ロークローク
降る。降る。雪が降る。
降る。降る。哀しみの花が降り続いている。
結局、本土悪天候のため、国立図書館は臨時休館になった。
・ロークローク
昼を過ぎようかという頃、その部屋にベル、電子音が鳴り響いた。
規則的なそれは白く染まる窓辺で声を張り上げる。
しかし運悪くも降り続ける雪に吸収され、ややカントリー調に傾いて整えられた部屋の隅々にまでは、その音は届かない。
暖炉の燃え盛る音にかろうじて勝つ程度の電話は、コール十回、唐突に切れた。
回線の切り替わる音。
ついで。
〈…ロークローク?
……。ソフィーレンス君? ……いないのかね?
部屋の暖房が壊れた。薪はどこにあるのか折り返し連絡が欲しい。…番号は……〉
ひとりでに流れる声は途中から、急いで近付き勢いよく開けられたドアと踏み込んでくる足音に掻き消され、肝心の彼女の耳には掠る程度しか拾われない。
しかし、その音だけでも彼女には十二分だった。
録音のボタンを切ると同時受話器に出、彼の助手は電話口に整わない息のまま話しかける。
「ロークロークッ…ドクター、ドクター・ワイズ、私です。
薪ということでしたが、地下倉庫の、E庫、にあります。ただ乾いてないから火の付きは、悪いかもしれません……。
……で、うちの番号は、名簿から?」
少しだけ受話器から口元を外し、受け手は大きく息を吐きだすと呼吸を整えた。
それが、唐突な午後の始まり。
・揺らすもの
白々と空を舞う雪の結晶は、薄明るい空の色と相まって窓辺から望む世界を白く染め上げていた。
人気のない館内は常に温度の保たれた書庫スペース以外は白く霞み、幻想的な雰囲気を作り出している。
そんな中、国立図書館八階、一般利用者公開展望・休憩スペースの暖炉近くで、今現在は塔の主、知恵者は電話を抱え込んでその場の床、絨毯に座り込んでいた。
〈え? ……昨夜、雪降ったんですか?〉
耳元につけた受話器から彼によく馴染んだ声が聞こえてくる。
あまりの寒さに引っ張ってきた毛布に包まり、壁に背を預けてその声に肯定を返しながら、彼はもう一本、と暖炉に薪をくべ、受話器の向こうで驚いているらしい助手にこの島を取り囲んでいる結界の原理を説明した。
〈へえ……。初めて聞きました。それってつまり、極力摩擦力のない膜のようなもの、ってことですね?〉
「そう、で、結構不安定だから時折風やらに混じって雨とか雪も入ってくるんだ。
……昨日はそれが酷かったよ。……僕の部屋からも雪が観測できてね」
〈そんなにちゃんと?
……やだ、じゃあ、結界発動しているときでも、日によっては音信可能だったりします?〉
耳に押し付けた音をよく聴きながら、それはどうだろう、と苦笑して、彼は目の前、三メートルあるかないかの国立図書館としては低い天井から床までを切り取った窓の外に目を馳せた。
「不可能じゃないだろうけどね、と、ちょっと待って」
常ならばブラインドの下がっているはずのそこは今、知恵者の趣味でブラインドごと上げられてガラスがむき出しの状態。
部屋と外の温度の差にできる曇りの先、どこまでも判然としない白に傾く灰色から目を外し、ケルッツアは左の肩に受話器を持ちかえ耳朶との間に挟みこむと同じフロアの売店で買ったコーンポタージュの缶を開ける。
「で、続きだけど、電話や通信機器はちゃんと聞き取れないよ。
……時間が短すぎるし、まして不完全な膜は消えるときと現れるとき…、というより、網の目ができるときかな、その法則性がよくわからない。
まあ、メールくらいなら、タイミングが合えばどうにかなるかもしれないけど、ほとんど運だから……実質は、音信不通だ。使えない」
わずか活気付いた助手の声を切って落としコートの袖を手袋代わりにして缶をすする。
そんな知恵者の耳は、押し当てた機械から残念そうな響きを明確に拾い取って彼の頭の中に響かせた。
その響きに眦を細め、彼は薄暗い天井を見あげてそっと瞼を落とす。
辺りは酷く静かで、視界を閉ざせば毛布の中、彼女の、助手の声だけが脳に揺らぎを与える。
途切れそうな話題を、別の燃料を投下することで繋ぎとめて、彼は毛布に暖を求めた。
「論文といえばさ、君、『サヴィル』誌の一項目書いたろ」
もう少し。
もう少しだけ。
乗ってきた助手に、小さくほくそえんで。
「匿名だろうとね。わかるよ。…………理論展開がこの間話したときと同じだったもの」
知恵者は楽しげに助手と話している。
鼓膜を通して、ああ、脳が揺れる。
・音の洪水
鼓動の高鳴りは、繋がる電話のせいだけではない。
今まで繋がることなどなかった電話と、降るような言葉と。
夢のような心地で彼女はそっと、窓辺の雪を見やった。
積もる雪は止むことを知らず窓からの世界を雪煙の中に隠しているようだった。
薄暗い空に反応したか、昼間でも王都とその周辺は街灯の明かりが消えることはない。
時折ひょう、と風の吹き込んでくる古い宿舎、国立図書館職員専用の寮。一戸建ての棟が所狭しと並ぶその一つの中にあってときには荒れた波の音さえ聞こえる、そんな港区はしかし今、大雪に見舞われていた。
一戸建て寮自室のダイニングとキッチンの繋がった部屋の中、柔らかな色合いの低いソファーに腰掛けて、助手は今コードから伸びる受話器を強く耳に押し付けている。
「……なんで、わかったんですか? 匿名でしたよねそのレポート」
通信相手の言葉に彼女は軽く息を飲んだ。よく暖房の利いた部屋の中、彼女の声は少し強く空気を揺らしたが、やはりそれほど響かない。
耳に押し付けた受話器の底で、少し笑いをかみ殺す声。耳の真ん中で酷く得意げなそれは、掠れて助手の羞恥、あるいは優越感を揺さぶっている。
〈匿名だろうとね。わかるよ。…………理論展開がこの間話したときと同じだったもの〉
「や……この前って三ヶ月前のことでしょう…? そりゃ、話し合いで半日潰しちゃいましたけど」
〈ふふ。あのときは凄く面白くてね、こう、理論をくる、と返すところとかさ。
結構刺激になったから、よく覚えている。〉
電話では相手の顔や表情がお互いに見えないはず。と、彼女は部屋の熱気以外の要因で赤くなる頬を片手で覆い包んだ。
テーブルの上、いれたまま手をつけていなかったココアに視線を投げて、もうそれほど美味しくない温度の液体に軽く口をつけ、落ち着こうとする。
鼓膜の内から頚動脈か、響いてくる彼女自身の心臓の音を知らぬふり、言葉を切り出した。
「そう、です。私が書きました。
あの、出来…………ひ、ゃく点満点中、付けるとしたら何点、ですか?」
亜麻色のセーターの裾を握り締めて、声に極力の緊張感を滲ませないよう努力しながら問いかけた助手の言葉に、耳朶に響いた点数は。
「は? ……よ、四十点!?」
鸚鵡返しに聞きかえす彼女の心境は、酷評といえど踊っていた。
脳に直接知恵者の言葉が流れ込んでくる。彼女の、口頭での理論を褒めた彼の言葉も、論文での遠慮を見抜いた辛らつさも、全て逃さないよう受話器とは反対の耳を手で塞ぎ彼女は言葉を聴いている。
夢の中のように、現実感がなかった。
「三十二行目……”しかし量子の世界では”? から始まるところですか?
…………そんな事言ったって……あ、はい、は、はあ、い?」
討論じみてきている会話が、それでも助手は楽しい。
もはや高鳴りがどの原因で煩いのか、知恵者と理論とに追い立てられて彼女には判別がつかなくなっていた。
「……プロフェッサー……。
あなたに満点のもらえるような論文書いてたら、私誰にも相手にされなくなる気がします。ええ。ええ……心の底からそう思いますわ」
受話器から与えられる言葉の一言も、その呼吸の音ですら聞き逃さないように。
「ほっぺた膨らませても聞けません。
キューの字書いてもやーでーすー。
……睨んでも、って、どこ睨んでるんです?」
助手も楽しげに知恵者と戯れている。
ああ、その、音に蕩けてゆく。
・おやすみなさい
緩やかに暗くなってゆく外の光景が、彼らには惜しくて堪らない。
散々っぱら喋ったせいか、互いに喉の痛い助手と知恵者はこの時間の終わりを予感していた。
外の光景は相も変わらぬ雪景色。しかし空気の色合いは徐々に暗く翳ってゆく。
通話料も、幾度かかけなおし互いで割ったものの相当な額になっているはず。
これを最後にしようと、言葉を切り出したのは助手の方だった。
「ねえ、ケルッツア・ド・ディス・ファーン……。
夜の雪って、奇麗ですよね」
囁くような助手の声に、静かで穏やかな声が続けられる。
「うん。
……ここからじゃそう見ることはできないけど、その白さが、奇麗だね」
小さく同意を返してから、彼女はそっと夜の挨拶を送った。
その挨拶に挨拶を返して、彼はそっと受話器を電話へと返す。
「おやすみなさい」
「おやすみ。……よい夢を」
わずかの寂しさを伴って、回線は不可視の力に切断された。
繋がらない電話を前に、彼らは。
雪はとめどなく降っている。




