食前
『だって君、断らなかったじゃないか。』
低いソファーに腰掛けて、出されたココアで冷えた体を温めている知恵者は、カップから立ち上る白い湯気をくゆらせつつ平然と、そうのたまった。
洗った野菜の水気を切り、包丁を入れてゆく。ニンジンは乱切り、ジャガイモは角切り。他の野菜類も同様に一口大よりやや大きめのサイズに切る。硬い根菜類が切り終わったら水を少し入れた鍋の中に入れ、柔らかくなるまで煮。
タマネギ、入れないとちょっともの足りなくなるのよね・・・・・・・。
いっそのことすり潰しても……否否、子供じゃないんだからそこまでする必要はないかしら…。
ちゃんと煮込んであれば、それほど苦でないらしい・・・し?
鶏肉は叩いて二つに切り分ける。切るときにちょっと力が入るのは安物の肉だからか、ともかく筋を断ち切り、柔らかくするために包丁の背で叩く。叩く。
私室方面から、ごとん、どどど、へんな音がするのは何故だろう。
『大丈夫。君さえ誠実なら、許されたところ以外は触らないよ』
あの……本当に、本棚と戸棚以外の所は引っ掻き回してないでしょうね……?
不安と呆れで痛み始めたこめかみに、そこだけは唯一美しいと褒められる栗色の髪を掻き分けて手を遣り、熱したフライパンに油を少し引く。薄く櫛切りにしたタマネギを入れ、しんなりしてきたら切った鶏肉を皮面側から投入。焼き色が付いたらひっくり返し、少し放置。その間に根菜に火が通ったかどうかを確かめる。
火が通ったことを確認後、フライパンに小麦粉を振り入れ、木ベラでかき混ぜてから根菜ともども煮汁を注ぎ、こびりついた小麦粉やら油やらをこそげ落としてトマト缶から惜しげなくホールトマトを入れ、固形スープとハーブ追加の後ひたすら煮込む。
換気扇を回していてなお、焼いた鶏肉と煮込まれている野菜の甘さ、何より食欲をそそるトマトの酸っぱくもどこか辛いような匂いが漂うキッチンの中で、ソフィレーナ・ド・ダリルはそっと息をついた。
一先ずと手を洗い、身長の足りなさを補う低い台の上から降りると、近くの木でできた椅子に腰掛けるべく身に付けている黄色いエプロンの下、七分袖のごく薄い黄緑色のセーターの裾部分に付けられている黒く細いリボンと、春向きにあつらえた白く柔らかな膝丈のフリルスカートを手で抑えて、楚々と腰を下ろす。
丈長のソックスと、スカート生地の境界線から露出する膝頭を両手で覆い隠し、湧き上がってくる今更も今更ながらの羞恥に顔を赤らめている。
こんなことなら……スカートなんて履くんじゃなかった……。
否、スカートでももうちょっと丈の長いものを選べば、ソックスじゃなくて少し厚めのタイツをはいていれば、などなど。巡る頭は料理に使われている火気とは無関係に、気恥ずかしさで熱を帯び。
着替えるにも私室には今。
一体、五分で部屋の整理をし、あまつさえ着替えるなんて芸当ができるわけがない。思えば結構仕組まれた中で動いていた、と。また痛み始めるこめかみを、スカートとソックスでは覆いきれない肌を片手で隠したまま、もう片方の手で強く押さえつけて、ソフィレーナは今度こそ頭を抱え込んだ。
そして、今までの経緯を頭の中に再生させていく。
『あー…チキンのトマト煮なんか美味しいよねぇ。今の時期には合わないけどさぁ、こう、よく煮込まれた柔らかいチキンから出てくる肉汁にトマトと煮込まれた野菜の甘さがなんともいえず…匂いを思い出すだけでも堪らないものがあるよねぇ。』
国立図書館休館日。
にっこりにこにこ。五月も終わりかというこの日、知り合いから大量にトマト缶を貰ったらしいテェレル・ド・イグラーン第二図書館長は、こんなにあっても困るから、と彼の近所に住むレティシア・ド・パレッツィアや、他、顔見知りの国立図書館職員などで彼の家近くに住んでいる者に貰ったトマト缶をおすそ分けするべく、その無駄に太った巨体を酷使してねり歩いていたらしかった。
彼の住む家から近い寮に住んでいたため、トマト缶のおすそ分けを受けたソフィレーナに、第二館長はチキンのトマト煮の素晴らしさを滔滔と語って、彼女の借りている寮の玄関を後にしている。
訪問が夕方の五時近くであり、折りしもそろそろ夕食を、と考えていた矢先の出来事だったからかもしれない。
せっかく、トマト缶を二缶も貰ったのだし……。
今日の夕食、それにしようかな。
丁度鶏肉も安かったはず。
うっかりそんなことを思ってしまった彼女は、いそいそと料理に必要な物を買いに出かけ。
帰ってきてみたら、大小二つ、荷物が届けられていた。
『・・・・・・・?』
一つは小さな段ボールの箱であり、割れ物注意、のシールと、天地無用のシールがべったりと張り付いている。
側面に張られた伝票の贈り主の欄には彼女の母親のサイン。何よりソフィレーナは先日、綺麗に花瓶ができた、という、趣味の陶芸作りで極めて稀な成功をおさめて喜ぶ母の声を電話越しに聴いたばかりだった。
一つはママからよね。
もう一つ……は…
その大きな箱は木箱で、伝票の記載を信じるならば壷が一つ入っているらしい。高さは地面から、彼女の腰の辺りよりは少し下くらい。幅と奥行きは彼女の指先から肩の辺りまでの距離と等しかった。
贈り主の名は明記されておらず、宛名に彼女の名が記されているばかり。
『…………。』
不信感いっぱい。とはいえ借りている一戸建ての寮、高床式で作られた玄関の階段真ん中にそんな荷物を放置しておけるはずもなく。母からの荷物を先に家へと上げた後、何とか階段から先、その大きな箱を玄関に押し込み終えた彼女は、一応いつでも逃げられるよう扉の取っ手に手をかけたまま、そこで一息。手狭な玄関いっぱいに場所を取る箱をまじまじと見やった。
と。
がたり、と箱が揺れ。
『こんばんは。お帰りソフィーレンス君。
早速で悪いけど寒い! 早々とここから出して貰えないかね?』
がたごとと動く箱から、くぐもってはいたが、ソフィレーナにとってはよく聞きなれた、それでいて今日は一度も聞いていない声がしきりに、寒い、出してくれ、とせがんでいる。
な・・・・・・に・・・・・やってんですか? 栄光誉れ高き賢者、さま?
とりあえず、いてはまずい人物の声を隠すべく半開きだった扉を閉め。
見る間彼女の、長い栗色の睫に縁取られた上質な紫水晶の濃紫に淡く栗色の香る一対の大きく丸い瞳、柔らかな眉の線、少々高さは足りないが筋は通った小さな鼻、小さくはないが大きくもない口元、という、庶民の平均的にはまあいい部類の顔が、呆れに焦点を無くしていく。
できることなら、何も聞かず、何も言わず、知恵者と呼ばれるかもしれない子供の外見のクセにいい年こいたオッサンを可能な限り玄関から天高く放り投げて扉を閉め一切合財知らん振りしたい。心の底から思う彼女は、今自分の身に起こっていることの理由を探り始める。
何で・・・・・・あなたが、ここに・・・・・・しかも、壷・・・・・。
つぼ!?
思い当たったのは今から八ヶ月と少し前の記憶。
去年の秋、晩秋に差しかかろうという十月半ば。レウィナ流星群観察のその夜に、紆余曲折、知恵者の私室で助手が躍起になって欲しがった物の決着法として、知恵者、ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、助手に物々交換を提示していた。
『ふむ? 分かってないねソフィーレンス君。君ばかり選ぶ権利があるのは可笑しいと思わないの?
君に与えられた条件は全て公平に。目には目を。感謝には感謝を。ノートにはノートを。
君はそのノートを選んだ。なら当然僕にだって選ぶ権利が生じる。
と、なれば週末かな…。ここ五年は大人しくしていたし・・・ばれることもないだろう…。
感情を抜かした全ての条件において、僕と君は公平でなくちゃ。』
『ちょ、ちょっと待って!? あなた、まさかウチに来る心算』
星明りの中、天窓からの光を背景に、おっとりと顎をあげて小首を傾げる知恵者はなんとも悪魔じみている。問答無用の雰囲気を纏い、目の前でノートを抱きしめながらも色々と焦って困惑気味の助手に一切容赦せず。
『さすが、のみこみが早いね。近いうちに第二館長辺りから君の仮部屋に大きな壷が届けられると思うけど、くれぐれも受け取り拒否はしてくれるなよ?』
そのときの悪魔の笑みは、楽しげ、というよりやけくそに近かった、とソフィレーナは思い出す今でも頭を抱えたくなった。壷。週末。一応立ち去ったとはいえ、第二館長の来訪。第二館長はトマト缶を知恵者の助手に渡して、チキンのトマト煮の素晴らしさを語っていった。トマトは知恵者の大好物。
何より、チキンのトマト煮、それは数あるトマト料理の中で彼の愛してやまない物の名ではなかったか。
交わした物々交換の約束は、確かに棚上げのまま月日だけが過ぎていった。初めのうちは警戒していたソフィレーナも、一ヶ月、二ヶ月、と日が過ぎてゆくにつれ、警戒心を解いてゆく。大いなる安堵に胸を撫で下ろし、わずかの寂しさは知らぬ振りで通して、五ヶ月が過ぎた頃には完全に腑抜けていた、といえる。
しかし棚に上げたモノは、立ち消えてくれるほど優しくはなかった。
でも、まさかこんなに経ってから実行するなんて思いませんでしたッ!!
一体何ヶ月経っているのか、その間一切そのことに触れなかったじゃない。
ずきずきと痛むこめかみ、一般に偏頭痛と呼ばれる現象に文字通り頭を抱えこみ、半分は勝手に早くなる鼓動の疎ましさに首を振り、現在木箱の中の壷に納まっているらしい知恵者、の助手は手狭な玄関に残された、もっと手狭な空間にしゃがみこんだ。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほんとに、来ちゃった、んですか・・・・・・・』
悲壮的、少し震えて呟く声に、くぐもった声は怪訝そうに答える。
『何を当たり前なことを……。
それより早く。出してってば。ソフィーレンス君っ』
きっと、首を傾げて本当に不可解そうな顔をしているのだ。思い描けるケルッツアの子供じみた子供の顔に、休日には付けていないはずの胸を抑えるコルセットに締め付けられるような感覚と、少し差してしまう己の頬の赤みが、彼女は心底憎たらしく、情けない。
『だって君、断らなかったじゃないか。
……それに、貰い逃げはあまり褒められた行為じゃないと思うがね?』
極めつき。壷と箱から出たケルッツアは、通された彼女の家のリビングとキッチン続きの部屋に置かれている白く背の低いソファーの上座、暖炉寄りに座って、出されたココアで体を温めながらそうのたまっている。
常見られる黒く裾の長いコートとスラックスではなく、軽めのパーカーと、全体的に青系統で統一された外見に似つかわしい服装の知恵者は、どこからどう見てもただの悪ガキだった。灰色の髪と褐色の肌、特徴に挙げるならば三白眼に近い目元の涼しさ、そんな風体を有してはいるものの、観光か仕事か、何がしかの用で科学大国を訪れている南方他国民の子、と言われれば疑う余地はない。
彼から見て右隣、ソファーの背に立って控えているソフィレーナは、知恵者であるはずの者のあまりの普通っぷりに呆れて、ある意味感心、そんな心をないまぜにした言葉を漏らした。
『どうみても、普通の…他国民の子、ですね…』
その声を拾った知恵者、否、ケルッツアは上機嫌に、少し得意気になって答えを返した後あっけらと笑っている。
『うん? うん。島を出てしまえばね。黒いコートは温かくていいんだけど、あのコートとズボン…それから白系統の上着も。セットで着ていると僕だとばれやすい。そこを変えると結構ばれにくい。
それにこの顔は、比較的どこにでもいる造りだから。多分、僕の助手として知られている…
君と一緒にいても、王都辺りじゃばれないよ。』
『ッ!』
回答の最後に自分が引き合いに出されたことに、ソフィレーナは静かに息を飲んだ。自動的な高鳴りが浅ましく悲しい。彼の言動はあくまで、彼が今の格好でいかに知恵者とばれないかの安全性についてであり、助手を引き合いに出したのは、知恵者とセット、で数えられる、つまり知恵者のアイテムを一つぐらい無断外出時に揃えていても大丈夫、という例でしかない。
頭のどこかはそう分かっているのに、それでもケルッツアの言葉が成された途端、ソフィレーナの心は動いた。
一緒にいても・・・ばれない?
なら、と展開する想いは、知恵者の無断外出を肯定することとなる。知恵者は研究旅行と王の要請、他、火急の用、定められた十三人の外出許可証がないと島を離れることはできない。
なにより、例である。ケルッツアが彼女との外出を望んでいる言動でもない。
何……ばかなこと思ってんだか。
ソフィレーナは一瞬でも巡らせてしまった思考を恥じて、不可能な話に蓋をした。
と共に、彼女にとっては少々複雑な話題へと頭の中を切り替えていく。
科学大国は腑抜けているのではないかと言うほど治安の良いことでも知られている。不思議と物騒な事件などは起こらない、少しどころかかなり変わった国である。
ソフィレーナも容姿はこの際置いておくとして、その血は曇りなき正真正銘の姫君だが、子供の頃から予算の関係で専属の護衛を付けられていないにも拘らず、人体解剖組の目を除いては、特に危険な目にあったことはなかった。現在も庶民に混じっていても絶対記憶脳以外は言われない、身の危険もない。
そんなすこぶる、あり得ないほど、ほとんど異常といって良いほど良すぎる治安の良さに胡坐をかいて生活している彼女は、知恵者、国の有名人が服装を変えただけで庶民に紛れてしまうという警備隊の甘さに少なからずショックを受けていた。
本当に、大丈夫なのかしら・・・この国。
密かに国の未来を憂いてみたりしている助手の心など見通せるはずもなく。
無慈悲か無情か。助手の家をお訪ねあそばされている、栄光誉れ高き賢者・ケルッツア・ド・ディス・ファーンは飲み干したココアのカップを、座るソファーの真ん前の低い机に置き、咳払いをする。
『さあ、体も温まったことだ、君に五分時間をあげよう。
その間に部屋に行って、僕に見られたくない物を隠してくるといい。
僕の目的はノート一冊と写真一枚。指定された箇所以外は触らない。
けれど目当ての物が指定された箇所に無い場合この限りでない。
質問は?』
横手から問答無用と掛かった提案、否、すでにルールと決められたものの説明に、彼女は特に本気でもない憂いから浮上すると意味を読み取り、立っている己の視線左下、座るケルッツアを胡乱に見やった。
『質問ではなく確認です。
無駄な小細工をしなければ紳士的に振舞う、と、そういうこと。』
隠し立てしたら部屋を荒らしてでも探し出す、そんなニュアンスがあるだろうことを疑問ではなく完全に断定して問いかける。
見上げる知恵者は最良を得た、と言わんばかり、賢そうな笑みを助手に返した。
『そういうこと。飲み込みが早いね。
さあ、行っておいで?』
回想からそっと目覚めたソフィレーナに、キッチンの音がしっかりと輪郭を持って舞い戻ってくる。蓋をされて煮込まれているフライパンの中身。じゅくじゅくに潰れ、スープへと溶け出すトマトの酸味と仄かな甘みを伴って香るなんともいえない匂いは、否が応でも空腹中枢を刺激して止まない。
弱火だったコンロの火をさらに小さくしてから、彼女は出してしまった洗い物に取り掛かってゆく。水場で動きながら、チキンのトマト煮だけではおかずにならないだろう、と冷蔵庫の中のものを思い出し、もう一、二品作るべく頭にレシピを思い浮かべた。
『大丈夫。君さえ誠実なら、許されたところ以外は触らないよ』
そう言い残し、整理された彼女の私室へとケルッツアが消えてから、すでに時は半刻と少し経とうとしている。随分と長い滞在に不安になる頭を料理のレシピでかき消して、ソフィレーナは自身の背後、暖炉の二つ向こう側から時折聞こえてくる、明らかに積読の塔が崩れる音、をバックグラウンドミュージックに、作業に専念するよう努めた。
お願いですから…積読の塔はちゃんと積みなおしてくださいよ?
こめかみが締め付けられるような痛みに眉を顰めつつ、それでも料理内容は知恵者の好物ばかりを自覚なく選び。
できあがった料理の品々を見て初めて思い至った彼女は、惨敗感に打ちひしがれている。
結局、なんだかんだと思うところはありながらも、ソフィレーナはケルッツアの来訪が、嬉しかった。




