砂鉄の入団テスト
時は遡る。
山本健司が高校生3年の夏。
世間は野球界はプロ野球リーグと夏の甲子園で沸き立っていた時期だ。
そんな中、横浜のスタジアムの湿った空気が、さらに重く沈殿していた。
そこで行われるのはNPB合同入団テスト。
本来なら、戦力外通告を受けた男たちが最後の藁をも掴もうと必死になる、悲壮感漂う場所だ。
あるいは、独立リーグで牙を磨いた若者が、一攫千金を夢見てギラついた視線を送る場所。
だが、打撃ケージの前に立ったその男は、そのどちらとも違っていた。
「…おい、冗談だろ」
ネット裏、スピードガンを手に持った阪神のスカウトが、呆れたように呟いた。
隣にいた巨人のスカウトも、苦虫を噛み潰したような顔で資料に目を落とす。
資料には、信じられない数字が並んでいた。
『山本健司。18歳。身長160cm、体重120kg。体脂肪率5%
経歴 世界陸上ハンマー投げ、やり投げ日本代表 金メダリスト』
目の前にいるのは、人間というよりは、公衆電話ボックスを横に二倍にしたような、異常な密度の肉塊だった。
その日の丸を背負った日本代表の陸上ユニフォーム。
太ももと上腕三頭筋は破裂寸前パツパツに張り詰め、縫い目が悲鳴を上げている。
160センチ。プロ野球界では「超小兵」と呼ぶのすら躊躇われる低身長だ。
だが、その横幅と厚みは、現役のどの外国人助っ人よりも威圧感があった。
「陸上のハンマー投げとやり投げで日本記録を持ってるからって、強引にテストに割り込んできおって……。野球を舐めてもらっちゃ困るな」
横浜のチーフスカウトが、不機嫌そうに吐き捨てた。
「ハンマー投げの技術が野球に通じるわけがない。大体、その体型でまともにバットが振れるのか?」
打撃ケージに入った山本は、バットを構えた。
その構えもまた、異質だった。
一般的な野球の「構え」ではない。バットを極端に低く、まるでゴルフクラブを握るように下段に構える。
ゴルフの打ちっぱなしで身につけたという、下半身の爆発的な回転力をロスなくボールに伝えるための、彼独自の「飛距離特化型フォーム」だ。
「……ふぅ」
山本が短く息を吐く。その瞬間、彼の周囲の空気が張り詰めた。
マウンドに上がったのは、テスト用に雇われた、かつて150キロを誇った元セ・リーグの投手だ。
彼は山本の異様な体躯に圧倒されながらも、プロのプライドをかけてセットポジションに入った。
(チビが…パワーだけで通用する世界じゃないってことを教えてやる!)
右腕がしなり、ボールが放たれる。
初球、外角低め、145キロのストレート。
山本健司の動きは、全スカウトの予想を裏切った。
「絶好球や!」
彼は呟くと同時に、バットをトップまで振りかぶりアッパー軌道で、バットを静から動へと一気に加速させた。
それは「振る」というより、120kgの肉体が生み出す質量を、ハンマー投げで鍛え上げた広背筋と体幹で、強引だがしなやかにボールへ衝突させる行為だった。
――ガキィィィィィン!!!
スタジアム中に、聞いたこともないような重苦しい衝撃音が響き渡った。
木製バットがボールを捉えた瞬間、バットの芯が、いやバット全体が、ボールの硬度に負けて一瞬、飴細工のように撓んだ気がした。
ボールは放物線ではない。
ピンポン玉と形容するには生易しい、鋭角で異常な速度を伴いながら、空にはじけ飛ぶ。
「な……ッ!?」
投手が呆然と振り返る。
センター守備に入っていた若手選手は、一歩も動けず、ただ見上げるしかなかった。
ボールは失速することなく、ハマスタの夜空を切り裂き、センターバックスクリーンへ一直線に向かう。
そして――。
――バリバリバリバリィィィン!!!
凄まじい破壊音とともに、センター巨大電光掲示板の中央が、まるで砲弾を受けたかのように粉砕された。
液晶パネルが飛び散り、火花が散る。掲示板に表示されていた「TRYOUT」の文字が歪み、ブラックアウトした。
スタジアムが、静寂に包まれた。
鳥の羽ばたきすら聞こえないほどの、完璧な静寂。
スカウトたちは、手に持っていたスピードガンや資料を落としたことすら気づかず、口をアングリと開けて、破壊された掲示板と、打席で悠然とフォロースルーを解いた160センチの怪物を交互に見ていた。
山本は、粉砕された掲示板を確認すると、少し申し訳なさそうに、だが不敵な笑みを浮かべて、ネット裏のスカウト陣に向かって頭を下げた。
「すんませんな。ちょびっと力んでもうた。……これ、弁償ですか?まあ、 契約金から引いといてええで」
その声は、驚くほど低く、太かった。
160センチ、120kg。
陸上界の怪物が、その桁外れのパワーで、プロ野球の歴史の扉を文字通り「粉砕」してこじ開けた瞬間だった。




