ロテイ
3
アノヒトハ、死ンデシマッタ。
白で統一された室内。磨りガラスの開けられた窓辺の白い椅子の上、雪のように真っ白なヴェールを風に遊ばせてソフィレーナは座っていた。風はその胸元まで波打つ栗色の髪を微かに揺らし、その頬を撫でてゆく。かつて書籍に掛けられることの多かった手は日に当たらないためか、飛びぬけた白さはなくとも青白く、細かった。
彼女は、白いヴェールに隠れた頬を、時折そっと触ることがある。
一つとして忘れることのない頭は、知恵者の死の間際の記憶を鮮明に再生させる。幾度思い返しても、あたかも今与えられているかのような感覚は確実に、鮮明に彼女を壊していった。
記憶が優しければ優しいほど、温かければ温かいほど、後に来る事実の残酷さを浮き彫りにし、何倍にも高める効能となりうる。シーソーのように。高く早く上った片端が、その分深く早く落ちて行くのと同じように。
栗色の髪を少し退けて、褐色の指先が彼女のこめかみに添えられる。頬を包む温かさ。鉄の匂いを含んだ赤が付いていても、その手はひたすらに温かく、優しい。
褐色の肌、聡明で少し勝気な眉。途中でひしゃげている高い鼻。涼しげな灰色の三白眼は優しく、少しだけ寂しそうな、或いはもう少し強い惜しそうな色を宿して彼女を見ている。
その唇が。
イツモ
『ごめんね』
その言葉の真意は、イツモ、彼の生きている時には、気ヅケナイ。
ゆら、ゆらと、水底から響く泡のように揺らめき判別のつかない音を、彼女の聴覚は拾い取っていた。それは今風と遊んでいる木々の、梢の奏でる音だろうか、母の淹れてくれるお茶の注がれる音だろうか。いずれにせよソフィレーナには大した差に思えない。視界には何が映るのか、先ほどは何をインプットされたか、それすらも判別をつけることさえ億劫。先日、知っている声が私に話しかけたかもしれなかったけれど、その声の中に、アノヒトの声は永遠にない。
どこへいってしまったの。
まっかなあかにそまって死んでしまったよ。
彼の大好きな温かいコートはあかいあかいちにまみれて。
ああ、ねぇ・・・?
このゆめは、いつ
さめ、る
の?
「おーいソフィレーナ姫ー? ひーめー?
お気は確かかねー?
おーきーてーるーかぁー?」
遠く、水底から響いていた声が急に近づき、同時にばこん、と衝撃。
常日頃そこだけは唯一褒められる美しい栗色の短髪が乱れる感覚。視界に飛び込んでくるのは、少しゆがんだ輪郭の本棚下段部五棚分と横に転がる、恐らく頭上から落とされたであろう青い本型の『ライラライラ』、その青を包み込む深い毛足の、春の野辺に咲く花のような明るい黄色の絨毯だった。
黄色い絨毯は第六図書館専用。
思い出した途端、彼女は一瞬にして今までの記憶に襲われる。ここは第六図書館。朝一で知恵者に出張を言い渡され、ただひたすら書籍の目録確認に追われて。ああ、そういえば少し前に終了の声を掛けられた。
でも、今いる場所は、第六図書館rの棚の前・・・。
は、と顔を上げればそこには案の定、先ほどの声の主にして彼女の頭の上から物を落としたであろう人物、第六図書館長、ラナシルア・ド・パートマンドが鋭い光を宿して尚茶目っ気のある目元、皺だらけの顔を好奇と呆れに歪ませている。
ここは、現実。
さめ
た・・・
ここは最上階禁書庫でもなければ彼女の家の白で統一された部屋でもない。咄嗟彼女が項に手をやれば晒された肌の感覚は鮮明に首と掌に伝わる。髪は項が良く見えるほど刈り込まれて胸元に揺れているはずもなく、禁書庫は血の海になどなっていない。蒼く奇麗な絨毯はそのまま。知恵者が三脚から落ちる騒ぎなど現実では記憶もない。第一、今頃あのひとは展望部屋で伸びているはず。と。
だって、今朝定期論文を出したばかりだもの。
出張の要請も毛布を被りしまいに行われ、私室に帰らなくていいのかと彼女が問うたときはすでに夢の中。
自殺など、しているわけが
「ひーめー?」
ばこ、と二つ目の衝撃が彼女を襲った。足元に黄色の『ライラライラ』の落ちる音が間抜けに響く。彼女がいつの間にか下げていた視界を上へと向ければ、さらに苦い顔をしたラナシルアが残り一つ、赤の『ライラライラ』を構えている。
「…ぁ・・・・・・・・・」
ソフィレーナは涙でかすむ視界を瞬かせ、厭に乾いた口内から音とも付かぬ息を吐き出し。
はい、夏みかん決定、という声と共に三回目の衝撃を受けた。
ラナシルアは今まで寄りかかっていたrの本棚から肩を離すと、その深い緑の瞳を片目だけ瞑って、お目覚めかねソフィレーナ姫、と皮肉たっぷりに言葉をかける。
「終了の声を掛けてから十分。一睡にしては随分と長い眠りだったようですなぁ姫君。
出張のお礼に甘ぁいメロンをディス・ファーンの分も持たせてやろうと思ったんだが、亜奴にメロンは勿体なさすぎる。
姫もまあ。
酸っぱい夏みかんでも食べて! 目ぇ覚ましなさいッ!」
そして、彼の足元、バスケットに入った夏みかんを三つ力強く手渡すと、三個の『ライラライラ』を回収し、夏みかんを受け取ったまままた固まっているソフィレーナに気付くことなく去っていった。
なつ、みかん・・・
鮮ヤカナ黄色ハモット赤ク生々シイ紅ニ。
瞬時、頭の中に浮かんだ鮮紅色を振り切るように首を振って短髪を乱し、落ち着く。
『ライラライラ』は第六図書館長ラナシルア・ド・パートマンド専用の本型居眠り矯正道具であり、誕生は彼の教授時代に遡るらしい。寝ている生徒の頭上から落とすことだけを目的として製作、表紙は赤、青、黄色の三色で中身は空洞。本型なだけであって本ではない。しかし、落とされると結構痛い。
そんなことに思考を割いてじんじんと痛む頭のてっぺんを摩り、先ほどの対応における自身の情けなさに呆れている。
そして、一体己がどうしてしまったのか、そのことに頭を抱えたい気分に陥った。
この国の定説で、寝ている間に見る夢は、主に二種類あると信じられている。
一つは記憶整理のための夢。脳の記憶選別は眠る間に行われ、その選別の際できあがる映像を夢として見ているというものである。一貫した舞台設定がないことが多く、隣にいた者が母親だった筈が、いつの間にか友人に代わっている、などということも起こりうる種類のものと考えられている。
二つ目は、己の願望。こちらも舞台設定は滅茶苦茶になりがちだが、常日頃思っていることが叶う内容の夢である。これは、叶えば正夢、叶わなければ妄想と認識されやすい。
そして、見たもの聞いたものを忘れることがないという絶対記憶脳を有するソフィレーナは、記憶整理のための夢というものを見ない、との研究結果が出されている人間だった。人間である以上多少の誤作動はある、というのは人情といえようが、彼女に限って言えば幼い頃の、そして今も続けられている定期検査の結果も、誤作動を起こす可能性の限りない低さを叩き出している。
彼女が良く覚えていないとき、それは記憶映像自体がぶれて映されているだけであり、それ以外のことはまるで劣化のない動画のように、事実彼女は覚えていた。そもそも記憶を切ったり貼ったり増したり減らしたりしないその頭に、いる記憶もいらない記憶もなく、そのため、整理のための圧縮の副作用的な夢というものは見ない、これが纏められた研究結果の今も昔も変わらぬ成果であり、おそらく未来永劫変わることがないと認識されている事柄である。
そんな己が、ここ三日と半日、全く同じ舞台設定で始まって、所々の差異はあるものの結果的には全く同じ結論で終わる夢ばかりを見ている。さらに、その内容というのが。
どうして・・・あのひとが自殺する夢ばかり・・・・・・・・・。
赤く染まる禁書庫。
赤く染まる知恵者お気に入りのコートに、その下に着ているラフな白い上着。
ぱっくりと斜めに裂けた左側の首筋。
そこから流れ出る、生々しく、あかい。
辿り着く過程は様々異なるが、知恵者が自殺する経緯も、そのやり方も全く同一の夢ばかりを、幾度も幾度も、この三日間で先ほどの一睡も合わせて合計三十二回、ソフィレーナは見続けていた。
己の見る夢は願望、との、半ば確信すら抱いている彼女自身、そんなことを願望に掲げているのか、間違いなく首を、頭蓋骨を支える骨が折れても左右に振り続けることを止めないくらい否定する内容の夢を現に見続けている異常さに、ほとほと参り、疲れ果てている。
さらに悪いことには。
ソフィレーナは、言い尽くせぬ疲労と絶望を多分に滲ませた眦から溢れてくる涙を、こげ茶色のスラックスのポケットから取り出した涼しげな色のハンカチで拭い取った。左腕で胸元に抱え込まれて在る貰った夏みかんの冷たさは彼女の背筋を冷気に晒してはいたが、それでも彼女はまた平静を保っていられる。なぜならば。
ここは、夢の中じゃない。
その確固たる確信に、体の全神経が途切れたかのよう。思わずrの棚に寄りかかり、そのまま、しかし日頃の習慣か誰もいないことを視界の隅で確認の後、ソフィレーナは黄色の深い絨毯に座り込み、膝を抱えこむ。
彼女の見る夢には、必ず三つの規則がある。幸か不幸か三十二回も見続けた夢を分析、彼女はその規則性で辛うじて夢と現実の区別を付けていた。
一つ、夢は必ず二回の繰り返しで終わること。
二つ、夢の中ではそのルールと、過去にその悪夢を見ているとは明確に覚えていないこと。
三つ、そしてそのときの夢の中で、一回目の夢を良く覚えていないこと。
以上の三つに当てはめるのならば、今は二回の繰り返しから目覚めたばかりで繰り返して夢を見た、という記憶が彼女の内に鮮明に一つの違いもなく残っているため、ここが夢でないことが立証されている。
あれが、夢。
思わず深く息を吐き出すと、長い睫の間からとめどなく涙があふれて止まらなくなる。ソフィレーナは慌ててハンカチで垂れ落ちる涙をふき取ったが、ふき取りきれなかったものは胸元部分に染み込みベストの茶色をこげ茶にしていった。その染みが酷く情けなく、悲しくて、彼女は背を本棚に預け、こげ茶色のスラックスに包まれた膝を上に曲げた格好で高い第六図書館の天井に目を移す。
彼女の丁度臍の辺りには、夏みかんの鮮やかな、冷たい黄色が三つ転がっている。それは、夢の中でいつも第六図書館長に渡されるそれと同じ冷たさを有しており、正直ソフィレーナには辛かった。
しかし、ここは夢の中ではない。
ラナシルア館長と夏みかんに罪はないのだけど、と鼻をすすり苦しい息を吐き出して、彼女は一際酷くなった視界のぼやけをまたハンカチで乱暴に擦る。化粧の崩れを心配、ポケットの鏡を探りだし、幸いにして鏡の中の目元に縁取ったかのような酷い度合いの隈を見受けることができない、まだ隠せていることを確認、ほっと、息を吐いた。
栗色の長い睫に縁取られた丸く大きな一対の瞳、濃い紫に下のほうから淡く栗色のけむる彼女の家独特の虹彩を宿した目は赤みを帯び充血してはいるものの、目薬が効いたのか、研究が忙しくて、と誤魔化すことのできる範疇にいまだ抑えられている。
もう一度念のためと目薬をさした後、この三日間、ほとんど寝てない、ほとんど、一睡すら恐れているためか鉛が仕込まれているかのように重い体を無理にでも持ち上げ、いつまでもここにいる訳にも行かないと、腕の時計を確認後、ソフィレーナは第六図書館を後にした。
夏場でも変わることなく付けている硬い胸当てを少しでも楽になろうと緩めている結果、いつもよりは膨らみの目立つ胸元に三つの夏みかんを抱え込んで、職員専用石畳階段の雑多と物の置かれている段を軽快とはいかなかったが、上っていく。
寝不足でふらつく足元を叱咤し薄暗く静かな石畳階段を一段、二段と。
そうしていながら、ソフィレーナはいつまた悪夢の一睡に襲われるのか、心の底から恐れていた。唇は無意識にこわばり、少し青白く変色している。化粧を施してはいるものの、良く見るとやつれと眼窩の窪みは、その平均的に見てまあいい顔に影を落としていた。
悪夢が、ただの悪夢ならば彼女とてこれほど恐れはしない。知恵者の死ぬその内容は、正に彼女にとっては悪夢以外の何物でもないが、それでも、三日でやつれる程の怖さでは。
しかし。
回数・・・着実に増えてる。
彼女は、始まりの夜には二回、悪夢に目覚めて寝付いた後にまた同じ夢を見たことを思い出していた。なんでこんな気色悪い夢を見るのだろう。いぶかしみながらも、少し早めに出勤し、その日の夕までに一回、悪夢にうなされている。
これを一日分と考えて周期を巡らせていくと、その夜には四回、明けて三回で二日。その夜には六回に膨れ上がり、明けて五回で三日。その日の夜に八回見、先ほど三回目。
昼は奇数で増えてゆくのだから、周期で言えば七回、つまり夜までに後四回見る計算になる。
これだけでも最悪だといえる異常さであるにも拘らず、悪夢にはさらなる、段々目覚める時間が遅くなっている、という全くいらないおまけがついた。知恵者の、彼女の最も尊敬し陶酔している者の死、自殺という出来事は変わらないが、その後の尺がどんどんと延びている。
比例するように、夢は鮮明さを、そこがあたかも現実であるかのようにリアルさをも増していた。夏みかんを入れて持ち運ぶバスケットの、その乾燥した植物の蔓を編み、ニスを施した柄の感触も、触る書籍の感覚も、薄い茶色で統一された木製の三脚の脚、そこを流れる赤い液体の匂いも、質感も何もかも。
一度目よりは二度目、二度目よりは三度目、と度を増して尺は長くなり、当初はあった夢独特の浮いたような感覚も消え去り、規則を見つけられなければ現実との差異などないかのように、まるで成長しているかのように酷さを増していく。
彼女の嫌悪する物は全て増して行くばかりと言っても過言などではなく、むしろそれが事実だった。
目・・・覚めないかと・・・…。
今度こそは。
先ほどの夢をまた思い出しそうになり、彼女は無闇に片手で頭を殴りつける。鼻腔を撫でる鉄の苦いにおいと赤さにどうにか封をして、ただただ夢の記憶を思い出さないようにと石畳階段を上る速度ばかり上げていった。急ぎすぎてつんのめりそうになる回数は両手を超えていたが、転ぶことだけは避け。
そんなことをしても、否、そんな努力をしているからだろうか。
悪夢に対する嫌悪感や恐怖は、彼女の中でどんどんと膨れ上がって行く。
後、日没までに四回見なければ時は過ぎない。
その事柄は確実に、ソフィレーナの精神を蝕んでいた。
こみ上げる吐き気を無理やりに嚥下し、いつの間にかたどり着いていた最上階禁書庫入り口、強大な大きさの白く塗られた鉄の扉を、肩を使って押し開け。
ふと。
ここから先、いつも夢であのひとに声をかけられている。
そんなことを思い、その先に足を踏み出すことができなくなる。ざわ、と体中の産毛が総毛立つ感覚は急速な速さで勢いを増して彼女を覆い尽くした。もし、この先で三脚に上った知恵者に声を掛けられたら。その思考は彼女の、立っているだけの、重力に抗うだけの力さえ簡単に奪い去ってゆく。強大な鉄の扉に寄りかかり、ほとんどの体重をその冷たさに預けて、彼女は震えの止まらない体をどうにか落ち着けようと幾度か深呼吸を繰り返した。ここは夢の中ではないのだ、そんなこと起こりうるはずがない。第一。
…あのひとは朝寝入ったばかりだから、そんな短期間で起きてくるはずがないわ。大丈夫。ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、展望部屋で寝こけている。
また、毛布蹴っ飛ばして。やだ、ソファーの下に落ちてなければいいけれど。
崩れそうな精神を何とか繋ぎとめ、彼女は扉の隙間から身を滑り込ませて禁書庫の蒼い絨毯に足を踏み入れた。扉の閉まる音を背後に、知恵者がいるであろう、いるはずである、否、いなければいけない展望部屋へと足を踏み出し。
「あ、おかえり助手君! その夏みかんはティーチャー・ラナシルアから?」
夢と同じく、高いところから響いた彼の声に呼び止められる。
そのときの彼女を襲ったのは、恐怖でもなく、嘔吐感でもなく。
なん、で?
純粋な疑問だった。
ついで、血流が逆に流れたかのような、点滴の針が血管以外に差し込まれたときの嘔吐感にも似た悪寒が、瞬時にして彼女を飲み込む。思わず片手を口元にやってしまうほど、嫌悪と怖気が酷かった。大きく見開いてしまった眦の感覚。視界いっぱいに映る蒼く深い毛足の絨毯に転がり落ちた黄色が一つ、二つ。瞳の動揺を押し隠そうと幾度か瞬きを繰り返すものの、俯き気味になった姿勢はまるで石になったように容易と戻せない。
どうしてこのひとがこんなところにいるの?
彼女の思惑など知る由もなく、少し非難の色が混ざった、上機嫌な声がソフィレーナに掛けられた。
「ああ、駄目じゃないか食べ物を落としちゃあ・・・。 どうしたの? 何かにコケでもした?」
その声に体の呪縛が解ける。夏みかんになど構っている余裕はなかった。
急いで夢の中で知恵者のいる箇所辺りに目をやるとそこには黒い塊、もとい灰色の短髪を傾げた格好で本棚の横板部分にへばりついて彼女を見ている彼の姿がある。
夢ではあなた、そこから、落ち。
痛いほどに早くなる鼓動の音が、さらに彼女の動揺を水増しさせてゆく。急速に乾いてゆく感覚の拭えない口内から、彼女はそれでも声を出した。
「あ、た、…ただいま戻りました。
ケルッツア・ド・ディス・ファーン、どう、して・・・そんな所に昇っているん、です?」
言葉は滑らかに続かず、窺うように知恵者を見つめる彼の助手の背には汗が滲み、心拍の音は早鐘をより速めて嫌な痛ささえ訴えている。手足といわず、体中の体温が短期間のうちに奪われてゆく圧倒的な悪寒、寒気に彼女は今にも崩れそうな膝を叱りつけ、彼のいる、三脚の下へと歩き出した。
「え? ああ、生物分野でね、面白い論文があって。
関連している書物がここにあったはずなんだけど、どれだっけ、えっと…」
彼女の上司にしてこの国随一の知恵者、ワイズレッテッティス・リンズ・ケルッツア・ド・ディス・ファーンは助手の気など知らず、上機嫌に、かつて異世界に行く前の馬鹿でかい背に合わせて作ってある三脚の下から八段目、床から三メートルほど高い場所で足をぶらつかせ、左右に沢山の書籍の山を積んだその間に座り込んでいる。三脚の下にも、幾つかすでに書籍の塔ができあがり。
その書籍の山が、知恵者を鮮血に染める舞台設定のように思えて、思わずと彼女は自身でも驚くような声を出した。
「下りてください!!!」
視界の中には驚いたような顔で持っていた本を取り落とす知恵者の姿。彼女を見たままその褐色の顔にぽっかりと口内の闇を見せ、涼しげな灰色の三白眼は遠目から見ても大きく見開かれていた。
やってしまった、と失態を恥じる間もなく、ソフィレーナは取り繕うように、反論の隙を与えないように少々早口で言葉を続けてゆく。
「…わ私、が、探しましょう!
ドクターは、この間論文を提出されたばかりじゃあありませんか! 今朝あのお気に入りのソファーで伸びてらっしゃったのですものお疲れのはずです!
私に任せて!
て…、展望部屋ででもお待ちくださいな!」
寝不足で落ちでもしたら大事です。下に示しも付きません。いつもの調子を装いつつ軽口に、しかし必死に知恵者を三脚から下ろそうと試みる。
しかし、やりすぎたか、失言でもあったのか。愛想良く振舞う助手に、それを上から見ている知恵者は瞬時上機嫌だった表情を消し、彼女のいる側とは反対側、丁度三脚の背に顔を背けてしまった。
「どう、したんです?」
助手が内心怯えつつも問うと、なんでもない、と目を瞑って、膝から下の脚を少々乱暴にぶらつかせ。
「それより夏みかん拾わなくていいのかね?
それから、あれは酸っぱくていけない。君さ、前に砂糖漬けにして持ってきてくれたろう?
あれまた作ってよ。」
にっこりとそんなことを要求してくる。
そんな知恵者の明らかに何かを誤魔化した態度にも、彼女の足裏から背へと這い上がりその膝を、体を震えさせる悪寒は衰えることなく。
何としてでも、あの結末だけは避けなければ。
電話が、見せたいものが、一緒にお茶しましょう。巡る頭は幾つかの案を浮上させたが、どうも今ひとつ決め手が見つからず上手くいくとも思えない。結局彼女は素直に知恵者に懇願する道を取ったが、それも大した効力にはならないだろうことは分かっていた。なので。
「あ、ええ、分かりました。
それは分かりましたが…お願いです。そこから降りてください!!」
自身の邪魔にならない場所、丁度三脚の横手から三脚の脚に手を掛けて、その褐色の顔、良く見えはしない灰色の瞳に訴えかける。
「・・・・・・・・どうして。」
しかし、と言おうか、案の定といおうか。上から響く声はどこか不満げに助手を責めた。
いつもの彼女の夢同様、知恵者は下りるそぶりですら見せず、その場に居座る。そして、彼女が何か言葉を発する前に、だいたい、と少し大きく、尊大な声で、内心それどころでない助手に。
「一体全体どうしたって言うんだ。
ねえソフィーレンス君。何で僕の調べ物を僕がしちゃいけないのかね。
大体いっくら寝不足だって言ったってね。
何年この三脚使って過ごしてきたと思っているんだ。落ちるだなんてそんなヘマす、
ッ!?」
黒いコートに包まれた体が奇妙に傾げる。木製の棚が軋み割れる音が容赦なく響き渡り。
落下する書物。
黒イ塊ガばらんすヲ崩シテ。
上に書物を載せていたためか、木製の三脚、知恵者のいる段は軋む音を立て、割れた。
その光景を目の当たりにした彼女の頭に、彼女が許可を出したわけではないのに酷く早い再生で映像が流れてゆく。頬をゆっくりと伝っていった褐色の掌頬についた血を拭少し痛いコートの袖口淋しげ笑み甘えるように眦細。吐き気。むせ返るような鉄の赤に塗れて黒い塊膝付前のめりに崩れ灰色髪を赤黒く動か。刃物の。アカク。
まっかなあかにそまって。
モウドコニモ
それはいやだといっているの!!!
彼女は、そんな結末を望まない。夢で知恵者の落ちる軌道は重力に素直に従った箇所だった。ぐにゃりとその軌道が曲がったことはなく。
ここは夢の中ではなかった。
なので。
フラッシュバックする幾枚もの夢の欠片の中で、何度も何度も、夢の中では踏み出なかった足を、手を、ソフィレーナは悲鳴の代わりに動かし、突き出した。
相手に行動を求めるから悪いのであって、自分が動く分には支障はないはず、と。
「ッ!? どきッ!!!」
落ちつつも上体を捻り受身を取ろうとした知恵者が気付いて避けようとしたが、そこまで時間はない。
彼女は、どうなったって構わなかった。
下で受け止める体勢を取った助手へと落ちて行く。
知恵者が自殺を覚悟するのは、床に受け止めるクッションが無かったからに相違ない。
黒い塊を受け止めた途端、体の腑の押し潰されそうな感覚がソフィレーナを襲う。あまりの衝撃に彼女の足は立っていることを放棄し、後ろ側へと重力を移行させることを勝手に選んだ。空に体が浮き、すぐに本棚の、並ぶ本の背表紙に荒く受け止められる。後ろから肺の、胃の圧迫される感覚に、口内から鋭い空気がポンプの要領で吐き出された。
どさどさと書籍の落ちる重い音。立ち込める土煙にも似た埃の乱舞。三脚の狭間に無残にして積みあがった書籍はその所々のページに酷い折り目をつけ、ぐしゃぐしゃになって積み重なる。
苦しい呼吸。ぐずぐずで、もうどうにも動かせないのではないかと思うほど圧力の加えられた体。それでも。
ソフィレーナは、ケルッツアを離さない。
彼女の腕の中で瞬時受身の体勢を解いた知恵者は、己を抱きとめたままぐったりとしている助手を見、血相を変え。
「なんて無茶なことをッ!!!
ソフィーレンス君!? ソフィーレンス君!! 大丈夫かッ! 、
!?」
虚ろにその青白い顔を向けた彼女に、抱き寄せられた。
「・・・よか・・・った・・・ぶじ、ですね・・・・・・」
深い息と共に吐き出された言葉は、ケルッツアの首筋と灰色の髪に消えてゆく。褐色の、灰色の髪が掛かるか掛からないかの肌が露出した首裏にはやわらかな掌の感触があった。指先は少し冷たいか。まるで子供を労わるかのように幾度も、ゆっくりと後頭部を撫でている彼女の顔は、彼の右肩口に押し付けられている。
よかった。よかった、と。くぐもるその音は次第水気を含み、服越しに接する小さく細い肩は小刻みな震えを隠せない。
「・・・・・・……。」
ケルッツアは、しばらく無言で彼女の腕の中におさまっていたが、ソフィレーナの零す音が安堵から嗚咽に変わった頃、そして、彼を抱きしめるよりは、彼に縋りつくという表現が相応しくなった頃に、褐色の手をその栗色の頭に沿わせ、ゆっくりと、撫ではじめた。世間一般で美しさの認められている柔らかなはずの栗色の髪に指を沈ませると、ぱさぱさと艶も弾力もない感触が見目で確認するより如実。見事な栗色の色素など場所によっては色を無残に薄め、中には白髪といっていいものすらある。
その、明らかと酷く疲弊しているときの反応を示す助手へと、知恵者は不可解さと、少しの悲しさを混ぜたような声で語りかける。
「僕は、今月はとっても早く論をまとめることができたんだ。不摂生だって、君の許す三日以内で収まっただろう?
三日前はとてもはしゃいでいたじゃないか。少し前にあった大々的な遺跡の調査から帰ってきたばかりで、……ちょっと羨ましいぐらい楽しそうに・・・」
ケルッツアが論文執筆に入る前、ソフィレーナはいつになく興奮して、沢山珍しい菌糸が採取できた、と浮かれ調子。自身の研究と溜まった図書館業務と助手としての業務の合間に夏みかんの砂糖漬けまで作ってくるほど、有体に言えば体力も余っており、元気だった。
彼自身は論文執筆に入ると正にお篭り状態、助手とも顔を合わせない日などざらになる。そしてこの三日間、つまり昨日まで、助手の用意してくれた物が減っているか増えているだけが生存を確認する方法であるほど、いつものように私室に篭っており、四日目、今日の朝一で定期論文を郵送。
展望部屋で眠る前に三日、実質四日ぶりに見た助手のやつれっぷりに驚きはしたもののこれまた三日ぶりに入った毛布の魔力に勝てず、就寝し。
ソファーから落ちて、短時間ながらも目は覚めたとばかりに、一緒に落ちた論文雑誌を漁り疑問点があったので禁書庫を探っていたら。
彼にとって、助手の取る態度は分からないことだらけ。自身が落ちる可能性を多分に怖がっている理由も知らなければ、彼女が明らかに衰弱している原因も分からない。
今や形勢逆転、ケルッツアの腕の中で静かに泣きじゃくるソフィレーナに、彼は疑問符を伝えるに至った。
「……一体、この三日間で何があったって言うの。
僕は今体が空いている。――――教えて貰えるかね? そふぃ、れーなさん・・・」




