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星屑オペラッタ ~わすれな姫は賢者様に甘やかされる~  作者: 境 美和
2章~好奇心は無慈悲な幻覚の帝王~
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カクシン2



 真っ白な部屋に、清涼な初夏の風が舞い込み過ぎ去っていった。

 赤い、赤い、赤い色のついた、今は一点のしみなき真っ白な頬を褐色の肌が撫でた通りに触り、正体なく、ソフィレーナは涙を流し続けている。部屋には誰もおらず、そして彼女の嗚咽でさえも存在し得ない。白いレース編みの繊細なものに変えられた頭に被せられているヴェール、緩く波打つ栗色の髪は夏用に作られた真っ白な、無地のドレスの胸下までを覆って涙を吸い込み少し重たげだった。

 窓辺の椅子に座った彼女の傍に明るい陽光が差し込み、真っ白な絨毯に窓の形もくっきりと焼きついている。部屋は日差しの影にあり、窓辺の椅子であっても直接の日を受けることはなかったが、絨毯に焼けつく光の眩しさは、彼女に、血の気も薄い真っ白な両手で顔を覆わせ、特徴的な瞳を保護すべく瞼を閉じさせるには十分な効力を持つ。或いは、それ以外の要因だったのだろうか。

 ざわざわと、木々の揺れ動く音はソフィレーナの耳朶に触れ、消えることはなく。

 ぱたぱたと頬を伝う水は止め処もなく枯れることもない。

〈―ぁ、―ぉぃい…。……ぇ―んかぁい。〉

 閉じた瞼に響いた声は、水底から湧き上がる泡にも似て、ゆったりと水面へ逃げ去ってゆく。その音があまりにも亡くなってしまったものの発している声に似ていたため、彼女はその、泡の、音の逃げ行く方向へ意識を傾けた。

〈―ぉにいるんだ。……で―んかぁい。〉

 また聞こえるそれは、先ほどのものに比べて少しだけ明瞭さがある。何かを必死に訴えているような、語りかけるような響きは、全てを聞き取れずとも雰囲気として彼女に染み込んでいった。

 死後与えられた知恵者に関するデータには一分も動かなかったかつての助手の心が、ゆっくりと色を取り戻してゆく。

 向けられていた笑み。優しい声。確かに彼女の頬へ触れた今は亡き者の褐色のてのひらの温かさも、その後の鮮やかな赤い色も願望も喪失も、幾度と、記憶が垂れ流されていく度に、吐くほどに、他の全てが考えられなくなるほどに叩きつけられ思い知らされ、全て彼女の中で褪せることも、消えることもなく。


ケルッツア・ド・ディス・ファーンはもう、どこにもいない。


 その事実だけが、頬を濡らして蟠っている。

〈―…ぃぇ…ぁ、…ん〉

 それを分かっていて尚、眼裏に、脳髄に、或いは心にと断続的に届けられる音は、彼女の心を釘付けにしてやまなかった。

 響いた音の先にあのひとが待っているならば、いるならば。完全なる記憶媒体は意思を持ち、声の方向へ手を伸ばす。てのひらに日の光は暖かく、宙を掻く手に答えるものはなくとも。

 それでもその手は、腕は、尚も椅子に座ったままに突き出された。


「……っぁ、…、…―す、……―ん・・・・・・」


 少しかさついた唇が、命の散花に塗れて赤く染まった、今やどこにも存在せぬ者の名を呼ぶ。その響きは頼りなく空気を大して震わせもしなかったが、彼女の脳髄は確かに震え、映像を、纏わる幾つかの論文と、記憶を蘇らせてゆく。


ケルッツア・ド・ディス・ファーン……。


 死のそれを大きく上回る幸せな日常。彼女が助手であった頃の知恵者との日課。無作為に選び出されるケルッツアの表情も仕草も尽きることなどないというように。

 背の、体の全てが痺れて麻痺する、その中で胸の奥は切ないまでに苦しく痛い。

 声の先、音の先。水底から逃げてゆく泡に塗れ明瞭と届けられるものの先に待ち受けているものが、たとえその先で彼女に優しくなくとも、彼女のことを忘れてしまっていても。幻聴でも。或いは優しい夢でも。


かまわ、な・・・い・・・・・。


 切願は引き攣れた声となり、歪み、熱を孕んでぼろぼろと零れ落ち、頬を辿り栗色の髪に、或いは白いドレスの襟元にとさらに大きく染み込んでいった。

 白い絨毯に、今にも崩れそうな様相で立ち上がる彼女は。


あなた、なら。


 皮膚の千切れそうなほどに伸ばされた両の腕。宙を掻く指の先は痛いほどに張り詰めて白く。


「ここにいるんだ。…んでなんかいない」


 瞑ったままだった眦に熱を感じ、ソフィレーナは思わずと目を開いた。


 見えた世界は夜よりも尚暗く深い黒。遠くに白く歪んだ何かが見えるものの、そこまでの距離は酷く遠く、白いそれが何なのか、霞んで歪んだ輪郭は判別のつけようもない。

 立ち尽くす右てのひらは、消えない温かさに包まれている。

 真っ暗な闇の中、視界を閉じれば穏やかな感覚が体中を満たし、彼女の意識をたゆたわせていった。

 ゆらゆらと、闇が移ろい、流れ落ちる。


 ゆらゆら。


ゆら、ゆら。


 ふ、と。


 開こうとした瞼は重く強張り、上と下がくっついているかのよう。泣いた後独特の目の疲れに似たものを感じ、ほぼ張り付いているといっていい上下の睫を上手く剥がして見る世界は、カーテンの影を推しても明るかった。開けた眺望、染まりかけの空に白い雲。分厚いカーテンで視界の半分を覆われたガラス張り窓からは、そろ暮れ日に傾きはじめる黄色みを帯びた日差しが入ってきている。光が許されるのは部屋の奥だったが、知恵者と助手の使うパソコンが置かれている箇所からでも、外の眩しさは隠しようもない。


ここ……は・・・てんぼう、部屋。


 青系統で統一されたその部屋は、彼女の実家に用意された真っ白な部屋よりも格段と広く天井が高かった。彼女は白いドレスなど着ておらず、胸元を押さえつけないままにワイシャツとベスト、スラックスの助手職の制服で温かな毛布に包まっている。髪も短く、視界の角度はどう見ても横たわったそれで椅子にも座っていない。

 勿論、窓からどの角度をとっても最低四メートルは離れている箇所を窓辺とは呼ばない。

 摩耗しそうな意識の中、眠る前の記憶はこちらが正しいと彼女に一気に襲い掛かった。夏みかん、禁書庫、落ちてくる知恵者を受け止め背を打ち身。


アノヒトハ無事ダ。だって、受け止めたもの。


 その記憶が、或いは感覚が蘇ったときふいに、彼女の眦から涙が零れ落ちた。しかし記憶は酷く混乱し、仲違いして現実と夢の判断を決めかねている。


あのひとは無事だ、だって、受け止めたもの。怪我一つしてないわ。

いいえ。声を限りに叫んだけれど、黒いコートを着たあのひとは三脚から落ちてしまったじゃない。

それはうそ。私が受け止めた。

受け止めようとして体が動かなかった。気づいたときには全て後の祭り。伸ばされる褐色の手は私の頬を撫でてごめんねと、柔らかく優しく微笑んで酷い言葉を私に告げたの。あれはいつもいつも一人になるために、自殺をする時間を作るために私に掛けられる言葉なのに、私はいつも気づけない。気づいたときは、もう。

違う。酷く焦った声で私の安否を気遣ってくれたわ。ウェルリス館長に診察して貰って、メルティシアが凄く怒って呆れていた。展望部屋で知恵者に説明を求められて、そうよ、安静にしていなくちゃいけないと、あのひと手ずからココアを淹れてくれたの。それが、美味しかった。

優しい夢。でも現実は違う。帰ってきてみたら赤い赤い色が一面に広がっていたわ。苦くて吐き気がして、赤い液体は塗料なんかじゃなかった。血の海の真ん中に、黒い塊が崩れていたわ。それが、あのひとの亡骸だった。

違う。

いいえ。そうだった。逃げてはいけない。逃げたら、あのひとに。

違うんだってば。

幸せな夢の中に逃げ込んでいるだけ。分かっているわ。何度も思い知らされたじゃない。すべては終わってしまった。もう目が覚める。視界に映るのは白い部屋。鋭く尖ったものの排除された籠のような部屋。ママの声がするわ。現実はこっち。私は、今日も。

嘘だ。

ううん。今日も、生かされているのね。

嘘。それが夢だわ……現実は。

あのひとはいない。

嘘。現実は。

あのひとは、何度も目の前で。

違う。何度もなんてない。だって。


『僕は、ここにいる。死んでなんかない』


げんじつは、ひとつ。


 混乱し、判別をつけかねていた意識は終にどちらが嘘なのかを選び取り、現実を勝ち取った。


そうだ……現実は一度だけ。


ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、生きている。


 助手が身動きしただけで、知恵者を受け止め負傷したその背はずくりと疼く。冷やされている分幾許か軽減されているだろうがそれでも眉をひそめる程には辛いそれも、ケルッツアが無事であるという証明のような気がして、ソフィレーナには優しく甘美なものと感じられた。

 視界の端の方でふと何かが動く。彼女がそちらに目をやると、飛び込んでくるのは灰色の髪に白い上着を着た姿。

「・・・っ……」

 思わずと、反射で伸ばしかけた手を耐えて、止め、静かに元の位置に戻すと、ソフィレーナは幾度も幾度も死を突きつけられた者の、その無事な姿を改めて視界に、記憶に、意識に刻みつけ、ほっと、胸を撫で下ろす。


大丈夫。

ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、生きている。


 彼女の見つめる中、ケルッツアはソファーと机の間で背を丸め、灰色の髪を横顔に垂らした格好で絨毯の上に座り込んでいた。時折聞こえる乾いた紙の擦れるような音にリズムのようなものはなく、どうやら何かを真剣に読み込んでいるよう。

 俯いた褐色の横顔に垂れる灰色の短髪の隙間からは、気難しげに寄せられた賢そうな眉の線がわずかと、幾度と繰り返される瞬き、それにより微かに前髪の揺れる様が見て取れる。彼女のものと比べると格段に色も黒く骨ばった手は口元に置かれ、覗く顎の線からはどことない苦渋が滲んでいた。

 それは、彼女の助手職三年と半年の記憶に則るならば、結論を出した後の、どうにも変えられないものに対する、否が応でも決断しなくてはならない物事にぶち当たっているときの苦悩の様子である。結論は一つで揺るぎもないが、心因的な要因やら、経済的なそれやらで無理にでも別の道を模索する悪あがき。

「・・・・・・・・・・・・」

 問題はかなり深刻なのだろうが。死を叩きつけられた者の無事な姿に頭のネジが飛んでいるのか、灰色の三白眼が灰色の髪に隠れおおせて少しも見えないためか、それとも珍しく黒いコートを着ていないためか、背を丸めて床の絨毯に、恐らくは直に座り込んでいるためか。

 ただ単に、ソフィレーナの頭がまだ微妙に覚醒していないからかもしれない。

 彼女は、彼の苦悩を汲むようなものではなく、別のことをぽろぽろと思った。


ケルッツア・ド・ディス・ファーンて、・・・どうみても、何度見ても十四歳ぐらいのお子様にしかみえないわ・・・・・・。

とても、今年で四十五年も生きているようになんて、見えない・・・。

知恵者なのになぁ・・・・・・・・・。


 凄いひとなのになぁ。ぽろり、ぽろり。零れ落ちたどうでもいい思考に、そして彼女は人知れず苦い笑みを零す。自身に向けてというよりは明らかに相手に向けた苦笑の中身は大幅を親愛に寄せ、淡い色の飲み物にも似た穏やかさを内包していた。ミルクを垂らし、蜂蜜を溶かし込んだコーヒーのような苦味のそれは、本人は苦笑のつもりでもちっとも説得力がない。

 目覚めた後の心地は曖昧で、部屋から望む眺望はいまだ明るい。何より寝起きと、疲労回復のための睡眠もしっかり取れたこと。それが、ソフィレーナから過度の緊張感や衰弱、怯えなどを一気に奪い去り、否、一時的な麻痺を起こさせている。

 酷く穏やかに、しばし彼女は、彼に声を掛けぬままにその姿を見つめていた。

 しかし放心状態もいつかは切れるようで、彼女の脳は次第と正常に働き始める。己が何のためにわざわざ眠りに就いたのか、その目的に思い当たった途端、幾つかの疑問と導き出される事象がソフィレーナの思考を占め。


今回の夢から導き出される高い確率での可能性。

現実で夢の内容に近しいものをなぞり掛けたその後に、また同じ内容を夢の中で目覚めたのは四回だ――――つまり昼のノルマ分見ている。夢の周期性にも、内容にも全く変化がない。

となると、また同じことが現実で起こるという説を打ち立てて考えても…限りない可能性の低さしか出てこない。

実質、夢と現実には関わりがないと判断した方が自然…。


 予知夢の可能性は益々暴落した、と。彼女は眠る前知恵者の前で打ち立てた絶対記憶脳の誤作動、一度見た夢があまりに衝撃的だったから繰り返し再生して見ているだけに過ぎない、という説に思いを馳せ、浮かぶ疑問点に、知恵者と同じく気難しげな顔をした。


再生…。なら、一度目に見た悪夢の内容をただただひたすらに辿っていかないと可笑しい。

一日ごとに尺が伸びてゆくのも可笑しいし、何より、何で規則のようなものが決まっているんだろう……?


 なれば再生の可能性からも一旦離れなくてはならない。

「…………――」

 残る説は、彼女自身が何よりも認めたくないものだったが、消去法でいくならば一番確率だけは高い説。

 己が見る夢は願望との研究結果も、まして自身の認識さえある事実に照らし合わせるなら、悪夢は願望夢である可能性が否定できない。これほど苦しいのに、と喚く彼女の、人の心とはしかし時に、酷いと思われる願望を抱いていない、己は被害者だと嘘を吐く場合があることを、ソフィレーナは過去第五図書館の深層心理分野で手に取った書籍の幾つかで知っている。書籍の名前、年号、著者、ページ番号など、流れてゆく記憶を好きなようにさせて、必要な論、研究結果だけを拾い上げていく。

 苦い顔をする彼女は、それでももしこれが願望夢ならば、とその際導き出される利点を幾つか挙げてみることにして、疑問点だけしか残らないことに益々困り顔。


願望ならば、何故いつも禁書庫で一連の事故が起こるのかしら。

仮に、仮にあのひとの死を・・・私が、私の知らない内に望んでいたとしても、場所を特定して幾度も見るメリットがない。落ちそうな場所なら、あのひとは下に降りたときは外の非常階段中段に良く腰掛けて日光浴らしきものをしているから、あそこから落ちても高さは同じ三メートル弱。展望部屋から屋上に伸びている鉄の螺旋階段も、十メートル高はある。

そこの三メートル高辺りからでも、一向に構わないと思うのに、何故。

私が最初に彼の死体を見つけたい? 

ならば、展望部屋で事故が起こった方が、起こるであろう確率も高ければ、私が死体を見つける確率だって高い。二人きりでいることの多い部屋だもの、そっちの方が断然適しているわ。

錯乱状態の私を、他の職員に見られたい?

これは確かに展望部屋だと入り口が狭い分人員規制がしやすいから、より多くの目に晒すには禁書庫の方が適している。

知恵者が自殺するまでの時間稼ぎ…?

それならば確かに、電話のある場所が展望部屋であることを考えれば、禁書庫での事故に軍配が上がる。おまけに島の結界の所為で、夜にそうなった場合すぐには人体解剖組と連絡を取れないのも事実。

だけど、私を傍から離したいだけなら、下の階への連絡を頼めばいいだけのこと。

そもそも、どうしていつも事故の起こる時刻が正午近くなんだろう。昼間は昼間でも三時の休憩時だって十時の休憩時だって構わない気がするのだけど…。

もとより、夏みかんを貰う確率、果物を貰う時間帯は大体が昼時以外の休憩時間に集中している。三時や十時の方が自然だと思えるのに・・・?

昼間というその時間帯も分からない。夜に二人して残業することが多い上、禁書庫の照明は少々明度を落とされて作られているはずだから、足の滑りやすさを考えると夜の方が都合もいいのでは? 

夜だって下階には沢山人がいるのだから、粗筋としてはそう変わらないだろうに……。

そういえば・・・あの、ナイフ。どうして、ポケットに常備している小型のものを使わないのかしら。

そもそも、あの、柄に蒼い、サファイアのような宝石を嵌めこんだ金細工のナイフなんて、あのひと、本当に持っているの・・・? 私・・・あんなナイフ、見たことが……。

 でも、民芸店で銀の柄のナイフを見たことがあるもの。蒼い宝石ははめ込まれていなかったけれど、その記憶を…・・・でもじゃあどうして、民芸店で見たものじゃないんだろう?


 その疑問も、本当に疑問たり得るのか。幾度も見ている夢の粗筋も舞台も少々の差異はあれど同じということを疑問の核として考える、その思考が果たして客観的に見て通用するのか、ソフィレーナは今ひとつ自信を持てずにいる。

 願望夢という結論を避けたいから必死で疑問をこじつけているようだ、と。そう思うだに、そして彼女はそんな己が滑稽で惨めで、酷く情けなかった。


私……本当はこのひとが死ぬこと・・・望んでいるの、かな……。


 ならば、離れなければならないだろう。夢のような曖昧さで思うその結論は、すでに彼女の中で絶対を占める。もし本当に、知恵者の死を助手が望んでいるならば、願望に則って助手が無意識にでもそうなるように行動してしまう可能性は否定できない。そうなる前に。


助手職を、解雇してもらっ・・・て。


 痛みと喪失感は体中を覆い、その結論は嫌だと駄々をこねる。しかし、その駄々も知恵者を死に至らしめるための布石かもしれないため、容易と聞き届けることは許されない。優先されるべきは知恵者の生存であって、己の心の痛みではない。己がどれだけ苦しんでも、あのひとが完全に消えてしまうよりはいい、と。


あのひとが生きている限り、あのひとの、発表された考え方に、人格に触れることができる。


 それだけで本来は満足するべきだった、元に戻るだけ。そんな結論を導き出し、ソフィレーナは、この悪夢は願望夢以外に考えられないという心境で、何かに苦悩している様子のケルッツアを改めて見やった。彼の苦悩は彼のものであったが、その要因に己の悪夢が願望夢であるという可能性が絡んでいるのではないかと、密かに恐れ、震え、傍を離れる覚悟だけは揺るがせずに。

 一度、口を開いて声は出ず。二度目は流石に甘えを押し切り。

「…ケルッツア・ド・ディス・ファーン・・・」

 まだ夢見がちな声を彼女の耳が拾い取ったと同時、先ほどまで一心不乱、俯いて何かを考えあぐねていた褐色の顔が向けられる。目の前で微笑みと安堵に崩されたその表情があまりにも優しくて、ソフィレーナは咄嗟俯こうとしたが、頬に手を添えられ、結果的には阻止された形、目元を隠すことができない。躊躇いなく伸ばされた白い上着の袖から覗く褐色の手は温かく、艶のない栗色の髪を静かに撫でつけて、また、頬に添えられた。

「…気分はどうかね? 吐き気や、眩暈はない?」

 間近で掛けられる声の優しさに、その笑みに、乾いた眦に熱の集まってくる感覚は隠しようもなく。ソフィレーナは次第ぼやけてゆく世界の輪郭、今にも流れ落ちそうな熱い塊を何とか堪えているだけで精一杯。彼の気遣いにまでは、気は回ってもいかんせん行動が取れない。


どうして、そんなに優しい・・・の?


 私はあなたの死を望んでいるかもしれないのに。と、悪夢を願望夢としか考えられない彼女は、彼の傍から離れなければならないという結論に終始している。その覚悟に囚われている助手は知恵者の優しさに純粋な歓喜を抱けない。複雑怪奇な心はわずかの安堵と絶望、一瞬の幸福とも取れるさまに混ざり合いぐちゃぐちゃだった。判別のつけられない感情に任せて、ソフィレーナは背の痛みよりも激しい衝動に、ケルッツアに顔を、目元を晒したままにでも、一つ、しゃっくり上げることを止められない。

 慌てて顔を隠そうとしても褐色の指先に阻まれる。

 涙を拭うその指は優しく、何より確かに温かい。それがまた、さらに彼女の感情を溢れさせていく。いっそのこと邪険に扱われた方が醜態を晒さなくて済んだだろうに、と強く心の中彼をそしり、責め、しかし拒むことはできずにどんな拷問だとも思いながら、彼女は涙を耐えられなかった。

 漏れる嗚咽が浅ましい。垂れる涙が情けない。

 そんなことを思って泣く助手の心は汲まず、知恵者は説くように言葉をかける。

「……君の夢で何度僕が死のうと、僕は現実ここにいる。

 大丈夫。僕は生きているよ」

 声は優しく、益々と彼女に混乱を呼び込んだ。知恵者ともあろうものが絶対記憶脳を持つと知られる助手の悪夢の可能性に願望夢を考えない、などということはあり得ない。それを推して、何故、ここでその言葉が出るのか、彼女は彼の優しさと考え、さらに辛くなる。そうして、その優しさがいつからなのか、目元を掬う指先の温かさに、少しだけまどろんだ。


…レウィナ流星群の、日から・・・だ・・・。


 相変わらずこき使われる。無茶な残業も変わりがない。知恵者は身勝手で、不摂生も限度は三日と決め込んだようだが三日まではと好き勝手健康など省みない。変な頑固さも子供っぽさもそのまま。どこがどう変わった、という訳ではなかったが、それでもケルッツアの彼女に対するちょっとした何か、は目に見える形でソフィレーナの心を打ち続けていた。前から多少はあった気遣いなどの断続的であった周期が、継続性を帯びてきていることに彼女は気がついている。

 そしてそれが彼女に彼の傍を離れ難くさせている要因だった。知恵者の傍は助手にとって優しく、穏やかで居心地が良い場所。


でも、私はこのひとの死を望んでいるんだ。


 そうであった場合、彼女は己にとって居心地のいい場所の存続より、知恵者の生存を取る。

 ケルッツアが彼女のいる世界から消滅してしまう、それ以上に恐ろしいことなどソフィレーナには存在しない。そんなことになるぐらいならば彼の世界から己が消滅するとしても、傍を離れてしまった方がずっとまし。

 しかも、その死に方が。

 そんな結果を招くぐらいなら、と。嗚咽の中からも彼女は言葉を絞りだす。

「やさ・・・く、ちゃ、だめ、です」

 幾度も幾度もしゃっくり上げる、泣いたとき独特の癇癪に背は痛烈に軋み痛んだ。それでもそのしゃっくりあげる動作を、邪魔と無理にでも呼吸を止めることで押さえ込み、彼女は願望を、そして自身で導き出した絶対の結論を彼に伝える。

「私、の、悪夢は、消去法で、願望、夢の、可能性が、高い。

 私は、あな、た、の、し、を、わた、わたしの、知らない間に、でも、望んでいる、ッも、しれな、い。

 そ、やッ・・・こ、ころ、て、しまう、かも、しれな、いッ!!

 だ、か、らッ! ッかい、こし、して、してくだ、くださ、い」

 解雇してください、と苦しい息の中繰り返す助手に、知恵者は助手の興奮が少しでも収まるよう、黒いコートの上からその背をゆっくりとさすった。そして彼女の肩から上を抱え込むように己の腕を回す。

 悪夢が願望夢であった場合、解雇という結論を出しているらしい助手の思考、その些かの暴走、決め付けっぷりに、浅慮だ、と開きかけた口を無言に任せ。

 少し考えて、結局彼は別の要素をつむぎ上げることにした。

「……。…―――僕が、知恵者たる記憶を持っていなければ、そう考えざるを得なかった。

 もっとも、だからといって君を解雇するかは分からないけどね」

 背をソファーの背もたれとクッションに預けた格好で伏すソフィレーナを腕の中に抱え込み、抱き寄せるような形を取りながらまるで寝物語を語り聞かせるような調子、ケルッツアは彼女の気など知らぬふり、癇癪を収めるよう、緩やかに語りかける。

「ねえ、ソフィーレンス君。……僕の故郷には、人は死ぬと砂になるという言い伝えがある。

 その声は風となり、その肉体は砂と崩れ落ちる。

 僕があちらに行けた要因の一つには・・・。

 ……もしかしたら、流民ということも含まれているかもしれない、と、僕はおもうんだ・・・」

 痛むだろう背は避けて、その栗色の短髪に緩やかな拍子を与えて宥める知恵者に、助手は次第と落ち着きを取り戻していった。いまだしゃっくりの止まらない背は時折温かな感覚によって撫で摩られている所為か、それともただ単に慣れてしまっただけなのか、打撲の痛みにそれほども軋まない。

「・・・・・・・・・・・」

 落ち着くにつれ、彼女は彼の発した言葉を思い返し、ゆっくりと疑問を浮上させた。願望夢である可能性が高いから解雇を申し出た助手に、知恵者は曖昧と取れる言葉を選んだ。その内容は確信めいたものを窺わせ。

 わざと、全ての理解を促さない。

「―――……」

 ソフィレーナは、口をついて出そうになる疑問を耐え、思考を巡らせた。

 知恵者たる記憶、あちら。この単語の指す意味は間違いなく、嘗て彼の経験した異世界旅行で行った場所、若返りそのまま肉体も脳も保つことのできる技術、名称としてはマホウ、オーパーツ技術と呼ばれるものの在るらしい世界を指している。そして、あちらに行かなければ、願望夢の可能性を出さざるを得なかった、と言っているからには、悪夢の要因は、願望夢以外の、彼女の知りえない可能性があると、暗に、どころかあからさまに示していることも、読み取るのは易い。

 しかし、彼女に与えられるのは全て推測であり、断定の言葉ではなかった。

「幾つかの質問に、答えてもらえるかね?」

 それを分かって平然と言い放つ知恵者のその意図が、彼女に与えた推測をなぞっていない訳はなく。

 ソフィレーナは、いまだ慣性で緩やかにしゃくりあげる肩を呼吸で押さえつけ、彼女を覗き込んでいる灰色の三白眼と目を合わせた。向けられる瞳は殊更に澄んでいるが、もうそれ以上の言葉を彼女に与える気はないらしい。

 否、もしかしたらこれ以上は。

 助手は知恵者の情報収集を目的として悪夢の只中に落ちていった。

 ならば帰って来た彼女が彼になすべきことは一つと決まっている。

「……はい。お願いします」

 ソフィレーナは静かな声で、ケルッツアに応じた。





「……ロークローク。至急の用があるとディス・ファーンからシェスラット卿に取次ぎを願いたい。卿は在宅…。

 ……失礼しました王女、そちらにグルラドルンは居、………。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 グラン。居るなら居るで早々と出てくれないか。何? 仕事が上手く運ばない。……―――へえ。

 ……。………そう。…・・・・・・うん、そのことなんだけどさ」

 助手の安静に貸し出した知恵者お気に入りのソファーの横、彼と彼女のパソコンが置かれた鉄製机の上からは、二本を一本に束ねた白い線がにょきりと伸びて所定の位置以外に置かれている電話機に繋がっている。ソファーと低い木製作りの机との間に座り込み、知恵者は蒼い絨毯に直で置いた電話機からコードで通じる受話器を左肩と耳朶とに挟みソファーの足に背を預け、文化庁長官へと連絡を入れていた。

 何やら受話器の向こう側で怒鳴って、否、嘆いているらしいグルラドルンの声を冷静に受け流しつつ、目的を話してゆくケルッツアの、その右手の熱をてのひらに感じながら、ソフィレーナは展望部屋の光景を見つめている。

 時間にして恐らくは六時過ぎ。夕暮れに沈む室内、鮮やかな黄色に染められた展望部屋奥とは反対に、カーテンの敷かれたソファーのある場所、展望部屋入り口付近は濃い闇の気配を潜ませ、夜の色に沈みかけていた。

 結界発動まで後三十分を切ったであろう時刻、日没までの少ない安寧の時間を知恵者と過ごす助手は、しかし常平均的な白さの面を蒼白にして、知恵者お気に入りのソファーに臥し、掛けられている毛布と黒いコートを肩へと引き寄せる。

 いつから掛けられたものか、目覚めたときには当然のように毛布の上に重なっていたらしきコートに気づいたとき、ソフィレーナは頬を染め、その優しさに、質問の前にと彼がお手洗いに立っている間にさらに涙を零したが、今は一層と引き寄せ、その温かな触り心地に、縋るように心を落ち着けていた。

 そうしていながら彼女のすぐ傍、背を向けて電話を掛けているケルッツアの声を、姿を、視線を向けないまでも痛みを覚えるほどに尖った神経で確かめている。

 悪夢は己の願望夢。だから離れなくてはならない、と心を震わせていた助手は今、別の要因に怯えていた。


『…………ありがとう。これでよく分かった。

 ――――君は本来確実に知り得ないことを、夢の中で確定事項として見ている』

 時間を遡ること少し前、全ての質問を終えて重く息を吐き出した知恵者は、そう切り出す。

 その意味を掴みかねたか怪訝そうな顔をした助手は、次いで言葉を慰みと取り、その顔を泣き笑いの様相に崩しかけたが、そうじゃない、と。

 彼は、彼女の知りえないこと、その確実さを語っていった。


『自殺の・・・ほう、ほう・・・?』

『そう。君の見た…今日で三十六回の夢の中で、僕の自殺方法、否、手順は全く変わらない。

 君が見つけるのは亡骸だけれども、その自殺の様式そのもの…たとえば、辺りに血を撒き散らすこととか、傷口の位置や、ナイフを持つ手、……どれも、いつも同じだという。

 君は確実に、その方法を知らないはずなのに、だ。

 そして仮に、悪夢を君の願望夢だとした場合、知りえないことを毎度毎度一片の変わりすらなくなぞることなど…再生でない夢では、考えにくい』


 語られた言葉の衝撃に思わずと問いを発した助手は、受けた知恵者によって益々と打ちのめされた。夢の中でその死を実現させた者は、禁書庫が血の海になったことも傷口の位置もナイフを持つ手の、どうやら持ち方さえも、様式として決まっていると言う。語る顔は恐ろしいまでに真剣で、灰色の三白眼は漆黒に染まることもなく薄い色のまま、その情報にわずかの茶化しもないことを示していた。

 自殺方法という、ソフィレーナの思ってもみなかった着眼点は、確かに飛び散った血の模様は違えども全ての夢で、そこだけは部分的な再生なのではないかと思うほどの共通を見せている。

 しかし、願望夢との妄執に囚われている彼女は、彼も、そして半ば己の頭をも信じることができない。

 知恵者はほぼ絶対的に助手がその自殺方式を知らないという前提で、否、そう決め付けている。しかし、何故そう言えるのか。

『私が…確定事項と知らない、から…想像で補う分、曖昧になるって、ことですか?

 でも、どうして私が知らないと断言できるんです? 私の頭はガラクタなんですから、何かの拍子で』

 そこに噛み付いた助手に、知恵者は大仰に首を振り、落とすように言い切った。

『だから、それすらあり得ない。否、言い方が限定的だね、なら…限りなく、確率が低い、んだ。

 君の頭は絶対記憶媒体だ。けれど君のメモリーに刻まれるものは、君が見たもの、聞いたものに限られる。

 その自殺様式はね、僕の育った民の中でも知っている者は少ない。口頭でも、まして文献にも残されない。……僕もたまたま、この目で見て教わった。

 そんな知識をどうやって君が知る? 言語ですら分からないのに?

 仮に、知っていた、としても……。

 ……そうだね、僕の育った民は誇りの民だ。誇りの為に生き、誇りの為に死ぬ。

 そして僕の誇りはここだ。…ここが壊れたら』

 ここ、と、ケルッツアの指した灰色の短髪に覆われている頭部を見て、ソフィレーナは去年国立図書館屋上で彼と一緒に見た星空観察の、その流星群の流れる前、知恵者の遺体譲渡契約に関する話と、それから少し後、彼の私室で語られた散々な話の一部分をそれぞれ思い出す。思考できないのならば潔く死んだ方がまし。結論を出せないなど、恥の体現。首を掻っ切りたくなる。

 その思考が今も変わっていないことに、彼女は。


『あなたは……首を掻っ切って、自殺をするのでしょう・・・?』


 虚ろな声、呟いたかのような音程で問う助手に、知恵者はいとも簡単に同意を返し、論を進めて行った。

『そう。それは前に話した。でも、それだけの情報しか与えていない。

 首を掻っ切るにしたって幾つか方法がある。たとえば傷口一つ取ってみたところで、もしその夢の映像が君の想像ならば、どこを切るか…確定のものがないのなら、差異が出る。そして僕が選ぶ方法は、作法の一つ一つを決められた一般的ではない方法だ。

 でも現に君は、僕が取るだろう自殺の手順を間違いなく、しかも詳細にその口で再現した。

 そしてね、よしんば、その自殺様式を君が知っていたとしても。

 …………一つ、僕の中だけでしか確定していない事項を、君は僕の前で語っているんだよ。

 君は確実に、僕が取るであろう手順を踏み、選ぶ自殺方法を夢で見ている』

 流れるように展開されてゆく論は、始終、脳が破損すれば知恵者は死ぬということを確定として進んでゆく。

 彼女の悲壮に、否、蒼白になった顔を汲んだ彼は、少しばかり表情を緩めると、大丈夫、と笑んで見せた。

『…現実でそんなことは起こっていない。僕はまだ生きているよ。

 でも、君の見たそれは……僕の意志の織り込まれた映像だとでも考えなければ説明がつかない。

 逆に考えるならば、そう仮定すれば説明がついてしまう。

 ……論の大幅な飛躍を許して欲しい。

 あらかじめ言っておくけれど、これは・・・・・カンニングした知識なんだ。

 だから、僕も詳しいことは―らない。

 君は眠る前、預言者は物語であるからこそ存在し得ると言った。向かわせたい方向があるからこそ、予知夢の能力を与えることができる。だから現実に預言者はいない。未来は様々な意志の絡む完全なランダム、織物だと。僕もそう考えている。

 だけど、仮に。

 完全な予測ができないだけで、ある程度の予測ができるとしたら。 個々の意志が絡む、その個々の意思に完全ではない、確率の高いパターンのようなものがあるとするならば。

 未来における、もしかしたら進むかもしれない柄の一つを、理論上は見る、見せることも可能だ』


 見えない圧力にゆっくりと息苦しさを募らせていたソフィレーナは、最後、断定された彼の言葉に息を詰まらせ、目の前の灰色の三白眼に強く見返された。


このひとハ、脳を損傷しタトき…夢の通りノ方法をモってして、死ヌ。

私が見テイタノは、本当ニ、コノヒトガ死ヌ、場面。


 ソフィレーナの心など置き去りに、論は滔々と。


『君の見ているものは、君の未来に織り成される柄の一つ。

 だから君の知らない僕の意志は行動となって君の夢に出る。意味は知らなくても、その結果を君は見ることができた。さらにその柄は確定要素と不確定要素で構成されている。シナリオは確定していても、詳細は不確定要素、だから始まりと結末の同じ、所々が違う夢を見ていると考えられるんだ。

 未来の可能性の一つを見ているのなら、それはもしかしたらそちらを選ぶかもしれないという、ある意味で予知と言えるのかも知れない。

 伝承の世界に合わせるなら、預言者は作者の意図によって予知夢を見る。

 なら、君の予知は一体誰の意図が働いているのか。君の意図ならば君はもっと自由に未来を見通す、つまり、コントロールできるはず。でも、実際は夢に振り回されている受動の立場でしかない。

 受けるということは、君に向かって投げている相手がいるはずだ。

 それを仮に第三者とする。

 君は、第三者の意図によって夢を見る。

 伝承の作者は、作者の意図の通りに話を進めるために預言者が必要だからこそ、預言者を作る。

 じゃあ、君のその夢には第三者のどのような意図が隠されているのか。

 意図は、表れている現象からでしか推測できない。

 悪夢を見ている結果、君はろくに睡眠すら取れず、怯え、怖がり、三日という短期間で明らかに衰弱した。

 これは、医者の目から見ても証明されたよ。

 ティーチャー・ウェルリスも不思議がっていた。一週間もの間、砂漠で過ごしても問題がない程元気だった君が、その後の健康検査でも引っかからなかった君が、その後の三日間で明らかに衰弱しているんだからね。

 いつ倒れても可笑しいくない状態だからと、少しの栄養剤を処方されてね。それから何より睡眠が大事だと、ごめんね、さっきのココアには睡眠導入剤を少量入れさせて貰った。

 君は確実に衰弱している。

 結果だけ見れば、第三者は、君の衰弱を意図して夢を見せていることになる。

 第三者の目的は君を衰弱させ…このまま行けば、精神はおろか命までも危ういと考えられる、つまり、死に至らしめることだ。

 夢は、そのための手段でしかない。逆に言えば、第三者は夢で君を苦しめるやり方を選んでいる。

 そこでしか、苦しめられないんだと僕は考える。

 現実はあくまで現実だ。君の夢と同じようなことが起こりかけても実質違えられた。起こったこと自体が偶然でしかないんだ。

 じゃあ、第三者は何故、君を苦しめるのか。これもまた、現象でしか測ることはできず、測れそうな現象もない。

 でもね。

 君が夢を見始めたのは三日前、正確には、三日と半日前からだ。その前は、遺跡調査前に行われた健康検査で全く問題がなかったことからも健康そのものだったことが窺える。

 遺跡調査後に行われた健康検査でも引っかからなかったけれど、その代わり、おかしな夢を見たという。

 …その動物はね、この国の伝承にも、僕の知っている伝承にも出てこない。まして、実在も確認すらされていないよ。

 でも、僕は知っている。………そういうことなんだ。

 詰まるところ、君の悪夢はその調査した遺跡に原因があるんだよ』


 ソフィレーナは、感情とは別の部分を働かせながら、ケルッツア自身によって確定されてしまった恐怖に怯えている。

『そんな…・・・。でも、私は遺跡の中には入っていません。

 調査隊の中でも、入った方は確か三分の一にも満たないはず。私は周囲で土を採取して…入り口付近で、残された調査員の手伝いをしていただけですから…とても、オーパーツ技術に触れる機会は』

 場面はすでに移り変わり、悪夢は遺跡のせいということでほぼ固まっていた。よく、平常な質問を繰り出せるものだと、彼女は己のことを遠くに感じつつ、彼の考察についてゆく。


『うん。中に入った者と、その周囲にいた者の名前、分かるかね?』

『…………。他の人も、悪夢を見ている可能性が、ある?』


 視界の中では、今の今まで漆黒になど染まらなかった灰色の三白眼が、闇の色も濃く彼女を見返した。

『……。確かめてみても、損はないと思うがね』

 しぃ、と褐色の口元に己の人差し指を当てて、にっこりと笑う顔に嘘偽りはない。遺跡の近くにいた者、入って行った者リストを作ると、そして知恵者は文化庁長官へと連絡を入れた。


 回想から返ってきたソフィレーナの耳には、相変わらずケルッツアと、受話器の向こう、文化庁長官の声がわずかに聞こえている。回想に沈んでからどれほどの時が経ったのか、展望部屋を彩る色彩は如実に陰りを帯び、時の流れを示していた。電話を掛けている間中離されることのなかった白い手と褐色の手は、すでに温度が同じになったか、繋いでいることさえも忘れるほど馴染んでいる。

 気持ち、ソフィレーナが褐色の手を握るよう力を込めると、さらに強く握り返された。

 そのことによりさらに熱く伝わる温度の温かさに、彼女は思わずと滲んだ視界を、今度は前髪の影に隠してハンカチを取る動きさえ伝わってしまう距離に逡巡、そっと肩口へと押し付ける。しかしその動きでさえも繋いだ手から伝わるものか、彼には簡単に見破られてしまった。

「大丈夫だ。僕はまだ生きているよ。

 君は今日泊まりになる。何、ティーチャー・ウェルリスも丁度用があって泊まるそうだから、容態が悪化しても最悪の事態は防げる……。

 まあ、泊まりの方が何かとあっちも都合がいいみたいだしね」

 電話を終えた知恵者は、俯き加減に顔を隠す助手の、その枕代わりのクッションから浮いた栗色の後頭部に褐色の手を載せて、ぽんぽん、と軽く撫でる。

 与えられる言葉は優しく、その優しさに甘えてソフィレーナは顔を上げずに、ただ頷くばかり。

 その後、彼女は睡眠導入剤を用いて再び悪夢の夜のノルマを消化。上司と部下は、概ね平和な時間を過ごしていた。

 知恵者は始終助手の傍にいて、論文雑誌を読み、片付けて尚読みたかったのだろう数冊の本を禁書庫から持ち出してきては傍に積んで読み、図書館業務に目を通して、すぐにだれることを繰り返している。

 お手洗い以外はソファーから離れることもなく、ソフィレーナはノルマを消化した後の何もない眠りに身を任せ、彼女の視界から消えない彼の姿に安堵を覚え、それでも拭うことのできない確実な不安に怯えていた。


 知恵者は、助手の夢は未来における確率の高い夢の一つだと言う。

 そして、彼は彼の脳が損傷したとき、彼女の見る夢そのままに自殺すると、彼自身の口で、彼女に確定事項として語った。

 その言葉が、ソフィレーナに一体どんな心境を齎すのか。

 彼女の傍で時を過ごしてなお、ケルッツアは。


 蒼白な顔をした助手は、知恵者を静かに見つめている。

 静かに、否。


 虚ろに。




大丈夫。

ケルッツア・ド・ディス・ファーンはマダ、生きテいル。


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遺跡が原因…呪い? 続きが気になる〜(っ ॑꒳ ॑c)ワクワク
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