マガゴト
自死、流血表現があります。
暗闇の中に翡翠の光沢を持って美しくなびく。
あれは、しろ・・・い――…………。
1
「お疲れさまソフィーレンス君。ところでさ、そのバスケットは何かね?」
第六図書館に出向いていた知恵者の助手は、その帰り道、最上階禁書庫出入り口の白く塗られた鉄扉前でよく聞きなれた声に呼び止められた。
「ラナシルア館長から夏みかんを頂いたんです。丁度これから昼休みでしょう? ご一緒しようと思っているのですけど…
……近くにいますね?」
第六図書館に出かけるときには下げていなかったバスケットを気にしている発言から、相手には自分の姿が見えている、と。
知恵者の助手を務めるこの国唯一の皇家ダリル家末姫、ソフィレーナ・ド・ダリルは考えた。容姿の中で唯一手放しに褒められる美しい、項まで見えるほど切り込み刈り込まれた栗色の短髪と、右腕に下げたバスケットを揺らして辺りを見る。奥に向かって幾重にも連なる本棚の列から大きな三脚の足らしき物を発見、そちらに寄ってゆく。
同時に、正解、と穏やかに、国立図書館総館長にしてこの国随一の知恵者である声帯的には男の子の声が彼女に掛けられた。
「分子力学のことが気になってね。ちょっと漁ってたんだ。」
ソフィレーナはその特徴的な、一等上質の紫水晶の濃さに、下のほうから薄く栗色の香る円らな瞳を三脚に沿ってあげてゆく。
馬鹿でかい本棚の三分の一ほど辺り、三メートルに届くか否かの高さにへばり付いている黒い物体、否、上半身を本棚からはみ出した体勢を取る黒く裾の長いコートを着た齢十四歳くらいの男の子がいた。灰色の短髪にこの国生まれにはまずない褐色の顔、髪と同色の涼しげな三白眼を一対楽しげに細めて彼女を手招いている。
「おいでソフィーレンス君。下に積み上げてある本を展望部屋に運んで欲しい。
…それからティーチャー・ラナシルアの厚意に与ろう。…そのくらいの時間は取れると思うから。」
今度の論文の標的は分子力学か、と。彼女はその小柄な痩せ気味の体躯、今は季節柄両袖部分をひじの辺りまで捲り上げた白いワイシャツ、茶系統のベストとスラックスに黒の革靴という助手職の正装、栗色の短髪と相まって少年のようにも見える格好で三脚の傍に近寄って行く。馬鹿でかい本棚に合わせた、これまた馬鹿でかい三脚の周辺に無造作に積み上げられた本が合計三十冊余り、幾つかの塔を成していた。
男性のような格好をしていても、彼女を縁取る輪郭は細く、どことなく柔らかい。十二分に性別は間違えられないだろうその背を丸め、彼女が積み上がった書籍に手を掛けようとすると、待って、という声とほぼ同時、上から乱暴な音を立てて本がまた一つ積み上げられた。
その本と、慌てて引っ込めた彼よりは格段に白い手を見比べ、助手はやおら知恵者を見上げて優しげな栗色の眉を少し歪める。
「……それは構わないんですが、ドクター。あんまり書籍を乱暴に扱ってると、
…第五図書館長にまた怒られますよ? 危ないですし。」
対する知恵者は気まずそうに視線を明後日の方へ外し、しかし第二陣らしきものを構えてどこに落とそうか見計らっている。
「あー……。シャリアーヌ女史は・・・本が好きだからねぇ・・・・・・。」
反省の色が全く見られない知恵者に、助手はこめかみの痛みで引きつる顔を幾許上品に整え、言葉の最後の方は一つ音を上げ。
「ええ。この禁書庫の窓も、涙を流して反対なさったそうじゃありませんか。
……ワイズレッテッティスともあろう方が夫を投げ落としていた、なんてことを書籍の花嫁が知ったら。
まあ! 考えるだけで恐ろしいですわね。プロフェッサー・ワイズ?
ただでさえ禁書庫に収める書籍の期間が短くなっているっていうのに、数まで減らされたりするかもしれませんね。
そうなってしまったら読みたい本も読めないし、知りたいことも、ああ今度からは地下倉庫に行かなくちゃ調べられなくなるのかしら。 ……まあまあ、さぞや大変でしょうねぇ?
ねえプロフェッサー・ワイズレッテッティス?」
高らかに、まるで歌い上げるようにうそぶく下からの声に、知恵者は書籍を落とそうと構えていた手を止め、書籍を三脚の自身のいる段に置きなおすと、軽く後頭部を掻いた。
ため息をつくかと思いきや、代わりに肩と声を落とす。
「……いじわる。
分かったよ。気をつける。……さっき指でも挟みそうになったの?」
情けない声で問う上司に、部下はにっこりと勝ち誇った笑みを向けた。
「ええ、危うく。・・・分かってくだされば宜しいんです。
にしてもケルッツア・ド・ディス・ファーン。気をつけてくださいね?
私は慣れているからいいけど、落ちたら怪我だけじゃ済まない高さですよそこ。
大体欲しい書籍があるときは言ってくだされば…。」
助手が、満面の笑みを急に心配に崩したことが、一体彼の何に触れたのか。
見上げるソフィレーナの視界、ケルッツアはきょと、とした後、大丈夫だよ、と厭に晴れやかな笑みを浮かべ、本棚の真ん中辺り、丁度三脚の端から精一杯腕を伸ばして届くか否かの場所にある本を取ろうとする。
「ほら、こんなことしたって平気だし、もうちょっと・・・」
得意げになって本を取り終えた彼は、おどけて見せるともう一つ、奥の書籍にも手を伸ばし、はらはらと下から見上げている助手の表情をその際ちら、と目撃、何を思ったか。
「! 何やってッ!!!」
彼女の悲鳴を聞きながら、片足立ちで本を取ったケルッツアは。
「ぁ、とっ」
軸にしていた足を滑らせた。
「! や! 危ないッ!!!」
彼女の懸念どおり、床から高さ三メートル辺りで無理な姿勢を取ったために、黒いコートに包まれた肢体はあっという間もなく落下。
人が落ちたという心の衝撃には釣り合わないほど、あっけない音が辺りに響き渡り。
「や!!! ケルッツア・ド・ディス・ファーン?!!! やだ!! 大丈夫ですか!!?!?」
それと同時か少し遅いか。慌ててほとんど叫びながら駆け寄ってくるソフィレーナに視線を寄越し、ケルッツアは静かに起き上がると、頭から流れてくる血を己の頬の辺りで受け止めた。
その血を見ながら、二度、三度とゆっくり瞬きを繰り返し、連絡を、と、小さな声で助手に笑いかける。
「しくったな・・・。
ぼく、にもしものことがあったときは、そういう決まりだ。
人体かいぼう組にれんらくを…――たのめる? ソフィーレンス君。」
酷く優しい声でそう告げ、頭部からの暗赤色の血を受け止めた側の手で彼女の頬を辿る様にゆっくりと撫でてから、ああ、よごれてしまったね、ごめんね、と静かにその黒いコートの袖口を使って、彼女の頬についた血を拭う。
「だめだな・・・・・・とれない。
顔も、あらってくるといい」
そうしてから、展望部屋の方向を指し示した。
急に起こったことに茫然自失の彼女は、言われるまま、一つ頷くと震える足を叱咤してそちらへ向かっていく。
「う、動いちゃ駄目ですよ! すぐ、すぐ戻りますから!!」
知恵者が三脚から落ちた。しかも出血している。その衝撃と、先ほどまでの穏やかな記憶がぶつかり、彼女から現実感を失わせている。
ともかく、連絡を・・・
別に死んだわけじゃないし起き上がってらっしゃったんだからそんなに酷い怪我はしていないはずなら慌てることもないじゃないか。
そう自身を諌めて、しかしほとんど上の空で作業をこなした後、飛ぶようにその場所へ。
「ケルッツア・ドディス・ファーン今! 今担架が来ますからあな! ッ!?」
彼女はその場に辿りついたとき、むせ返るような鉄の苦い匂いに吐き気を催す。
見やる視界は鮮やかな赤一色。
薄い茶色の色彩で統一されているはずの三脚は、その足を鮮やかな紅色に染めている。そのすぐ近く、三脚側の本棚も書籍も同様に鮮紅色に染まり、いまだ乾くことなく重い音を立ててその液体を滴らせていた。
勢いよく飛び散った、厭に生々しい光沢を放つ液体は辺りの物にぶつかって奇怪な模様を作り出し、重力に沿って水のように落ちて行く。
あちらこちらには赤い楕円の点が散らばり、蒼かった絨毯は見るも無残に黒く染まっていた。
塗料の匂いではない。
その鮮やかな紅色は、酸素を多分に含んでいる証。
本来体の中を巡る液体の、黒ずんでいないその紅は新鮮な。
こんなに大量の血液・・・どこ・・・から・・・・・・・・・?
本棚と本棚の間、丁度知恵者の落ちた場所に、黒い塊がある。
膝をついて前のめりに崩れ落ちただろう格好のそれは、灰色の髪を赤く斑に染めて、ぴくりとも動かない。
傍に、刃物の輝き。
その光景が、ソフィレーナは信じられなかった。
お昼休みだから、第六図書館から帰ってきて、そうしたら、このとのこえに、よびとめ、られ、て。
ゆっくりと、寄る辺なく近寄ってゆくと、足元からはぬかるんだ音がする。生温かい液体は、革靴を通して足裏に感触を、その熱を伝えていたが歩みは止まることなく。
三脚の上に乗ったあのひとは、たくさんほんをなげおとしていたから、第五図書館長に、おこられるっ、て。
わたし。
黒い物体の傍に両膝をつくと、じわり、と温かな血が染みて膝を濡らし、焦げ茶色のスラックスを濃く染めていった。
コートに包まれた肩口に手を伸ばせば、少し冷えた赤が白い指先にくっきりと色を残してゆく。生ぬるい液体は水のような素直さで手を滑り、ソフィレーナの指に少し冷えた温度を残して掌に伝った。
肩口のすぐ上あたり、晒された首筋には斜めにぱっくりと開いた奇麗な傷口が見える。
褐色の肌の内側は鮮やかな赤い色を滴らせ、わずかに白が血に塗れたような骨を窺わせていた。頸動脈だろうか、血管らしきものからとめどなく鮮紅色の液体が外気に流れ出、蒼い絨毯を血の海に仕立てている。黒いコートの下、ラフな白い上着は赤を多分に吸って重たげに肌に張り付き。
力なく血溜まりに投げ出された褐色の手は、蒼く煌く小さな宝石を填め込んだ美しい金細工の柄に掛けられていた。宝石は赤を受けて尚深く輝き、金細工は残酷な紅色で斑を描き出している。
研ぎ澄まされた刃は赤と、何か油のようなもので僅か輝きを濁らせている。
首筋の近くに置かれている一際紅く染まったその手は、血をつけたまま彼女の頬を撫でた手だった。
彼女を、手招いた手。
このてにてまねかれて。だから、わたしは、
その手にそっと触っても痙攣ですら、反応はない。ただ、水のはねるような音が一つ、その場に生まれて消えただけだった。
褐色の顔は血の気なく、目元は灰色の髪に覆い隠されて見えない。
傷口のある側の頬には飛び散った血がこびり付き、乾きかけた青い唇にも、鼻腔にも、生の動きなく。
その場にへたりこんだ彼女に、水溜りで水のはねたような音と、いまだ温度を保った血が静かに染み込んでゆく。
白い手についた血はひたすら鮮やかに光沢を放ち、見やる者に現実を教えていた。
お昼、休み。
に。
なつみかんを、たべようって。
置き去りにしたバスケットも彼の血液に汚されて、夏みかんの鮮やかな黄色に鮮やかな赤が飛び散っている。
ぶんしりきがくの、けんきゅう。
こんどの、ろんぶん、で。
書籍の塔は、半分が無事で、もう半分は見るも無残に、頸動脈からの血だ、鮮やかな紅に塗れていた。
彼女が、ふと頬に当てたてのひらには、冷えかけた彼の生前の温度と、赤さだけが。
ソフィレーナは、ふと、呼吸の苦しさを覚えた。
「・・・・・…っぁ・・・」
声は、のどの粘つきで空気に響かず、ただ、苦しいと息を吸い込めば吸い込むほど苦い鉄の匂いだけが脳を満たしていくばかり。
「ひ、や・・・・、・・・ぃ、
や、あ…っぁ、
やあああぁぁっっっ!!!!!」
胸に満たされてゆく鉄の匂いはただただ苦く、ひしゃげた声は遠くに響いた。
ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、自殺した。
どのくらい経っただろうか。
解剖して分かったことに、知恵者はすでに落ちた衝撃で脳を損傷していたらしかった。その脳の稀有さを買われて生かされていたサンプルは、当然、稀有な脳が損傷すれば即解剖台送りとなる。
それが嫌で、自殺したのではないか、どっちみち生きていたとしても、損傷箇所が損傷箇所だ。もう前のように考えることはできなかっただろう。
己に語りかける声の主が、彼女は特定できない。
その人物は、空白が厭に白い書類を渡して、ソフィレーナの前から立ち去った。書類には知恵者の解剖結果が書かれているようだったが、不思議なことに内容は、頭に入ってきても、分からなかった。
ぼんやりと白い視界は、ただ白く。
どこまでもしろく。
頬をゆっくりと伝っていった褐色の掌の感触は、いまだソフィレーナの中に残っている。
『ああ、よごれてしまったね、ごめんね』
静かに黒いコートの袖口を使って、頬を優しく拭う手も、その感覚も。
『だめだな・・・・・・とれない。
顔も、あらってくるといい』
顔、洗う間も惜しくて、けっきょくあらってないのに。
温かな、てのひらが、ゆっくりと、わたしのほおを、たどって。
あかい、ちに。
2
「ッ!?」
大きく見開いた眦から、長い栗色の睫を濡らして幾筋もの涙が横顔を伝い耳朶へと落ちていく。熱いそれは肌を伝う過程で冷やされ、耳に溜まる頃にはすでに冷たくなっていた。
視界は暗く、しかし左手にある窓の分厚いカーテンからは、まるで早朝のような青白い光が布団へと落ちている。
部屋。
ゆめ。
認識した途端、ソフィレーナはありったけの息を吐き出し、ゆっくりと軽いはずの夏布団から起き上がった。手足の先は夏場だというのに厭に冷たく凝り、それを解きほぐすように深呼吸を幾度か繰り返しつつ、闇の中で胸元にある守護リングと、銀でできた小さな鍵をきつく握り締める。
背を丸め酷くおびえた様子だった彼女は、しかしその鍵の感触に落ち着きを取り戻したか、徐々に体の力を抜き。
酷い虚脱感と、妙な悪寒に支配された体を無理に動かして、時計を見やれば真夜中過ぎ。
その時刻は夜に近く、朝にはまだ遠かったが、しかし彼女はもう一度眠りなおす気にはなれなかった。
震える体を叱咤しつつ朝日を待ったソフィレーナは、着替えもそこそこに早朝、国立図書館朝一便に乗り込んだ。偶然同じ時刻に乗り合わせたレティシア・ド・パレッツィアに顔の青さを指摘されたが、夜通し研究していて、とごまかし、真意を語ることはない。大体、夢見が悪いことを言ったところでソフィレーナには答える言葉がなかった。
夢見の悪さは覚えていても。
内容…よく覚えていない・・・
ただ、酷く恐ろしい夢だったことだけ、ソフィレーナの頭の中にこびりついている。
最上階には知恵者の姿。その姿を見たとき、言いえぬ安堵と眦にたまる涙を不思議に思いながらも、彼女は仕事に取り掛かっていった。
午前中は第六図書館に出張。その帰りに、第六図書館長ラナシルア・ド・パートマンドに夏みかんを貰ったとき、一瞬、足下から一気に冷やされたかのような悪寒を覚えたが、胸元の鍵を握り締めるとすぐにその寒気も消えていく。
最上階禁書庫出入り口の白く塗られた鉄扉を押し開けて中に入ると、よく聞きなれた声がソフィレーナを呼び止めた。
「ご苦労さま助手君。でバスケットなんて下げてどうしたの?」
最上階出発時にはもっていなかったバスケットを気にしている発言から、相手には自分の姿が見えている、と。彼女は美しい栗色の短髪を揺らして辺りを見、左右に見える幾重にも連なった本棚の列から大きな三脚の足らしき物がはみ出していることに気づくと、その上辺りをダリル家独特の色彩を宿した大きく丸い瞳で見、知恵者を見つける。
「おや、目ざとい。丁度いい。君に手伝って欲しいことがあるんだ」
馬鹿でかい本棚の三分の一より下辺り、三メートルに届くか否かの高さから上半身を覗かせている十四歳くらいの、実質年齢今年の七月で四十五歳におなり遊ばされた知恵者は、灰色の短髪に褐色の顔、髪と同色の涼しげな三白眼を一対閉じて弧の形にし、コートから覗かせた褐色の手で彼女を招いている。
その誘いに応えつつ、ソフィレーナは皮肉めいた声を出し、近くに寄っていった。
「…目ざといのはそっちじゃないですか。
ラナシルア館長から、夏みかんを頂いたんです。
お昼休みだから、お茶と一緒にお出ししようかと思っているのですけど………珍しいですね?
探し物?」
今度の論文の標的は何だ、と言わんばかり三脚の傍に近寄ってくる助手に、知恵者は困ったように頭をわずか掻いてから、悔しそうに斜め下手を睨みつける。
「うん。『ラムダイナの定理』でちょっと興味深いことがあって・・・。
この棚だったと思うんだけど・・・君、知らない?」
問いかけてくる上司に、部下は少し目を閉じた後、怪訝そうに小首を傾げる。
「……。所蔵はしてありますし、棚もここですよ。dの五十八。右から四十三冊目…『アイリテリム岬』?」
助手の挙げた書名に否定と、定理の方だ、との要求。著者が返る。
彼女は一ヶ月前整理した棚の記憶を呼び起こし『アイリテリム岬』から五冊左に戻った箇所に彼の目当ての著者をみつけたが。
「数理ならあるけれど?」
場所を伝えると彼女の記憶の中ではそのまた左隣の書名らしき言葉が返って来た。
「数理…『ラムダイナにおける数理哲学』? その右隣はもしかしてアイケット博士著の?」
と。今度は明確な肯定の声が降って来る。
つまり、本来あるはずの場所から、一冊奇麗に抜き取られていることとなる。
こういう場合、過去の記憶に照らし合わせて確率の高い答えは。
盗られた?
彼女を見下ろしているケルッツアも同じようなことを言いたそうだが、まだ決まった訳ではない。
気を取り直して助手は、現場を見ようと知恵者に呼びかける。
「……私が確認しますから、降りていただけますか?」
彼女の記憶の中で、彼の探しているらしい書籍は厚さを誇ってはいなかった。むしろ薄い。
ひょっとしたら別の本の、ページの間に挟まっていて見つけられないだけかもしれない、と、稀にあるなくはない可能性を確かめるため、助手は知恵者に三脚からの撤退を求めるが。
「否。見つかったらしめたものだろう? 本当に少しの箇所が知りたいだけだし・・・。
投げ落としてもらおうかとも思ったけど、第五図書館長、シャリアーヌ女史が煩いからね。
大丈夫、二人乗ったってこの三脚はびくともしないよ」
知恵者は、三脚の端に寄っただけで、頑としてそこを動こうとしない。
ゆっくりと、彼女は手足の先が冷えてゆくのを感じていた。先ほど感じた悪寒が、何故か急に背を這い上がってくる。
その悪寒を消すために、胸元に手をやり、その鍵に服の上からそっと指を這わせ。
「でも、危ないじゃないですか。
……私がその場で朗読するか、お茶の時にでも必要な箇所を一字一句間違えずに書くか打ち出すかしますから・・・」
だから降りてください、と。声にはせず、視線だけで批難を訴える。
これにはケルッツアも心動いたか少し身じろぎすると、怪訝な顔を彼女に向けた。
「む。自棄に至れり尽くせりだけど…遠慮しておく。
この場で見るのが一番早い。さあ、何をぐずぐずしているの。」
器用にも三脚の背に立ったまま寄りかかり、ひたすらに助手の到着を待っている。
知恵者は、譲らないときは梃子でも動かないため、助手にはこの選択しか残されていなかった。
三脚の一段目にかける足が嫌だと動かない。しかし動かすしかない。ゆっくり確実に昇ってくる助手の姿を知恵者は不思議そうに見、臆病だと驚いていたが、当の助手にそれを訂正するだけの余裕はなかった。
何故、怖いのか。自分でも分からない。
けれど、彼ヲ三脚ニ昇ラセタママデハイケナイ。
もやもやした心地に行動はいつになく遅かったが、いつかは終わりが来るようで目的の段に到着。
「よしよし。どうしたの? 具合でも悪い?」
知恵者に頭をぽんぽんとされたが、それに答えるだけの気力すら、彼女に残されていなかった。気分が悪くても降りては下さらないんですね、と、気分が悪いのは助手だ、破綻したことを思いながら本棚に顔を向ける。
目当てに近い箇所を一つ一つ見ていくと、一冊、本当に少しだけ背表紙の歪んだ本があり、どうやら盗難は思い過ごしと手にとると、奥の方で紙のこすれる音がする。
手を突っ込むまでもなく、ひしゃげた状態ではあったが。
これですか、と助手に見せられた本を手にとり、ケルッツアは満面の笑みを浮かべてお礼もそこそこページを捲りはじめていた。
二人乗ッテモ無事ダッタ。
何を怖がることがあったのだろう。
ソフィレーナは目の前の嬉しそうな顔に安堵し、一足先に展望部屋へ戻ってお茶の準備でもしようか。そんなことを考えて彼に了承を貰った後、三脚から降りてゆく。
「じゃあ、お茶、先に用意してますから、早く来てくださいね。」
そう呼びかけ、展望部屋に向かおうと背を向けて歩き出す、その背後で。
小さく驚いたかのような声と、何か硬いものが落ちたような音が響いた。
「!?」
振り向くと、三脚の上にいたはずの知恵者が下に仰向け状態で、転がっている。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン!?!?」
ほとんど悲鳴を上げて駆け寄ったソフィレーナに。
コンカイハ
視線をよこし、ケルッツアは静かに微笑んだ。傍に膝をつき、覗き込む格好の助手に片手を伸ばし、彼からすればかわいいという感情を伴う顔つきを涙に歪めている、まろやかな輪郭の頬に手を沿わせる。ゆっくりと撫で、栗色の髪を梳いては幾度も耳にかけようとする仕草を繰り返した。
「うまく・・・かからない・・・
ごめんね。
そふぃーれんすくん」
少し淋しげな笑みを浮かべて甘えるように眦を細め、そんなことをおぼつかない発音で語りかけ。
暖カナ、テノヒラガ、ユックリト、ワタシノホオヲ。
彼女の内にイメージがふと浮かび上がったが、そのことに意識を割けるだけの判断力もなく。
「さあ、君のきらっているそしきに、れんらくしなくちゃ。
ぼくに、何かあったときはそうする決まりだ。
おねがいして、いいかな。」
その言葉があまりにも優しく、混乱を来たした彼女には絶対的に響いた。動かない足を叱咤して、危うく転げそうになりながらもソフィレーナは展望部屋に走る。
れんらく
れんらくしなくちゃ・・・
ムセ返ルヨウナ鉄ノ苦イ匂イ
赤い映像が流れ込んでくるが彼女の思考はそちらに割かれない。
れんらくを、れんらく。
別に死んだわけじゃないし起キ上ガッテラッシャッタンダカラそんなに酷い怪我はしていない筈なら慌てる事もないじゃないか。
ほとんど上の空で作業をこなした後、ソフィレーナは飛ぶようにその場所へ舞い戻。
「ケルッツア・ドディス・ファーン今! 今担架が来ますからあな! ッ!?」
むせ返るような苦い鉄のような匂いに吐き気がこみ上げてくる。
見やる視界は鮮やかな赤一色。
赤。
ゆ、め・・・
助手に連絡をして欲しいと頼んだ知恵者は、彼女がいなくなってすぐ、頸動脈を躊躇いもなく掻っ切って自殺した。
連絡を受けた下階の職員たちは、遺体となった知恵者の傍に座り込み、頭を振って、静かに泣き叫ぶ助手の姿を見る。
「やだ、や・・・です。ゆめ、
ゆめ
と
おなじ
ゆめ、
ゆ
め
ゆめで、しょう・・・?
すぐに、さめるはずなの
はずなの
に
あ、
あ、あ
あ、あぁぁ、あ、ぁ、
あ・・・」
なだめに走ったのは彼女の友人で、その腕に支えられてソフィレーナはその場から引き離されて行く。酷く憔悴し虚ろに否定の言葉を繰り返しているさまは、かつての助手を知っているものならば誰でも目を背けたくなるものだった。
毛布を掛けられた血まみれの遺体は、担架によって運び出される。
ソフィレーナには、周りの喧騒が酷く遠く思えた。傍で呼びかける友人の声も水底からのよう。ただ、温かなその体にしがみつき、夢から目覚めるのを待っている。血にまみれた手でそっと、胸元の鍵を握り締めようとしたけれど、手は黒ずんだ赤にまみれて上手く動かず、鍵を掴むことはできなかった。
温かな褐色の手が、私の頬をなでて。
温カナ血ガ一緒ニ頬ヲ撫デタ。
『ああ、よごれてしまったね、ごめんね』
左の耳に髪をかけようと、なんども褐色の指先を白い耳朶に這わせ。
『うまく・・・かからない・・・
ごめんね。
そふぃーれんすくん』
やさしいこえ。
むけられるえみ。
すべて、なくなっちゃった。
夢。
夢なんでしょう?
すぐに覚めるのでしょう・・・・・・?
今度も目が覚めるはずだ、と繰り返すソフィレーナを、レティシアは悲しげに見ることしかできずにいる。
日は残酷に過ぎ、国を挙げての、遺体の無い葬儀が執り行われて、少し。
今や助手職も解任されたソフィレーナは、そのあまりの錯乱状態に精神を心配され、自宅で養生、ほとんど軟禁も同然の生活を送っていた。それでもかつてよくしていた者は何人か訪れ、その後、ケルッツア・ド・ディス・ファーンを解剖した結果判ったことなどを教えては、少し彼の記憶に浸り、帰ってゆく。
かつて貰った鍵はいまだ胸元に。
その鍵には、せめて知恵者の形見に、と小さく蒼い石が填め込まれていた。知恵者が自殺に使った金細工の美しいナイフの柄に納められていたそれは、大幅にカットを施されて彼女の胸元で煌いている。
渡された書類はいずれも詳細に稀有なサンプルから引き出せた情報を羅列しており、中には国家秘密にかかわるかもしれないものも、彼女にだけ、公開されていた。
しかし、ソフィレーナはそのことに何も感じない。
彼女はいまや、ダリル家監視の元、絶対の記憶媒体として使われているも同然だった。虚ろな瞳は何も映さず、聞かれたことにだけ分別なく、己の記憶を垂れ流す。
真っ白なドレスを着せられて、ただ、窓辺にあつらえた上等な椅子に座って時を過ごす彼女は、助手職の解任から一年近く、髪を切られることはなかった。整えられた美しい栗色の髪はゆるく波打ち、柔らかな膨らみを持った胸元にうちかかっている。真っ白なヴェールで覆われた顔、口元だけを覗かせるその姿は、或いは、ダリルの姫君が降嫁召されるときの姿によく似ていたが、目元を覆うヴェールを上げる手はない。
『あの子の心はかつての知恵者殿が連れて行ってしまわれたのね。
もう、こちらに帰ってくることは、ないかもしれません・・・・・・』
それでも可愛い娘だから、とダリル家の元当主は私財を費やしてソフィレーナを家に住まわせ、その身を守った。そしてせめても、と、この世の者でない元知恵者に向けて、黒服ではなく真っ白な、花嫁衣裳を着せ続けている。
いまや誰にも穢されることなき花嫁は、こうして深窓の奥に大切にしまいこまれた。
ケルッツアの温もりは時を経た今でも風化することなく彼女の内に刻み込まれ、寸分の違いなく息づいている。
その命が潰えたことを思い知ったときの衝撃も。
あのひとは、しんでしまった。
あかく。
まっかなあかにそまって。
モウドコニモ、イナイ




