食後
暖炉の小さな火は、時折静かに爆ぜたとも言えないような音をリビングとキッチン続きの部屋に響かせていた。小さく可愛らしい小物と優しい色合いに統一されたそこは、柔らかな雰囲気でもって訪問者を寛がせている。
一等暖炉に近いソファーの上座に座り、夕食後の倦怠感に姿勢も崩し気味、ケルッツアは現在キッチン方面で皿洗いをこなしているソフィレーナを見やった。
彼女は今、高さ五センチほどの低い箱のようなものに乗って、彼の常に見ている知恵者付助手職の制服、すなわち、白いワイシャツに茶系統のベストとズボン、革靴という男性のような格好ではなく、項から肩口近くまで開けた薄手の若葉色のセーターと、白く柔らかそうな材質のスカート、膝下までを覆う、セーターの襟元と裾部分に付けられた細い焦げ茶色のリボンと同色のソックスという、大変女性らしい、彼からしてみれば可愛らしいという感情も伴う装いをしている。時折、部屋の空気に声帯からの振動を溶け込ませることを楽しみながら、今は洗った食器を拭く作業に取り掛かっていた。
美しく光を弾く柔らかな栗色の短髪、後れ毛の下、いつもより露になった細い項には繊細な造りの銀鎖がかけられている。彼に比べれば格段に白い肌の上、輝く銀の光は控えめで美しい。
銀鎖は先ほどまで向き合っていた彼女の前身部分で服の下に落ち込んでいたが、柔らかそうなカーブを描いて持ち上がる二つの膨らみがそのすぐ下にあるため、彼には何が通されているかを窺うことはできなかった。
あの鎖、首飾りはいつもしているものなのか、と思いながら彼の見つめる先、食器を水切り台に置いてゆく音に合わせ、動かされる両肩はなだらかな下り坂を描き、七分袖から見える細い腕の線へと繋がっていた。
肩に限らず、彼女を形作る輪郭はどこもかしこもしなやかでいて、儚い。
まるで、触ったら音もなく崩れ落ちる、砂の…
そう思い至った途端、胸を焼く寂しさと焦燥に一瞬逸らしかけた彼の灰色の瞳は、しかし逸らされることはなかった。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン?
これ終わったらお茶にしますから、もう少し待っててくださいね?」
ケルッツアの視界の中、ちらり、と振り向いて、彼女はそんなことを告げて笑っている。
それに生返事を返しながら、ケルッツアは己が感じてしまったことを強く嘲笑った。確かに助手は脆い部分があるが、だからといって砂は考えすぎだろう。そんな、脆くも崩れ去るなんて。
それよりも。
新たに半刻よりは前の思考を穿り返して、対置きの白いソファー中央に位置する低い木製机の上、己の目の前にある手をつけていなかったカップを持ち上げる。淹れられた食後のコーヒーはいまだ熱く熱を持ち、口に含めば彼の好きな糖度に整えられていることが分かった。
夕食はどれも好物ばかりだった、とぼんやりとあごを上げ、満腹感とどうやら歓迎されているらしい安堵感、そして弛緩に任せ、ケルッツアは一層ソファーの背に沈み込みながら、漠然と夕食前のことに思いを馳せている。
助手君の部屋は大変、興味深かった。
彼女の私室は、リビング部分と同じか少し手狭な真四角の空間に入って右側の壁から本棚、クローゼット、ベッド、机、小さな第二の本棚、上に乗っている戸棚が三方の壁に渡って置かれていた。正面には真四角の窓が一つ、今は分厚いカーテンで閉め切られ、クリーム色の絨毯を敷かれた手前部分は開けている。積読の塔は数えで十五。家具の所々には小さな動物を模した縫い包みやら可愛らしい小物が置かれ、入って左の壁隅には、大きく柔らかそうな水色のクッションと、足を立てて使う型の小さな台が立てかけられていた。
『いいですか? 二つの本棚と戸棚だけ! です。読んでない本は、……見てもいいですけど、もし、崩したりなんかしたら、ちゃんと!!
ちゃ・ん・と! 元に戻して置いてください!?
・・・・・・・・・・い、以上、です。』
助手は私室のドアノブを背に、そう言い置いてから知恵者に場所を譲り渡している。
『大丈夫。君さえ誠実なら、許されたところ以外は触らないよ』
彼としては、言葉通りそれ以外の所に興味はなく。さらに言うならば積読の塔を一つも壊すことなく部屋を出る心積もりで足を踏み入れていた。
が。
『…………』
どうも、気持ちが緩む。
『・・・・・・・・・・・・・・・・』
無言で立ち尽くすこと数秒。
助手の生活している寮の中、その空気に触れてからずっと、ケルッツアは今ひとつ緊張しきれない己に気づいていた。寮の中、時折鼻腔を擽るほのかに優しく甘い匂いは、否が応でも慎重になろうとするその肩の力を抜き去り、彼に言いえぬ心地よさばかりを与えて止まない。
国立図書館の彼の住処である展望部屋で、あるいは応接室で済ましてそつなく出されるコーヒーや紅茶の伴うなんともいえぬまろやかさと甘み。助手が知恵者を叱り付けるその内容が、知恵者の体を気遣うものばかりというこそばゆさにも似た温かさ。
部屋には、その人の心の中が現れる、とは一体誰の論だっただろうか。
ケルッツアは巡る思考に任せ、大きな本棚を一つ見上げた。収納されている専門書の系統は様々でこれといったつながりはないが、どれも自分が興味を示したものであったことだけは一致している。小さな本棚に目を移すと、絶対記憶脳を持つ彼女には必要のないだろう、付箋の挟み込まれた論文雑誌が所狭しと並び立ち。
そのどれもが己が匿名で論文を投稿し採用されたものばかりだということを、彼はひょんな情報の吐露から知っていた。
初めは……取り入っているだけだと思ってたんだっけ。
まさか素で褒めているとは思ってもみなかった。記憶の中、幾度か改変されているかもしれない光景を思い出し、ケルッツアは一つ照れくささに息を吐き、頭を掻く。
言いえぬ安堵感。
彼女の部屋には、彼が馴染むものと認識し、心地よさを感じているものがそこかしこに溢れている。天体観測のとき彼女に背を預けた、その背から微かに感じたものや、もっと近く、眠るその肢体を抱き上げたときに一際強く香った匂いも。
ここは、ソフィレーナ・ド・ダリルの、ケルッツアの助手である彼女の部屋。
その感覚が、彼の緊張感や、もっと言ってしまえば集中力やらを簡単に奪う。
几帳面に置かれている家具の所々に置かれている小物は、ふんわりとした質感のようで可愛らしい。見上げる大きな本棚は厳つい造りで座する書籍も分厚い専門書類だったが、下層部には薄い子供向けの童話集が幅を利かせている。
大きな本棚を見上げている彼のすぐ傍、クローゼットの横にハンガーで吊るされている助手職の制服はぴっちりとアイロンがかけられているのか、皺一つなかった。
そこだけが、ソフィーレンス、の面影を漂わせており、そこ以外は影を見ることすらできない。
部屋の様相が心象の映し鏡だとするならば、彼の名づけたソフィーレンス、は、ソフィレーナの一部分でしかないのだと。今更も今更過ぎる、頭の中では疾うに分かっていると思っていた認識をさらに新たに、ケルッツアは今日日中ずっとお目にかかっている助手の、どう間違えても男性どころか少年にすら見えない私服姿を思い出した。
と、ほぼ同時に、緩み切った頭がおかしな提案を浮上させる。あの姿なら、一緒に歩いていても知恵者と助手とはばれないだろう。なら今度抜け出たときにでも…。
それより、あの格好なら、僕だって、そ、ソフィレーナさん、って呼べ・・・・・・・。
そんなことに現を抜かしていた彼は、見事彼の肩辺りまで積み上げられた積読の塔に下手な触り方をした、このときは肘で強めに突付いた、ため、その塔と他幾つかの塔を巻き込んで。
『ぁ! わッ!! ……・・・・・。』
崩してしまった以上は仕方がない。後で直そうと彼は目的のノート選びとアルバム漁りに取り掛かる。ノート選びはそつなく終え、残すはアルバムと意気揚々開いたページに切り取られている彼女は、どれも。
そんな、何もねめつけなくても……。
岩よりも鉄よりも金剛石よりも硬いのではないのかという表情ばかりの写真が並ぶそのアルバムは、彼の求めているものではなかった。時折、柔らかな表情が写っている写真はあるが、そのどれもがまるで隠れて撮ったかのような角度と視線なのは一体どういうことだ。
どちらにしろ、ケルッツアの興味をちらとも掠らないものばかりが揃っていることに変わりなく。
髪が長い助手君はちょっと新鮮だけど・・・・・・欲しくない。
まだ図書館業務の休憩中にでも自分の手で撮ったほうがマシなものが・・・・・。
そぞろな思考はそぞろな行動しか体内に伝達しないようで、アルバムを見る形で床に着いていた両手を、ケルッツアが痺れと共に少し動かした途端。
一度あったことは二度も三度も起こりうる。そんな俗習を正に体現、知恵者の助手の部屋における滞在時間が大幅に増えたことは、言うまでもない。
積読の塔を直すのは結構な骨、と。しみじみ思い出すケルッツアの座するソファーと向かい合う白いソファー、彼の正面よりはやや左にそれた位置で、ソフィレーナは現在紅茶の準備に取り掛かっていた。用意した茶菓子は即席にしてはそれなりの物を出すことができ、茶葉も丁度買い換えて良いものを奮発したばかり。なんともタイミング良く来訪してきた知恵者に呆れ半分、安堵半分。現在斜め左の向かいでじっと視界を伏せているケルッツアの様子を盗み見て、そっと頬に集まる熱を前髪に隠している。
ちら、とまた盗み見た彼は、何を考えているのか、思考の海に沈んでいるものか。
見られて、た?
食器洗いをこなしていたときに視線を感じた気がする、とは、考え過ぎ、自意識過剰だろうと、ソフィレーナは奮発した紅茶の封を切り、湧き立つなんとも言えぬ甘い香にうっとりと眦を緩めた。
でも、もし。
否否何を考えて。巡る思考回路を反射的に打ち切ろうとして、思い直す。
押さえつければ押さえつけるほど己の陶酔が酷さをましてゆくことに彼女は気づいていた。刈り取ったはずの思考の芽はやたらと頑固で生命力が強く、容易に大人しくなってはくれない。あのひとが、あのひとが私に、興味を示してくれるのならば。それが何でも構わない。有能な助手としてでも、稀有なサンプルとしてでも。私は望んで。
だっテそうすれバ、彼ノ底を知ルことガ、デキル。
大変癪であり情けないとは思いながらも、その言葉が、彼女の本心である。
八ヶ月前の天体観測の日以来、知恵者に対する己の感情と、このどうしようもない想いだけは、もうどうにもならない。止めることなど何度試みても付け焼刃に過ぎず、不可能でしかなかった、と。ソフィレーナはすでにどこか諦めの胸中に達していた。
せめて知恵者にばれないように、仕事に支障が出ないように、この二点だけを重視。
幸いにして今彼はどこかに意識を飛ばしているようで、少しぐらい彼女が内の思考の海に引きずりこまれてもばれそうにない。
先ほどからどうにも抑えられない興味と好奇心、あるいは知識欲に負けて、思考を廻らせることだけ、彼女は己に許すことにした。
瞳の色は、何色だった…?
もし、己を見ていたのなら、その虹彩は灰色のままか、それとも、闇を秘める漆黒だろうか、と。
灰色の瞳が、瞬時にして漆黒に染まる。
そんな想像だけですでに抗えないほどの喜びを抱いてしまう己の頭はやはりおかしいと、そう自覚していて尚、観察対象となったかのような怖気の走る感覚は、後ろに知恵者の気配しかなかったという認識によって、途端ソフィレーナの思考をえもいわれぬ恍惚と歓喜の色一色に染め上げる。鼓動の音は煩く早く、息苦しさに胸の奥は酷く締め付けられて痛い。頭痛と共に襲い来る涙腺の決壊だけは辛うじて耐え、踊り狂う血潮の音が外界に轟いてはいまいかと、焦りにも羞恥にも、身を焼き焦がして。
膝が笑いそうだったの・・・ばれてない、よね・・・?
単に私服が珍しいのかもしれない。だとしたら感想ぐらいは教えてくれたっていいではないか。
これ以上の暴走は身を滅ぼすと、別の考えに、一時的と分かっていながらも逃げ込みながらポットから適温の湯を注ぎ、中に茶葉をセット。透明なティーポットの中で茶葉がくるくると回転し開いてゆく様を見るともなし、ソフィレーナは茶葉と己の心が落ち着いた頃、そっと、ケルッツアの名を呼んだ。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン・・・?」
「……うん?」
わずかの沈黙の後、どうやらどこかから帰ってきたらしい知恵者は、浮ついた声でそう答え、次の瞬間には辺りの状況を認識し、すでに落ち着いている。
そんな彼に、彼女は茶葉が入らないよう注意しながら紅茶を二つのカップに注ぎ、ソーサーにスプーンと角砂糖一つ半を添えてミルク壷と一緒に勧めた。
「……一つ、お聞きしたいことがあるのですけど、宜しいですか?」
少しばかり畏まった助手の口調に、ミルクも砂糖も入れず、淹れられた紅茶をストレートのままで嗜んだ知恵者は、落ち着いた動作で先を促す。
促された助手は、自身も口を紅茶で湿らせた後、どのノートを見繕ったのですか、と知恵者に問いかけた。
その質問に。
「ああ、…君の卒業研究が記されているものを。…この先使うかね?」
そう、彼は逆に問い返す。
ゆったりとした雰囲気の中、紅茶の甘い香りが辺りを和らげて、尚。
「いえ、…どうしてそんなことを?」
彼女は済まして視界を閉じると、さらなる質問を重ね。
「うん、卒業研究を生涯の研究に発展させる人多いから・・・
でも君は、違う?」
ケルッツアは、ゆっくりとカップとソーサーを机に戻し、ソフィレーナを見ている。
けれど。
「・・・・あなたは?」
紅茶の甘い香が部屋を取り巻いていても、暖炉の弱い明かりが穏やかに空間を彩っていても。
見つめるケルッツアに、見返すソフィレーナ。
黒く染まった灰色の三白眼を見返す、濃紫とわずか栗色の香った丸く大きな瞳は。
否。周りが穏やかだからこそ、かもしれない。
ケルッツアは興味を失ったように、飲み残した紅茶の中に角砂糖を一つ落としいれ。
「否……? レモンある?」
「レモンティー? ちょっと待ってください。確か……」
ソフィレーナは彼の要求を満たすべく席を立ち、キッチンへと向かっていった。
糖分が素直に紅茶へと溶け出すようには、彼の目論見は進行しない。斜め下手を睨みつけかけ、止めてケルッツアの追いかけた視線の先、彼女は先ほど乗っていた高さ五センチほどの箱ではなく、もっとしっかりとした台の上に乗ってキッチンの上棚を漁り始めていた。
「………」
一つ、彼は息を吐くと、無意識のうちに後頭部を掻き。
彼女の後ろ姿に瞬時、大きく目を見開く。
ケルッツアの中で思い起こされた記憶は、四年と少し前のものだった。国立図書館最上階禁書庫。両者ともに互いの呼び方を定められない上司と部下。高い三脚の上で精一杯腕を伸ばし、飛び上がっている助手の。
ふと、女性なのに男性みたいな格好だな、と思った。
その彼女はけれど、今。
記憶の助手と、今の彼女の姿が重なったと同時、ケルッツアはポケットからカメラを取り出していた。
「ねえ、助手君。」
呼びかけが、己の掠れた声だと気づく前。
上半身を入れた焦点は、彼女の耳元に合わせ。
「あ、はい?」
何か缶のようなものを手に振り向いたソフィレーナの姿を。
カメラのシャッターが押される、音。
そのときケルッツアは、空間から切り取っていた。
「な、何! 何してるんですか!!!」
切り取ってしまった事実は仕方がない。ほとんど裏返った声で驚く助手に、君も写真をもっているだろう? と知恵者は悪びれる様子もなくにっこりと、内心の動揺と喜びを隠して、笑う。そして、今日撮ったもの、と電子カメラに収められているメモリーの中身鑑賞を促した。
憤りに目を見開いていた助手は、そんな知恵者の、ケルッツアのなにやらやけに楽しそうな様子にため息だけを一つ。レモンティーの粉缶を手にリビング部分へと取って返す。
待っていましたとばかり己の座る左隣に呼び寄せて、ケルッツアはカメラのメモリ画面を映した状態にして彼女の手に持たせ。
「外出なんてそんなにできないからね。あ、これなんか良く撮れたんだよ。」
彼女の手によって切り替えられる画像に映っているのは、全て港域で見られる植物だった。初め胡乱な目で見ていたソフィレーナは、しかしその数の多さに圧倒され、次第夢中になってゆく。
全て見たカメラメモリーの中で、助手の後姿、正確には振り向いた瞬間の姿を撮ったものだけがある種異様で、異様であるにも拘らず馴染んでいる様がなんとも不思議。
ふと。
『賢者は、恋人のようにサンプルと親しい……。心の底から研究対象を愛し、慈しむのだ…。』
昔、学生時代に彼女に語りかけてきた臨時教師の言葉の欠片が、ソフィレーナのうちに再生された。
カメラのメモリーに収められているものは全て知恵者のサンプルと考えるべきもの。
その中に、一枚だけとはいえ加えられていると。
「……」
まるで、という言葉を、果たして使っていいものか。
意識してしまうと途端に早鐘の音が体中を駆け巡り、彼女の体温やら気持ちやらをありえない速度で押し上げていく。先ほど、知恵者がどこかに意識を飛ばしていたとき、助手の内を支配していた思考が一気に蘇り、向き合えと強く要請していた。
このひとに興味をもってもらえるなら。
このひとの興味対象になれるのなら。
カメラのメモリーは、彼の興味でいっぱい。
その中に、一枚だけだけれど。
「・・・・・・・……貴重な研究資料を見せていただき、ありがとうございます。
にしてもどうやって撮ったんです? うちまで壷に入ってきたんだから、港域は出歩けないのでは?」
どういう行動をとれば、選べば動揺を見抜かれずに済むのか。勝手に震えの酷くなる指は、すでに物の感覚が痺れて分からない。ソフィレーナはメモリーを見ている振り、実際は栗色の前髪、その柔らかさで目元に集まっている羞恥、歓喜、背を痺れさせる恍惚に酔いしれた熱を隠して、散々迷った後、ごまかすように口の端に他愛のない言葉を乗せることを選んだ。
隣の助手の様子は考えず、触れず。同じくメモリーを見たまま、ただ、カメラを持つ白い指先が朱に染まって酷く震えていることに何か嬉しい予感を感じながらも、その嬉しさの正体を暴くことがあまりにも勿体無さ過ぎて結局は知らぬ振り。ぶれるカメラを横手からそっと支えて、ケルッツアはしれと返答を返す。
「それがね、出歩けるんだよ。帽子被って観光客を装えば。
タール…テェレルは他の国に親戚がいるから、その親戚の友人の子がお泊まり、という名目でね。
流石に君の住む寮にまでその格好では行けないし、君はなんたって僕の助手だ。
要因がこうも揃うと・・・・・さすがに不味い。」
隣でのんきな、あるいは得意になった声音を発している人物が彼女は心底憎らしかった。カメラを支えるべく伸ばされているその褐色の指先は、心の内を見通されている錯覚を容易に呼び起こす。
本当は・・・ぜんぶ、分かっているんでしょう・・・?
ひどいひと、という文句はしかし心の中にきつくしまって、己から振った話題に相応しいだろう言葉を返す。ここで取り乱したら何かに負ける気がして、ソフィレーナはこの日最後まで事の真意を彼に問いただすことはなかった。
知恵者の学友である第二館長宅に、異国の、褐色の肌を持つ男の子が泊り、なおかつ知恵者の助手が借りている寮にその子が出入りする。これだけの条件が揃えば、確かにどんなに鈍いものでも子供が知恵者であるという推測を打ち立てることは易いだろう。
「で、壷の中に入って? …でも、どうやって帰るんです?
さっき九時を回ったばかりですが、少ないとはいえ人通りはあります。
第一、私の家に届けられた壷がその日の内に回収されるなんて、不自然ですよ……。」
声の震えに無視を決め込み。
知恵者の訪問が宿泊ではないとあらかじめ提示されている助手は、一つ気にかかっていることに内心焦りはじめていた。もうすぐ彼女の姉が所属する劇団からの預かり物を引き取りに人が来る。
朝姉からの電話で都合の有無を聞かれていたソフィレーナは、まさかこんなことが起こるなどと思わずに、否、何か予感はしたが無視して了承を出してしまっていた。
劇団の人が来る前に帰ってもらうか、隠れてもらうか、と思案する助手に、知恵者は角砂糖を溶かしたまま机に放置していた紅茶のカップをおもむろに手に取り。
「……君さ、お姉さんの所属する劇団の荷物、今預かってるだろ。」
こともなげに告げると、そ知らぬ顔でカップの中身を飲み干す。
そんな情報を漏らした覚えはない。ケルッツアの言葉に一瞬頭が真っ白になったソフィレーナは。
「! 内、通者・・・いるんですか。」
思い当たったと同時、思わず頭を抱え込んだ。あれよあれよと想像できるやり取りが哀しい。面白いこと大好きな内通者の当りまでついてしまい、彼女は自分の家族を少し恨みたい気分だった。
そそのかしましたね、と恨みの篭った視線を向けるソフィレーナに、件の人物は子供の悪戯より性質の悪い笑みでもって、ちらりと視線を寄越し、小さく舌を出すとソーサーに残っていた角砂糖の半欠けを口に含む。
「さあ? まあでも、人間は自由に貪欲な生き物だと、僕は思うがね」
その、とぼけた返答は、しかし島で軟禁生活を送っているといっても過言ではない者が発したという付加価値が付くため、ソフィレーナには少し重く響く。
国立図書館のあるウィークラッチ島は、港域とその周りの村二つを入れた面積と比較しても同等か、もう少し広い面積を有する。彼女からすれば狭苦しくはない所と思えたが、その領域から許可がなければ出られない生活を二十年続けている者の認識は、果たしてそうだろうか。
脱走でなく、ただ遊びに出ているだけなら、なら、このくらいは許されてもいいのでは。そんなことを考えながら助手は、呆れた、と痛むこめかみを押さえつけ、己の思考と共に視界を閉じた。
「で、余計な知恵までつける、と。
……本当に、そんな写真でいいんですか?」
視界を閉じ、唇の乾きが厭に気になるほどの緊張を疎ましく思いつつも、声を出す。軽口から急にしおらしくなってしまった声の、伺うような響きと覇気のなさは発した彼女ですら聞き取った途端驚くほど酷かった。
音が決して小さくない場合、当たり前のことだが響いたときにはすでに、相手にも伝わっている。
この頃は取り消したい言葉を吐くことも少なくなっていたソフィレーナは、久しぶりにその発言をかき消してしまいたい、相手の記憶から抹消したい衝動に駆られ、ぐ、と堪えた。ここで慌てては逆にその発言を印象付けてしまう。それは彼女からすれば醜態。かといって人の記憶を都合よく消す術など、持っているはずもなく。
隣の知恵者は、発言をどう思ったか。急に鋭さを増した感覚は痛みを伴い彼女を圧迫する。まるで全身が耳になったかのような心地の中、随分と長く感じる沈黙を割って。
答えられた言葉は。
「…ん。これがいい。
さあ、もうすぐ迎えが来る。…おいとまするよ。」
声の柔らかさに、思わず彼女は視界を開いた。穏やかな響きの中、晴やかさとわずかの寂しさを汲み取ることのできる声は。
これがいい。
それは、知恵者が意思を持ってその写真を選んだ、そんな取り方のできる言い方に聞こえる。
そう思った途端、選ばれた写真には一体どんな意思が潜んでいるのか。彼女は瞬時そんなことを考え、問おうと思ったが。
気を取られた彼女の手から静かにカメラは回収され、わずかな軋みの音と共にソファーの圧力は変わっていた。
立ち上がり、一つしかない部屋のドアノブを捻ったらしいケルッツアに、ソフィレーナは出した茶菓子を手に急いで声をかける。
しかし。
「あ、待ってください。
……折角ですから、お茶菓子、お包みします。」
すでに、問うタイミングからは逸脱してしまっていた。
時計の針は、指定の時間に迫ろうとしている。手狭な玄関の小さな照明の下、ほくほくした顔で白い紙包みを手に、知恵者と呼ばれる子供の姿をした男は壷の中に収まっていった。
そんな男の、帰る準備として壷の中に入る、何とも複雑にして滑稽な光景を見ながら木箱の蓋を手にしている助手は、呆れと、ほんのわずかの寂しさに複雑な表情を浮かべていたものの、一つ深呼吸。
次の瞬間には、優秀な助手然と冷静さを装う。
「じゃあ、おやすみなさい、ケルッツア・ド・ディス・ファーン。
…また明日。」
別れの挨拶と共に、最後、木箱に蓋をさしかけた助手を、木箱からのくぐもった軽いノックが押し留めた。
何事かと蓋をする手を止めて、中を覗き込もうとした彼女に。
「今日は、ありがとう。…ソフィレーナさん。」
声は、くぐもっている上に掠れている。
その響きが耳朶を掠ったとほぼ同時、彼女は木箱の蓋を危うく落としそうになり、指先の瞬発力で何とか耐えた。
彼は今、何と言ったか。
今、あなた、ソフィレーナ、・・・って・・・・・・
視界の大半を占める古ぼけた木材作りの蓋表。箱の中から覗く暗がりに浮かぶ青は、知恵者の着ているパーカーの色。蓋を逸らしてゆくと上に向かって膝を曲げた状態で突き出しているズボン越しの膝頭と、靴が見え。
その場所に、心なし赤く見える褐色の顔が、ひょい、と覗いた。
「じゃあ、ソフィーレンス君、又明日。」
にっこりと、彼はその灰色の瞳を閉じてひらひら手を振っている。
届けられた声の掠れはさらに酷い。
咄嗟、何か言葉を募ろうとした彼女は。
「今晩はー。
夜分遅くに済みません。トルコネリア劇団の者ですが…」
玄関の戸越し、響いた呼びかけに心の勇みを諌め、肩もすくめ、大人しく木箱に蓋をした。




