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星屑オペラッタ ~わすれな姫は賢者様に甘やかされる~  作者: 境 美和
2章~好奇心は無慈悲な幻覚の帝王~
24/26

カクシン1



『そうですねぇ……。

 今の所は、背中の打撲に対して、手足の痺れ、嘔吐感といった症状も出てはいませんが・・・時を置いて出てくる場合も有ります。一晩安静にして、様子を見ましょう。

 ご両親と、リリアカク大御所にも、ご連絡申し上げますが・・・。本土の病院に担ぎ込むかは、明日までの経過を見ないと何とも言えません。

 私個人としては・・・ここまでディス・ファーン君の付き添いがあったとは言え、自身の足で歩いて来ていますし、眩暈も出ていませんから・・・。恐らく、大事に至らないものと考えているのですが。

 よもや、ということも十分にあり得ますからね。

 安静にするに越したことはないでしょう……』


 国立図書館職員内で、唯一医師免許を持っている第七図書館長ウェルリス・ド・メルマニーサの控え室隣の部屋は、消毒液などの独特な臭いの染み付くちょっとした診療所のような様相に整えられている。

 巨大な施設が孤島にあるという配慮から整えられた医療行為用の部屋、二年前の春、一度ここへ運び込まれたことのあるソフィレーナは、カレンダーや季節の物は変わっても他のほとんどが変わっていない室内、白く小さな硬い簡易ベッドに腰かけ、診察のため解いた衣服を直して、一つ気の抜けた息を吐き出した。

 診察を行った、男性にしては小柄な体躯、穏やかな様相のウェルリスは、ソフィレーナを触診するときには必須である女性の付き添い役として第二図書館からすっ飛んできたメルティシア・ド・パウンゼウムの憤怒っぷりをいなし、今は部屋の外で待機している知恵者と何事か話している。

 磨りガラスをはめ込まれた扉の向こう側、小柄なウェルリスの少し曲がった背の影と、それよりも背の足りない知恵者の黒いコートらしき影が覗いていた。

 話している内容は少し潜められた声で交わされているためか、ソフィレーナの耳にははっきりと届かぬままに染み付いた消毒液の臭いにかき消されてゆく。


『もう! 吃驚しちゃったじゃないですかぁ!!

 ウェルリス館長の言うとおり、今日は安静にしてなくちゃ駄目です!!

 レティー先パイが言ってましたけど、ほんっとうに!

 ソフィー先輩ってへんちくりんな所で危なっかしいんですねッ!!!

 へんちくりんな所っていうかドクター・ワイズが絡むとって言った方がいいのかな! ああん!

 何だかレティー先パイが総館長の事プロフェッサーって呼ぶの分かっちゃうかも!!

 っていうか普通しませんよ落ちてくる人受け止めるなんてッ!!!!』


 どういう情報ですっ飛んできたのか、いつもくるくると可愛らしく両の側頭部で縛り巻いている黒髪を結構な酷さに乱して、その美脚が飾り物でないことを惜しげもなく披露、怒鳴り込んできたメルティシアはウェルリスの診察が終わるや否や患者に文字通り飛び掛かりかけ、その場の医師に押しとどめられてそんなことを怒鳴り散らし、今はまた、色々な一悶着はあったものの第二図書館に帰っている。間違いなく、今は調査旅行で第二図書館長テェレル・ド・イグラーンと共にいないレティシア・ド・パレッツィアの耳に入るだろうことに苦い思いを禁じえぬソフィレーナは、もう一つと、悔恨のため息を落とし、床に着けた足裏に力を入れて立ち上がる。眩暈や手足の痺れ、嘔吐感といったものはなかったが、極度に眠りを避けているために起こる視界の眩しさに、二度、三度と瞬きを繰り返し。

 締め付けるものは禁止という医師の達しにより、完全に硬い当て具の外された胸元、その助手職の格好では慣れない胸の膨らみを少し気恥ずかしく思い、しかしそれも堪えて、とっくに会話の止んでいた扉の向こう、立ち竦んでいる様子の黒い影に、大丈夫ですよ、との声をかけた。

 微かな蝶番の音と共に、現れた黒いコート、少し厳しい表情で彼女を見るケルッツアに、ソフィレーナは自然、安堵の微笑を零す。


大丈夫。ケルッツア・ド・ディス・ファーンは生きている。


 ここでは憚られる、という知恵者の提案により、あらかじめ許可を得ていた彼らは、場所をメルマニーサの控え室隣から最上階展望部屋へと移し、茶席を設けた。怪我人本人は大丈夫と言い張ったものの、いかに助手とはいえ安静中の身に茶の用意などさせられる訳はなく、知恵者手ずから淹れられた、彼はコーヒー、彼女はココアをもって席は開始される。

 助手は、目の前で常日頃所望される角砂糖の数より二倍ほど多く融かしこまれたコーヒーを口にする知恵者に少し気を取られながらも、自身の身に起こった一連の不可解な夢の話を打ち明けていった。

 お気に入りのソファーを彼女の安静に貸し出した彼は、ソファーと机を挟んで対に置かれる助手用の背もたれのない椅子に座り、語られる夢の内容を静かな相槌と共に、時折宙にその灰色の三白眼の行き先を求めながらも聞いている。


「…私が、壊れたのかもしれません・・・」

 全て話し終えて少し。

 沈黙を破って発された声に、ケルッツアは一つ、瞬きを送った。

 沈んでいた灰色の瞳に見つめられ、一瞬たじろいだソフィレーナはしかし、茶化すように、だって可笑しいでしょう? と零す。

「今回のことは、たまたま、私の夢と、現実が似通ってしまっただけに過ぎないんだろうと、思うんです。

 いっくら・・・異常な頻度で粗筋の同じ夢を見続けているからといって、そんなことが現実に影響する訳がありません。私が挙動不審になっているのは認めますが、落ちたのは貴方ですし、あれだけ一つの段に本を積んでいたら割れるのも頷けます。

 夢で見たことが現実化する、俗に言う正夢。

 でも、正夢だって、結局は偶然。夢を見ていてその通りに、知らない間に行動していたのなら、或いはその状況を作り出したことにおいて必然だったのかもしれませんけれど。

 決まっていた未来を見る…予知夢は、現実ではほぼ、あり得ません。

 未来を見る預言者を扱った話は伝承に良くありますが、伝承は所詮物語ですから、そこには何らかの意図があり、進ませたい方向がある。結果がまず決まっているから、予知夢の能力も登場人物に与えることができると考えられる。

 だけど、ここは現実。一分一秒、否、もっと細かな単位で、無数に広がる可能性の中から、私たちはそれぞれ一つを選び取っている。

 意識のない物だらけの世界でも未来予測ができないのに、意識のある者の混じった世界は、正に様々な意図が絡み合う織物じゃないですか。織り成される未来の光景は、完全な予測など不可能だと、もう定説のように言われていますし。

 ……だから、先ほどは取り乱しましたが……、へんちくりん、な夢と現実は関わりなんてないんです。…過去に一回見た夢があまりに衝撃的だったから、眠ったときに自動で…出鱈目な頭が、再生を繰り返しているだけ…なんでしょう……。

 一度、調べてもらった方が、いいんでしょうね」

 彼の視界の中で、胸元でカップを押し包む白い手は微かな震えを隠せていなかった。苦笑を象る平均的に見てまあいいだろうという顔の表情は、硬さの支配から脱せずに。勢いをつけ煽ろうとカップを持ち上げ、痛みに呻き歪めた優しげな眉、その下の瞼は窪み薄っすらと影を刻んでいる。二重の瞼も重たげに長い栗色の睫に縁取られた瞳は充血し、目元には化粧の下に隈が酷い。

 思考の渦から浮かび上がったケルッツアは、目の前の憔悴しきったソフィレーナの様子に痛ましげな色を隠し、言葉を発することができないでいた。軽く唇を開き、閉じて、横手をすがめ睨みその灰色の三白眼を褐色の瞼の下に隠す。

 その知恵者の様子に、助手は淋しげな笑みを一つ。

「……やっぱり、無理がありますか・・・・」

 失態を笑うような覇気のなさで自身の論をかき消すと、ゆっくりと、もう温かみもろくにないココアを口に含み、一拍の後嚥下する。

 こく、と動いた白い喉元、その動きを視界に捉えて、ケルッツアは苦く言葉を吐いた。

「…………。

 確認したいことがある。

 諸所の事柄は省くけれど。

 三メートルほどの高さから受け身を取れず落下した僕は、脳を損傷したために、頸動脈を切り裂いて自殺をする。

 その際、君を傍から離す。

 これは、常に変わりがない?」

 尋常でないほどの厳しさと、不可解さを抱えた灰色の三白眼は、真っ直ぐにソフィレーナを捕らえている。

 その瞳に漆黒の影すらないことを認識しながら、助手は静かに、栗色の長い睫を伏せた。

「はい。…いつも」

 彼女から響いた言葉に、彼はゆっくりと一つ瞬きをしてから視線を斜め下手に据え、じゃあ、と言いかけたが。

「…否。

 ごめんね。安静にといわれていたのに…疲れただろう?」

 そう、優しげな笑みで話を切り上げた。

「いえ…意識を繋ぎとめていられましたもの。感謝するのはこっちです」

 気丈を装って返される言葉には苦い笑みが滲んでいる。

 自嘲にも似た嘲りに身を浸しながら、ソフィレーナはもう一口と、カップに残っていたココアを飲み干し、静かな動作で机の上にあるソーサーに戻した。

 見計らっていたかのように、知恵者は腰かけていた椅子から立ち上がると机を迂回してソファーへと近寄る。

「でも、少し眠ったほうがいい。体力が持たない。


 ………………・・・――――眠りなさい」


 そう言って、彼女の横に置かれていた毛布を手に取る上司に、部下は、まるでそれが決まりのように、零れ落ちる雫のような素直さで背を下にしないよう少しクッションなどで工夫してから、ソファーに身を横たえた。肩の辺りまで掛けられる毛布の暖かさと喚起される眠気に栗色の長い睫を緩く伏せ、子を寝かしつけるように撫でられた前髪の感触に、少し舌足らずな発音で彼の名を呼ぶ。

 そして。


「おねがいです……少しの間でいいから、手を、にぎっててください・・・」


 乞う声は懇願の、哀願の様相を呈し、彼と彼女の合間に響いた。

 砂漠を覆う、茜と夜の境界線のような大きく丸い瞳は一対、ケルッツアを緩やかに見つめているが、その瞳に、灰色の三白眼は答えない。否、答えられない。

 判らないことがある場合、情報収集に努めることを愚行とは呼ばない。

「……――分かった・・・」

 彼は、静かに視線を俯かせたまま言葉を噛んで、毛布から出ていた紙のように白い手をそっと握りこむ。握った手の氷のような冷たさに一瞬目を見開き、後は前髪の影、表情を隠してしまった。

 白く色の抜けた指先は、ほんのわずかに褐色の手の甲を撫で、あったかい、と今にも泣きそうな、眠気に侵された音でケルッツアに感謝の言葉を伝える。


「・・・・・・ありがとう、ございます・・・」


 褐色のてのひらの中、白く小さな手は冷たい。てのひらとは裏腹、安堵に緩んだ眦は閉じられ、一つ、大きく息が吐き出される。二度、三度。

 眠りを意識的に排除していた体は、その排除の手を止めればいとも簡単に睡魔の手に落ちる。

 ソフィレーナが完全に眠りに入ったことを見届けた後、ケルッツアは握っていた冷たく白い手を離し、自身の着ている黒いコートを脱いで、毛布に包まれた小さく痩せた体躯に打ちかけた。スラックスのポケットからメモ帳を取り出し、絨毯に胡坐をかいて座り込むとその脚でメモ帳を開いた状態のままキープ。近くにペンを寄せてまた、彼女の手を握る。

 力が抜けたてのひらはいまだ冷たく、彼が両手に包んで温めても、容易と熱を帯びることはなく。


不明瞭なものの情報収集に努めることは、愚かではない。


 目の前で次第と浅くなる呼吸と、苦しげに顰められる眉。その様子を事細かにメモしてゆく。

 情報収集、或いは彼女の休息のためか。

 ケルッツアの意図を汲み、ソフィレーナはそれと知っていながら悪夢に身を任せた。



 懐から取り出しておいた銀の懐中時計は、正確に十分経ったことを知らせている。

 三日もの間、恐怖で一睡すら惜しんでいた上酷く衰弱しきっている体は当分目覚めないと、知恵者は握りこむ白い手に温かさが生まれていることを認識、安らかな呼吸になった助手に、ほっと息をつく。次いでゆっくりと観察記録を見返していった。

 二時三分に寝入った彼女は、表情は穏やかなものの呼吸は速く浅い。二時五分からきっかり二分間苦しみ、呼吸の浅いまま表情だけ和らいで三分後、もっと苦しげな表情での呻きが三分間。

 その計十分を経て、只今二時十三分と少し。今は彼女本来の深い眠りに入っているようで、呼吸も表情も穏やかだった。

 息切れのような浅く早い呼吸は酸素が足りない、又は心情的な要因が絡むため、表情は必然息苦しいものとなることが多い。そのことだけを見ても、限りなく穏やかに息を切らして眠りこける助手の姿は異常だった。穏やかな表情と苦悶の表情が二度繰り返されるそれは、助手の語った二段方式の夢に当てはめて考えることができる。そして十分間に見る脈拍の激しい乱れ。

 以上の観点から、ケルッツアは先ほどの十分間、ソフィレーナが悪夢の只中にいたと割り出した。

 知恵者の観察結果において、助手は悪夢の昼のノルマを一つ消化したことになる。

 残されたノルマは、彼女の言葉を信じるのならば後、日没までに三回。悪夢は段々と尺を伸ばしているという証言に当てはめても、現在の時点で十分の尺に収まっているため、次の悪夢時にいきなり二倍の尺になる可能性は低い。一回に見る悪夢の分数を仮に十分前後としても合計、どれほど多くとも四十分前後。少なくとも季節柄、七時過ぎの日没までは穏やかな時間を過ごせる、と。

 眠る時間が長いほど、助手の体力は回復する。又、現実で起こったことの後にも同じ夢を見続けているならば、現実との関係性における濃淡の判断も出しやすい。

 そして。


「…………」

 安らかな表情を浮かべていた助手の呼吸が、また浅い呼吸に切り替わった。先ほどの悪夢から約五分後ということをメモし、ケルッツアは、まるで彼自身に創傷があるかのような苦悶に表情を歪ませながらも、目を逸らすことなくソフィレーナの様子を、周期性を観察している。そうしていながら、幾つかの疑問点に思考を割いていた。

 ソフィレーナの打ち立てた説は、一見良くできているが彼女自身も認める決定的な穴が存在する。それは、彼女自身も使った再生、という、その一言だった。もし彼女の言うとおり、過去に見た、この場合は三日前、悪夢の始まりに見た夢の内容の衝撃さで似たような夢を見続けているのならば、その夢の内容はあくまでも一回目に見た夢を一字一句、寸分の狂いなくなぞっていなければ可笑しい。

 再生とは、あらかじめ録画してあるものを繰り返す機能しかなく、勝手な編集はされないのが普通である。

 そして彼女は絶対記憶脳、勝手な編集の成されない頭の持ち主だった。

 夢研究における夢の種類の定説は、願望夢と記憶整理の副作用における夢という二種類だが、助手の見る夢の種類には記憶整理のためのものはない。この現在分かっている研究結果に照らし合わせるならば悪夢は助手の願望夢という説が自然と浮上してくる。

 が。それもまた、その衰弱ぶりを見るに彼は確率の高さが見込めないと判断した。零というわけでもなかったが、何より。


悪夢の内容は……そうなった時に僕が取る行動と、あまりに似通っている。


 ケルッツアは観察の手を止めぬまま、自身の内で鋭く研ぎ澄まされる刃に身を置いた。もし、己の脳が損傷し、今のように思考することのできない頭となったときは。


潰す。


人体解剖組の手より速く、首を掻っ切り辺りに血を撒き散らし。蒼き流砂の使徒らしく。

自分の命は、自分の手で握り潰す。


 内に向けて宿る冷たい光をその灰色の瞳に湛え、その際に助手がいたならば死の瞬間は見せない、と。ペンを置き、今握りこんでいる彼女の手にその手を添えて、褐色の色の中で冷たく少し荒れた白い色を、静かに撫で、褐色の中に隠してしまう。


彼女を、傍から離すときには。そして。


 本当に、己が迷いなく選ぶ道がソフィレーナの口から語られたことに、ケルッツアは言い知れぬ奇怪さを抱いている。しかし、彼が彼女にこう行動するというヒントを与えていないとも限らないため、彼女の想像であるという彼自身の懐疑をねじ伏せるにはまだ足りず。

 悪夢に見る二回目の周期は、一回目と同じ変化を辿っていた。時間的に見てもうすぐ終わる三度目の周期も、一度と二度を寸分の違いなくなぞっている。一秒のずれもなく。尺も、見目では延びていない。それもまた、おかしなことだった。

 助手が妄言を吐いている、その可能性も零ではなかったが、現実での奇行と焦燥、衰弱加減を見るに限りなく数値は低い。

 何よりも。

 悪夢の正確な周期性は観察するのには適していても、不気味以外の何物でもなかった。


大体、ほとんど舞台設定も粗筋も変わりがないのに、細部だけが違う夢を数日……。

半強制的に見るなんて、そんなことが起こりうるのか?


 それにしても助手の衰弱は一体どこから来ているのか。呼吸の浅さによる慢性的な酸欠、いつ夢を見るか分からないという不安、など、幾つか浮かび上がる説にも釈然としないまま、四度目の周期に入った彼女を見つめる彼の眉は顰められるばかり。

 見えない、分からない、と思いながらも。


 背の皮が粟立つような嫌な感覚に苛まれている。


 時計は、三時に差し掛かるか否か。思考の堂々巡りを繰り返す知恵者に見守られ、助手は昼のノルマである悪夢からやっと解放、四度目の周期を終えようとしていた。

 後一分苦しめば悪夢から解放されるはず、と。彼が疲れた顔色で彼女の顔を窺ったとき。


 ざら、と。


 涙で濡れた頬が、突如砂のように崩れ落ちた。


「!?」

 目の錯覚か、幾度も擦り瞬く視界の中、崩れた砂の塊は消えることがない。

 握りこむ手の中も、ざらりと砂の感触が肌を舐め、指の隙間から零れ落ちてゆく。

「ソフィ! ?!」

 思わず伸びた褐色の手の中、白い頬は涙に濡れてそこにある。恐る恐る撫で辿ると、その柔らかさと集まる熱が鮮明。荒れている肌は、それでも砂のように弾力がないわけではなく、当然のことながら欠けてもいない。

 てのひらの中の手も温度こそ冷たいが、砂のように崩れてはいなかった。


第一、欠ければ凍結でもしていない限り血液が溢れ出す。


 自然、速くなる呼吸を平静で叩き抑えつつ、ケルッツアは彼女の涙を白い上着の袖で拭ってゆく。観察対象、否、実験対象への干渉は好ましくないが、それも期間を過ぎてしまえば関係のない話とばかり、ぽろぽろと零れ落ちてゆく涙を、袖の先が濡れるのも構わず拭い続ける。

 呼吸はいまだ速く、詰まったように涙の音をぐずらせ苦しげだった。

「ぼくっ・・・・・・…。

 ・・・・・・僕は、ここにいる。死んでなんかない」

 眠りながらも、否、体が眠りを必要としているために起きることのできない状態で泣きぐずるソフィレーナの様子に、思わずケルッツアは声を出し、逡巡の後、きちんとした言葉を発する。二度三度同じ言葉を繰り返すと、歪められていた顔はゆっくりと落ち着きを取り戻し、呼吸も楽になっていった。

 緩やかな呼吸に入った彼女はそのまま休息のための睡眠に入ったようで睫の先さえ震わせず、さらに疲れたような顔で眠っている。

 眠る子供の温かさで熱を帯びてゆく白いてのひら。褐色の少し骨ばった手はその温かみをそっと毛布の中に仕舞い込み、彼は、彼女の涙が止まったことを確認、展望部屋から離れて自身の私室へと急いだ。


『ねえ―リ―ス君。どうして…の世界では、……に、ルールがあるの?』

『どくたー・ケルッツア・・・、うんと、くうかんが……から、こちらの……つはむこうでは鎖がついてしまうんだと、思う』

『じゃあ、鎖がルールって事になるのか。……でも、どうして………でも使えるんだろう?』

『それは・・・。―ル、言っていいのかな?』

『ごじんは、この知しきを………では話せないから、だいじょうぶ。

 わたしは………でも…―――が使える事も知らなかった・・・。おまえはわたしより―――――にくわしい。ぜひ、わたしもききたいな』

『ぼくは、このくらいしか…とりえが、ないから…・・・、前にね、エ―も・・・・・・』


 見目の良く整った、左右対称の幼い顔は一対彼を挟んで興味深げに話している。古い古い夢のような曖昧さの、しかし確かに体験した時間が彼の中で騒ぎたてていた。


もし、今助手を襲っている悪夢の周期性が、"鎖"なのだとしたら。


 一つの、出鱈目だがなくはない可能性を胸に、ケルッツアは隠し通路の闇を突き進んで行く。



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― 新着の感想 ―
原因が分かったようで少し安心したけど ソフィーが手遅れにならないよに祈る(*>人<)
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