇか。」
「そうだよ?」
エドリックは、
当たり前のように首を傾けてみせた。
ギャリックは床に転がる男達を見回し、
再びエドリックへ目を向けた。
「じゃあ、誰が……。」
その視線が、こちらを向いた。
ギャリックの目が一度細まり、
そして大きく見開かれる。
「……ウルリック?」
「……父さん?」
父子の間に、沈黙が落ちた。
「――お前、何してるんだ。」
何を、と言われても。
「お前がやったのか。」
父に問われ、ウルリックは頷いた。
ギャリックの顔が引き攣る。
「侍従になったんじゃなかったのか!?」
「――侍従、です。」
あくまでも。
そのつもりではある。
……ウルリック自身は。
ギャリックは、二本の短剣を持つ息子を見た。
その隣で髪を解き、
涼しげに目を細めているエドリック。
床に転がる男達。
そして。
改めて、息子を見た。
「てめぇ、狐! ウルリックを狐にするつもりか!?」
「やだなぁ、狼が狐になれるはずないじゃないか。」
エドリックは、
この上なく楽しげに微笑んでいた。
「どこまで行っても、狼は狼だよ。」




