感想会
ソフィレーナがケルッツアの助手を勤めて四年、正確には三年と半年。
勤め始め十二週間、約三ヶ月もの間彼女は存在を無視され続け、それから二週間はずっと呼び方が定まらず、やっと定まった呼称は"ソフィーレンス"で、何度訂正しても直されることはなく。
ソフィーレンス、と呼ぶのは現在の知恵者だけ。
そのことに次第優越感と陶酔を覚えはじめていた彼女は、何度も何度も何度もしてきた正式な名前の訂正を今年の二月半ばからは完全に諦め、止めていた。
別にあのひとが私を呼ぶ事実に変わりはないのだし・・・なら、まあ。いいか、と助手のそんな思考が行動に表れてからしかし約三ヶ月後、時間にして二十一時十五分近く、つまりはつい先ほどにして。
『今日は、ありがとう。…ソフィレーナさん。』
彼女の疾うに諦めて、正直どうでもいいとさえ思っていた望みは叶えられる。彼女の願いを叶えた彼は、そのすぐ後、掠れの酷い声でソフィーレンス、と言い直し、今はいない。
その声の掠れは照れている証。
ソフィレーナは過去四年と半年来の助手職歴に照らし合わせ、首を傾げた。
なら、知恵者は助手の本名を呼ぶことに照れている・・・?
「? なん、で?」
どうして照れる必要があるのか、は、助手がたとえば知恵者のことをケルッツア様、ないしケルズと呼び捨てにする心地と似たようなものという思考に彼女が行き着かなかったため、ソフィレーナには分からない。
否、行き着いていたとしても、それが何を意味するか、よもや知恵者が助手を、彼女の認識を当てはめるならば陶酔、尊敬しているなどとは、流石に考えられなかった。
いずれにせよ。
「・・・・・・………。」
ケルッツアの発言は、人の立ち去った今、彼女をしばらく行動不能にしていた。劇団員と知恵者のいた空間では持ち前の矜持で思考に即席の封をしていただけで、その封が破られた今となっては立っているのでさえやっと。現在手狭な玄関の白い壁に肩を持たせかけ、笑う膝を何とか耐えている。
ソフィーレンス、と呼んでいた口が、ソフィレーナという言葉を発する。ただそれだけのことに言語能力さえ麻痺したか、思考さえ上手く回らなくなるなどと、彼女は思ってもみなかった。
知らなかったために、想像すらしなかったために、酷い重圧で思い知らされる。
ケルッツアの発したその言葉、音程、響き、息の吐き出される間、どれも彼女を逃すものはなく。
あたかも、己の全てを捕らえられたかのような錯覚に、ソフィレーナは半ば放心状態、扉の閉まった玄関の廊下に立ち尽くしている。
頭の中で壊れた機械のように勝手に再生される。
声は。
『今日は、ありがとう。…ソフィレーナさん。』
『…ソフィレーナさん。』
…ソフィレーナ。
穏やかな波の音につれ、世界は緩やかに揺れ動いている。明日の朝ウィークラッチ島へ荷を届ける貨物船内の潮の香が満ちる薄暗い倉庫は、静寂の中に沈んでいた。時折微かな音が聞こえるが、気づいた見張り番もネズミだろうと歯牙にもかけず。
ああ、やはり六年という歳月は偉大だ。警戒なんて全然されていない、と。
五月も終わりかというこの夜、知恵者は貨物船内、木箱に収まる壷の中に入って出発のときを準備万端、ちゃっかりと待っていた。
彼の企みに参加した内通者の数は全部で五人。
ソフィレーナの一番手の姉と国立図書館第二館長、ソフィレーナ宅に荷を取りに行った劇団員一人に、荷を船に積み込む者が一人。そして島に残っている第三館長。
今朝ウィークラッチ島を出発し、港域で観光客の振りをした後第二館長宅にお邪魔。夕方助手の家に木箱と一緒に運んでもらい、あらかじめ助手に預けてあった劇団の荷と偽ってそこを出。劇団の荷物が海路で運ばれることと、木箱の外見がどれも同じであることを利用し、港にてウィークラッチ島行きと劇団行きの荷をすり替え、朝一の貨物船で帰還。
プランを着実にこなしつつあるケルッツアは、これなら三人くらいでも、否、二人いれば十分だったかもしれない、と。持たされた茶菓子の封を一つ破り、しっとりとした生地のクッキーを口の中に放り込むと咀嚼、一定のリズムで繰り返される静かな水の調べにつられたか、ゆったりと闇に慣れた瞳を閉じたり、開いたりして、寒さと眠気による手足の痺れた暖かさに、出かかった欠伸を噛み殺している。今夜の月は下弦。おぼろに昼に見かけた月の形を思い出し、今夜空を飾っているだろう三日月を思い。
周りに気配がないことを確認してから、少し迷った後、電子カメラの起動音を壷の中に響かせた。
満ちるディスプレイの青白い光に目を細め、メモリー画面を覗きこむ。
迎え出たのは。
・・・・・・・・呼べた。
メモリーの中の彼女はレモンティーの粉缶を片手に、あどけない、ある意味間抜けとも取れる顔でこちらを振り向いている。その格好は上半身だけとは言え、酷く女性らしかった。四年前の記憶、呼び方の今ひとつ決められなかった、三ヶ月も助手を止めないでいてくれた女性をこともあろうに男性の様な呼び名を付けて呼んでしまった、そのきっかけとなった服装、後ろ姿とは明らかに違う。
そんな助手の姿を切り取ることができたことに、ケルッツアは心底満足げな笑みを零した。
これで、僕でもそ、フィレーナさんって・・・・呼べる。
その差異を己の頭に叩き込むことが、ケルッツアが写真を撮った意図。
本来はソフィレーナの、女性なのに男性のような格好をした後姿、に対抗すべく、彼女の、女性の格好をした後ろ姿、を切り取ることが彼の最善ではあったが、盗撮に興味は湧かず、いきなりシャッターを切るのはどうも不躾だろう、と。
一度の記憶より、幾度も見返せる写真を。そして、ソフィーレンス、ではなく、骨身までソフィレーナ、であるということを思い知るために。
そんなことを思い、もう一度カメラを操作し、ディスプレイに光を灯す。助手の写真は何度見返しても女性にしか見えない。
「………」
彼女の私室に入って彼はさらに、ソフィーレンスと呼んでいたのでは駄目だ、という思いを一層と強くしていた。たとえ呼ばれている本人が、もうどっちでもいいと、日に一度は必ずしていた訂正を止めているのだとしても。ソフィーレンスという名前は助手の一部分を切り取って名づけたに過ぎない。一部分を呼ばわ占めただけでは。
手に入レタ事にハなラなイ。
つまりそれだけでは、彼は満足できなかった。
なので。
脈拍の乱れを押して、声を出そうと口を開ける。唇は厭に乾いて耳朶は火のように疼き痛痒く、吐き出す息さえ一定のリズムを保っていられない。まるで、全身が一つの心臓になったかのような錯覚の中、瞳だけはカメラのディスプレイから離さず離せず、彼は。
「ッ……っそ、」
やっとのことで搾り出した音は酷く間抜けだった。おまけに、フィとレとナは容易に続かない。
先ほどはあれほど奇麗に発音できたのに、と焦る口は息継ぎさえままならず。
「…ッふぃ…・・・ふぃー・・・・・ふぃーぃ・・・」
下手な笛のマネをしている訳ではない。訳ではないのだが。
「・・・・・…ッい、ふぃれ、れー・・・・れーーー!! ・・・・・・れー・・・・・・・・・ッれ、ッ! な、なー! なななな!!
そ! ふぃ! ふぃーーーー・・・・・・・・・・・・・・・。
………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・そふぃー・・――――・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・れんすくん。」
結局、諦めて楽なほうへと逃げ込む。
斜め下手を心底気にいらないと鋭く睨みつけながら、彼は己の情けなさに頭をわずかに掻き、一つため息。
さっきは・・・あんなにするりと出たのになぁ……。
四年もの間、どうして自分は助手の正式な名を一度として呼ばなかったのか。返す返すも苦虫を噛み切ったような顔で斜め下手を睨み、またため息を禁じえないケルッツアの人知れぬ苦悩などどこ吹く風。
船内は相変わらず静かで、今しがた唐突に生まれたおかしな発生音を飲み込み、夜は尚深く。
知恵者は落ち着きを取り戻すと、もう一度、今夜は最後と助手の振り向く様を見る。国立図書館業務時ではまずお目にかかれない格好をした助手は、こうしてこのメモリーを消さない限り、彼の手元に在り続け、改変も変容もしない。そのことだけでも、ケルッツアは満足することにした。
大体、助手君ばっかり僕の何もかもを覚えているのは不公平ではないか、と。
僕だって、彼女に対する事ハ全テ覚えていタい。
忘レたクなイ。
写真は、絶対記憶脳に対抗する手段になり得る。改変も変容もしない記憶が手に入る。そんなことを楽しげに思い、もう一つ、とっておきの置き土産を思い出すと笑みの質を幾許意地の悪いものに変えて、ほくそえんだ。
さて、彼女はいつ気づくかな。
どれ程玄関で立ち尽くしていたか。とりあえず勝手に入ってきた視覚情報では十時にはなっていない時刻、彼女はやっとのことで彼の束縛から解放された。
明日…明日またソフィレーナさんなんて呼ばれたらどうしよう? 縋ってでも止めて貰わなきゃ。
しん、ぞうに悪すぎる………。
『今日は、ありがとう。…ソフィレーナさん。』
また煩くなる鼓動の音をハイハイと好きにさせ。
舞い戻ったキッチンとリビング続きの部屋は、彼女の生活しているものより格段暖かな、少々暑苦しい温度に整えられていた。冬場しか使うことのない暖炉の火を消して、ソフィレーナは暖炉の前から訪問者の去った部屋を見渡す。漂う雰囲気にはいまだ国立図書館最上階、特に展望部屋や応接室、そして知恵者の私室を取り巻く匂いとも気配とも取れるものが混じっていたが、それも他の来訪者を受け入れ、そして見送った後の空気のように次第薄れてゆく。
そんなことに、他の訪問者が帰った後に何となく感じる寂しさ以上の酷い寂寥感を覚え、どこか痛みすら抱きながらも、彼女は一対で置かれた白く背の低いソファーの真ん中、木製の低い机に目を留め、そちらに歩き出した。机には二組の紅茶カップと、底にコーヒーをわずか蟠らせるカップが一つ。茶請けの菓子は中央に幾枚か出したときよりは数を減らして置かれ、部屋の出入り口を果たすドア側、家の造りから言えば廊下側に置かれたソファーにはやや高級な茶葉の小さな袋と、安いレモンティーの粉茶缶が並んで置かれていた。
レモンティー、結局、出せなかったわね。
「………。」
最も出したところでそれほど美味しいものとも思えないけれど。巡りそうになる思考をそんなことで蹴散らし、三つのカップをキッチンの洗い場へと持っていく。
二つのからのカップを洗い場に置き、残るひとつ、己の使ったカップにわずかに残る、薫り高い紅茶を勿体無いと口に含み。冷めたそれは、大して美味くもなかったが、香りだけは甘く鼻腔に広がっていった。
その香をしかしどこか鬱陶しく思いつつ、ソフィレーナは洗い物に取り掛かる。
いまだ熱を持っていた知恵者のカップに冷水を浴びせると、急激にその熱は冷め、ただのカップと成り下がる。そんなことにすら沈む気持ちを耐えて、機械的に作業をこなし。
「…………。」
洗い終わってカップを奇麗に拭き、どうもそのままくつろぐ気になれず、彼女は私室へと向かった。
私室の中は、一通り見回った所本当に本棚と戸棚、そして積読の塔以外は埃の被り方に意図的な差を見つけることはできない。積読の塔は半分が無事でもう半分は見事配列がばらばらになっていたが、元より買ってきて読んでいない物を順番に上に乗せているだけだったので特に苦にもならず。
約束…守ってくれたんだ。
傍若無人に荒らされた形跡も特になく。アルバムは並びこそ違え元の位置にあり、そこから抜き出された写真は一枚もない。出しておいたノートも一冊を抜かして全て無事。集めている論文雑誌も。
そこで彼女は、論文雑誌の付箋が少しずれていることに気づいた。雑誌に触ったときの記憶を呼び起こし、やはり位置が違うことを確認。訝しげに手に取り、その箇所を開いて。
絶句した。
付箋の挟み込まれている箇所に共通するのは、いずれも同じ博士が匿名で出した論文が掲載されているということ。彼女は、自分の気になった論文をチェックしていたに過ぎないのだが、後々それが全て同一人物だということをひょんな情報の吐露で知ることとなった。
その博士の名を知ったとき、思わず冷たい床にへたり込んでしまう程の衝撃を受けたことは当然の如く覚えているが、彼女はそれにも増して恨みつらみと羞恥で忘れることはない。
如何にすべてを覚えているとはいえ、やはり視覚の力は偉大である。
論文で気になったことは線を引いて疑問点や感想など、ちょこまかと書いておいたそのメモに、良く見慣れた文字で解答やら意見やらが書き足されていた。試しに全ての号を見てみると、付箋のあるページに漏れなく書き足しは成され。
好きな付けペンではなく、恐らくは水性のペン。少し右上がりの綴り方は、彼女の右腕にも手の甲にも嘗て走り書きを残し、今は論文雑誌の付箋箇所に消えない痕を残している。
最新号の論文雑誌、付箋のあるページにだけは、解答も意見も書き足されずに。
ただ。
「・・・・・・・ばか」
彼女は赤面して、思わず両手で顔を覆った。
"今度から直接教えてください。答えます。"
論文の掲載されているページいっぱいに、でかでかとそんなメッセージが残されている。
彼女は息を詰まらせ、沸騰しそうな血流の早さに眩暈を感じてへたり込み、床に手を突いた。浮かされた熱は涙腺を勝手に崩壊させ、あっという間に世界は輪郭を崩す。水性のペンで書かれたメッセージに余計な水分が加わらないよう咄嗟雑誌を閉じ、辛い呼吸と視界に厭な胸の苦しさを合わせた苦しみを、全身で受け止めていた。
助手として、知恵者の講義が聞ける、それは願ってもないほど嬉しいことである。
ソフィレーナとして、ケルッツアの、最も尊敬し、その手にかかるならば解剖されても構わないとすら思っている者の一般に発表した知識、以上を教えてもらえる。意見交換ができる。頭の中を覗かせてもらえる。
それを彼女が喜ばないわけがない。当然感動を禁じえず。否、禁じえないからこそ。
ケルッツアの置き土産は、もはや攻撃に近かった。
この世のものとは思えぬ歓喜も感動も、取り方次第では恨みつらみにいつでも変換可能。つまり、苦痛にもなり得る。
それはたとえば、嬉しい、この上もなくどうしようもなく嬉しく光栄なこと、嫌だという気持ちは微塵も湧かないからこそ。
「なに…ッ! な、に」
やってくれちゃってんですか! 本当に、もう!!
ソフィレーナがケルッツアを、憎たらしくも思ってしまうことや。
あるいは。
熱を持って流れ出、頬を伝う過程で冷える涙を静かに拭い、彼女は開いたその他の論文雑誌を丁寧に戸棚へとしまった。その瞳は激情に塗れていたときとは打って変わって、濃い紫の上に栗色を煙らせたままに、暗い。
あるいは、そんな人に背いた、罪悪感からくる苦痛。
あのとき、紅茶カップを机に置いて、灰色の虹彩は漆黒に染まりやり、ただ、彼女に真意を要求していた。
それを。
『・・・・あなたは?』
冷めた瞳で、否、灼熱を内包した瞳で、ソフィレーナは私室を出、その隣にある部屋へ足を向ける。鍵を開け、ドアを開き、流れ出る空気の質が少しも変わっていないことに酷く穏やかな表情を浮かべて、入ってゆく。
国立図書館職員は、何がしかの研究員、学者であることが非常に多い。必然、彼らの寮には各自に一つ、小さな研究室が設けられていた。他の部屋に比べて無機質に酷く明るい蛍光灯。コンクリートがむき出しの真四角な部屋に、付属の棚と冷蔵庫が一つ。
付属の棚にも他の棚にもシャーレが幾つも並んでいる。奥の机には電子顕微鏡が二つ。薬品棚が一つ。ノート型のパソコンと複合機が一つずつ。整理された書類や本は本立てで仕切られ、その近くに小さなスタンドがある。簡素な作りの机下、暗がりには小さなストーブが置かれ、椅子には膝掛けが畳まれて掛けられていた。そこは、彼女の研究室であり。
彼女と菌糸だけの世界。
椅子の背もたれに掛けてある膝掛けを手に取り、彼女は机へ向かった。スタンドの光を浴びて正面に並ぶのは菌類を扱った論文雑誌や、分厚い図鑑の数々。そして、現在記録を付けているノートが数十冊並んでいる。
私室に研究用のノートがなかったことを、知恵者は助手に問い詰めはしなかった。許された箇所以外を荒らした形跡もなく、この部屋も、恐らくはドアノブに手を掛けられてすらいない。
助手も、助手をしてはいるが、知恵者の現在の興味対象や、過去の興味対象を記しただろう研究ノートは見せて貰ったことがなかった。
研究室は、その詳しい研究内容は、発表されない限り踏み込んではいけない領域。
学者を目指すものならば当然の配慮にして礼儀。知恵者も助手を認めた上でその内容を詳しく詮索しようとはしない。
けれど。
『否……? レモンある?』
『レモンティー? ちょっと待ってください。確か……』
嘘ばっかり、とソフィレーナは頬を染める熱を前髪で覆い隠す。彼は別にあのとき、レモンが欲しかった訳ではないと彼女は気づいていた。言動的にはレモンティーを、という意味でのレモンの要求だろうが、それはただ単に紅茶のレパートリーとして助手が揃えていないものを挙げたに過ぎず、レモンでなくとも、たとえばジャムや他の茶葉を合わせるブレンドでも構いはしない、そんなものに過ぎない。
そして彼女は、その偽りの要求に乗る形で、追求の手を免れた。
否。
逃して、くれたんですよね。
それを、ケルッツアの優しさと取るか、余裕と取るかを彼女は敢えて考えず。批難と照れから、ずるいひと、というその言葉だけを胸に抱いている。
自然と零れる柔らかな微笑は、しかしすぐに度を増して苦く泣きそうな表情へと取って代わった。
互いの研究内容を詳しく詮索するなど言語道断。
知恵者と助手の、ケルッツアとソフィレーナの間でもそれは変わらない。
しかし、それを推しても、ということなのだろう。
灰色を漆黒に、底なしに暗く深めた黒瞳は。
『うん、卒業研究を生涯の研究に発展させる人多いから
・・・でも君は、違う?』
彼女の、その先を知りたがった。
真摯に、真っ向から隠れる術もなく向けられた暴力的ともいえる知識欲の塊は、彼女に抗う力を失わせ、ただ、魅入らせる。
けれども彼女とてどうしても、どうしようにも譲れないものがあった。知恵者が天文の世界を、そして植物の世界をこよなく慈しみ愛することと同列に、助手は菌糸をいとおしみ、心を砕いてやまない。
菌糸と、知恵者と。この場合はどちらに分配があがったことになるのだろう。
抗えない、抗いたくないと思わせる瞳は、しかし彼に陶酔するからこそ、彼女に言葉尻だけでも背くだけの力を与えた。その鎧でソフィレーナはケルッツアに真意を隠し通す。
けれど、ケルッツアに、その頭脳に陶酔する者に、背いたことも変わらない。彼女に軋み上げるような胸の痛みと罪悪感を重く圧し掛からせていることもまた、事実だった。
それでも。
ソフィレーナは椅子に座り、膝掛けを掛けると机の鍵付きの引き出しからノートを一冊手に取った。
ソフィ・・・ぃ、レーナさんったら怒ってるかなー。怒ってるだろうなー。
でも喜んでもいると嬉しい。
ソフィレーナ、という名前を意識の上で上らせることから入ったケルッツアは、想像できる彼女のリアクションに楽しくて堪らないという顔をしていた。自然と含み笑いの音が漏れる。
物言わぬ荷しか置かれていないはずの船内の倉庫一角で、時折聞こえるその音は不気味以外の何物でもなかったが、幸いにしていまだ辺りに人気なく。
もとより、他国に出る船ならいざ知らず、同じ国内の孤島にお忍びで、つまり密航して行きたがる物好きはそういなかった。
ウィークラッチ島は知恵者の庭。如何に広大な土地を持っていても、そこにちょっとした林と草原が広がっていても、独特の磁場を有しているようで天候の先行きが見通しづらいことと他国からはやたらと距離があるため、貨物の中継地点にも密航の中継地点にも使うことができない。本当にただ、国立図書館だけが目当ての客にしか需要がない行き先である。
七年前、知恵者のお忍び外出が露呈してからは厳戒態勢が敷かれていたその船も、今は見張りのみの字もないほどに穏やかな夜を演出していた。
それでも一応荷の外に出ることだけは控えて、ケルッツアは助手の部屋で体験した興奮を追体験する。
こういうとき、彼は自身の頭が絶対記憶脳でないことを心の底から悔しがった。どんなに素敵なことが起こり、それを覚えていようと努めても人間の記憶は常に正直とは限らない。見たものを見たまま、感じたものを感じたまま取っておくことは到底不可能で、感動は勝手に水増しされ、時に改変、美化までされてゆく。屈辱に至ってはいうまでもない。
そのことが、心底彼は気に入らなかった。覚えた感動はそのときが一番の旬。それを勝手に水増し美化したりなどだれが望むものか。
しかしそういう頭である以上は仕方のないこと、と追体験は止めず。
助手の私室。付箋の挟み込まれた論文雑誌の中身は、ケルッツアにとってはファンレターも同然だった。
ファンレターなんてもんじゃない…あれは……あの書き込みはもっと破壊力がある・・・。
それが俗に言う、好きな相手から恋文を貰ったときの衝撃に似ているなどとは、ケルッツアには経験以前に認識がないため分からなかったが、その威力は計り知れない、と。そこだけはしっかりちゃっかり掴み取っている。
「・・・・・・・・・」
助手を勝手な呼び名で呼び、親しみを覚えていた、あれは、彼女が来て一年だったか、もう少し経っていただろうか。胸の温かくなるような心地に一つ満たされたような穏やかな笑みを浮かべ、回想に浸っていった。
はじめは助手がとある論文雑誌の記事に夢中になっていることを知り、直属の上司に結構世話を焼いてくれるくせに夢中な博士は別にいるんだね、と。有体に言えば面白くなかった。
それでもどうにも気になる。何よりどういう人物なのか自分も知りたいと、あるとき、とうとう助手が直属の上司を差し置いて尊敬しているらしい博士の名を聞いたら、いずれも匿名で投稿されているから知らないという答えが返され。
じゃあその箇所見せてよ、と食い下がったら一冊持っているだろうに、今思い返すと書き込みを見られたくなかったのだろう、別にもう一冊買ってきて指差した記事の内容は。
ああ、これは取り入ってるんだ、と少し落胆。やっぱり仕方がないことかな、学者になりたければ将来の志望先に口を利いてもらえそうな所捜すのは定石だし、と助手の熱烈さを少々鬱陶しく思い始め。
ふと、匿名のペンネームを変えてみた。
さあこれで分からないはず。と思った知恵者は、しかし助手がちゃっかり投稿した論文を探し当てていることに当惑。助手の情報収集能力は恐ろしいものだなどと少し恐れ。
そもそも、自分の論文を知らないということをここではじめて知る。
ソフィーレンス君は、僕の論文を知らない。大体、研究員は博士クラス以上からの推薦状がなければ知恵者の名で書かれた論文は閲覧できないんだ・・・・・・った。
…じゃあ、なんで僕の書いたもの全部を当てている?
相変わらず、助手は博士への夢中ぶりを知恵者に惜しげなく披露している。ファンレター出したいんですけど、住所も氏名も分からないんですよね。あ、助手職はちゃんとやりますよ? やりますけど…憧れは自由じゃないですか。
照れた顔を向けられた知恵者は、一体どんな表情を作ればいいというのか。ケルッツアはますます複雑、当惑を隠せず、しかしそ知らぬ振りをして論文の感想を聞きだしたりもしていた。
その内に、彼は気づいたことがある。
知恵者が感謝や、本当に稀な労わりを助手に見せると、助手は前髪で目元を隠し、すぐにその場を立ち去ってしまう。そんなことを何度か繰り返し、その頬が赤くなっていることに気づいて、ああ、照れているのかな、と。
けれど彼女が匿名論文の、彼女の夢中になっている博士が知恵者だと知っていたなら、今更照れる必要がどこにあるだろう。
相変わらず助手の、知恵者が幾度かペンネームを変えたため、博士達に膨れ上がった者達、へののろけは隠されることもなく。
思い至ったとき、ケルッツアは血流が逆流して跳ね返って飛び踊っているような心境に陥り、熟れたトマトもかくや、真っ赤っ赤、文字通り全身茹蛸状態になった。
知らない! ソフィーレンス君は僕の論文を知らない!!
なのに、見つけ出している!!!
もう耐えられない。ばらしてやる、と助手に推薦状を書き、それを片手に知恵者の名前で書かれた論文を保管している機関へ行かせ。
当然それきり、助手の博士達への、否、ケルッツアに対してのろけはぱったりと止む。
機関から帰ってきて三日三晩口を利いてくれなかった助手は、最後の日の明け方、観測で寝不足の目を前髪に覆い隠して。
『どうして……い!!! い、いいいいぃままで教えてくれなかったんですかッッッ!!!!!』
ほとんど叫んでいた。
そんな嘗ての、論文雑誌に書かれた疑問や意見と言う名ののろけの原文、と、密かに続けられていた自覚のないファンレターを見てしまった彼はその熱烈さに当てられ、煽られ、沸き立つ喜びと共に書き込みを残したに至る。
あんな熱烈な疑問や意見、感想はほとんど攻撃だ。噛み砕いて疑問を持つ。どこまでも食いついてくる、真っ直ぐに見つめてくる思想は心地よく…。その嬉しさを分かって欲しくて・・・・でも、怒っているだろうな。
そんなことを本気で考え。
逸らされた問いの思惑に、静かな表情を湛えた。
『・・・・あなたは?』
学者として、他人の研究を詮索するなど褒められた行為ではない。
それはたとえ上司と部下の間においても、例外ではなかった。
勿論、彼と彼女の間においても。
それでも。
ケルッツアは、ソフィレーナの先が知りたい。
当たり障りのない言葉を選んだはずだ、方向性だけ、それだけで構わなかったのに。
彼の思惑を汲み取ってだろう、見返してくる砂漠に広がる夕の空、焼けた茜と夜の狭間を写し取ったような一対の円らな瞳は、頑としてその心を見せてはくれなかった。
けれど、知恵者は助手の論文雑誌に書いたメモを見ている。
発表された論文以外の、研究成果以上のことを知りたいと願うならば、それは頭の中を見せてほしいと言っているようなもの。
ソフィレーナはケルッツアの興味対象ならば分野の別なし、疑問を抱き、きちんと調べ、それでも分からない、もしくは意見を持ったことを書き留めている。それは、その分野に興味があるから調べるのではない。彼女はあくまで分野的な興味は菌糸の世界にしかなく、他の研究に手をだしたりはしない。
知恵者が、彼が興味を示したものだから、調べているに過ぎない。
言い方を変えるならば正に、彼の中を、底を知りたいと暗に示す行為だった。
何を考え、何を思うか。彼は。このひとは。
そこにおける基準はすべて、ケルッツアである。
その書き込みに彼は、教えてあげる、と言ったも同然の言葉を残し。
ケルッツアはゆっくりと瞼を閉ざすと、彼女に想いを馳せる。論文雑誌の書き込みも、過去に本人とは知らず聞かされていた彼に対する彼女ののろけも、全て、彼の頭の中を真摯に知りたがっていた。
『でも、可笑しいんです。 この博士達、考えの方針が似ているというか……まるで同じ人物がペンネームを変えて投稿しているみたい・・・。でも分野バラバラだし……。
こんなに凄いこと考えられる人って、結構沢山いるんですかねぇ…。
やっぱり、博士クラスになるとバケモノ並の人たちがいるものなのかしら……。
―――負けて、いられないんじゃないんですか?
世間一般では温厚とかいわれているはずの強情なるプロフェッサー・ワイズ?』
まだ取り入っているという考えが抜けなかったときに助手から聞いた言葉が、ふと耳の奥を掠める。
言われたときは何をいけしゃあしゃあと、と思ったものだが、論文におかしな癖もなく、文章にもこれと言った特徴があるわけではない。おまけに少々書き方を変えている。
つまり、同一人物のようだ、とは、余程読み込んでいるか、研究しているかしないと出ない言葉である。
見ず知らずの者にそんな感情を抱かれても迷惑なだけだが、知恵者は助手を気に入っており。
何ヨり一番傍ニいて欲シい者に興味ヲ持たれルのは、心地ヨイモノダ。
彼女が乞うならば際限なく頭の中を明かしたっていい、と。夜の闇よりさらに黒い瞳は開かれ、楽しげに宙を見ていた。壷の中はいぜん暗く、漆黒に彼を塗りこめて抱く。
僕ダッテ、君ヲ知リタイ。
夜の闇に一対、灰色の三白眼は闇に静まり尚底がない。
けれど、彼女が傍からいなくなってしまったら?
それが彼の不安だった。砂のように形なく、手の届かないところへ行ってしまったら。八ヶ月前、レウィナ流星群を観察した次の日の朝、国立図書館最上階応接室で鍵と一緒に渡した言葉を、もう一度ケルッツアは口の中で、今は見えぬ相手に問う。
『いつまで』
稀有なサンプルか、有能な助手としてか。ともかく今でも彼の真意は変わらない。
手放したくはないが、かといって彼女の、学者の道を潰すこともしたくない。
したくないのだけれど、この問いは譲れずに。
「ソフィ…ぃレンス君。君はいつまで、僕の傍にいてくれる・・・?」
傍に、と。本来問いかけた単語とは違うものを発していることに、彼は意識を割けなかった。
あのとき返った答えは。
『――…そうですね。
あなたと、私が望む限り。…いつまでも。
………好きなだけ。』
そう答えた彼女の、満たされたような、朝焼けの空に満ちるその瞬間を切り取ったかのような鮮やかな微笑み、言葉に嘘偽りがないと信じ、願いつつも。
言いえぬもどかしさは、ケルッツアの内にくすぶり続けている。
夜はさらに更けてゆく。
頭の中に叩き込まれているものの、一応と研究ノートを見返し、様子を見ている菌糸の加減も窺った後、ソフィレーナは先ほどから胸元をくすぐっている銀鎖に通されたもの、の一つ、鍵だけを服の下から取り出した。銀製のそれは冷たく、彼女の体温に馴染まず肌を掠ってはその存在を主張している。
それは、八ヶ月前知恵者から貰った、彼の私室の合鍵であり。
ケルッツアの、ソフィレーナに対する信頼の証だった。
「……――。」
その鍵の冷たさに、彼女は酷く心を傷めている。この鍵は知恵者の信頼の証。あのひとが私を受け入れてくれている証拠。
それが、冷たい。
否、冷たく感じられてしかたがない。
知恵者に一言背いてしまった、その罪悪感はそれほど重く感じるのかと、ソフィレーナは一つから笑いを零した。ばかみたい。思っただけの言葉はしかし、次の瞬間には現実に響いている。
そんなことにもうろたえ、研究室を出て。
ばかみたい。
たった一言だけではないか。それほど重いものでもないだろうに。思う心とは裏腹、彼女は研究室のドアによりかかり、そのままずるずると廊下に座り込んでしまった。
ばか、みたい。
一言の罪悪感が、酷く重い。
彼は私の中でこんなに絶対と位置づけられているのか、とソフィレーナはもう一つ自分を笑う。知恵者に対する感情に名を与えるとしたなら、一体どんな名前が相応しいのだろうか。そんなことに痛々しい苦笑いを浮かべ、すぐにその笑みを悲痛に崩した。思い尊敬し、陶酔までしているからか、そんな人物に己の先を方向性すら隠した、そのことだけで、彼女の心は全身の血が吹き荒れるように痛く悲しくつらいと訴える。
この想いの名前は、何と言うのだろう。これほどの激情を全て表す名などに、ソフィレーナは心当たりなどなかった。
ごめんなさい、と出かかった声は、しかしきつく噤んだ唇で殺され、空気も彼女の耳朶をも掠ることはない。今にも泣きそうな顔で視界を閉じ、彼女は縋るようにその鍵へ、口付ける。
口付けはなくさないためのおまじない。そのものをなくしたくない、そのものに想起される感情を、込められている想いをなくしたくない。母親から教わったそのおまじないは、いつの間にかソフィレーナの癖になっていた。
なくしたくない。
なくなっちゃ、いや。
強く強く想い望み願い、その鍵を銀鎖に通したまま胸元で押し包み抱き。冷たさを和らげるよう掌に握り、胸元に痛いほど押し付け。
鍵は、信頼の証。
なくしませんように。
なクナリマセンヨウニ。
ソフィレーナは、どうにも暴れくる感情の隙間から、どれだけ突き詰めても変わらない、彼女にとっての本当を、身を切るような切願を一つだけ、零す。
「……あなた、以上は…」
声は震えて、それ以上は涙にのまれ、のどの奥でひしゃげて潰れてしまった。
あなた以上はありません。
あなた以上なんて、ないの。
だから、お願いです。
ナくならないで。
―――ナクナラナイデ――……。
彼女には譲れないものがあった。
だから、願うその一言は。
穏やかな夜は三日月の光を受けて、ほの明るく、暗く闇を彩っている。
清らかな星の光は、無い。




