第六話 原作にない逃避行
石の上にも三年、とはよく言ったものだと思う。
人間、三年もあれば変わる。私は心の中で深く頷いた。
正確にはまだ二年半ほどだが、少なくとも、私の目の前にいる男は随分と変わった。
今朝も私が少々寝過ごして居間へ下りていくと、すでに廊下の清掃は終わっており、竈では鍋が湯気を上げ、食卓には二人分の器が並べられていた。
香草を入れたスープと、焼き直したパンの香ばしい匂いが、晩秋らしく冷えた居間を柔らかく温めている。
「おはよう。今日は寒いから、稽古の前に何か飲む?」
窓から差し込む朝日を背に、ノエルが振り返る。
項に掛からない程度に整えられた艶やかな黒髪に、穏やかに輝く朱色の瞳。白い頬は健康的に色づいている。
まくった袖から覗く引き締まった腕には、初めて会った頃にはなかった筋肉がついていた。
背も随分高くなったので、最近は話すたびに少し見上げなければならない。
それだけでも十分な変化だが、何より驚くべきなのは、その口から出てきた台詞である。
「……あなた、本当にノエル?」
「朝から失礼だな。」
彼は眉を寄せながらも、私の前へ温かい茶を置いた。
ふわりと立ち昇った湯気を見ながら器を受け取ると、指先へじんわりと熱が伝わる。
以前は寝台に幻を置いて別室へ逃げていた男が、今では私より先に起き、寒さまで気遣ってくれるのだ。人間の適応力というものは、やはり凄まじい。
「いやー、立派になったと思って。」
「はいはい。冷める前に飲んで。」
ノエルは軽く受け流し、竈へ戻っていった。
口を開けば煩悩を撒き散らしていた頃の面影は、ほとんどない。
あの警策代わりのスリッパも、ここ一年半は無事、本来の役目だけを果たしている。
途中で一度底が抜けたため買い替えたのだが、そのときノエルは妙に嬉しそうだった。
別荘の窓から見える森は、今年も葉を落とし始めていた。
ここで迎える冬は、もう三度目になる。
今では廊下のどこが軋むかも、台所の窓がどのくらいの風で鳴るかも、すっかり覚えてしまった。
最初は余っていた棚も、本や画材で埋まり、食糧庫には冬に備えた保存食がどっさりと並んでいる。
私が鍛錬を教え、その後ノエルは絵を描く。
二人で食事を作り、町へ買い物に行き、たまに、どちらが窓を閉め忘れたかで言い合う。
そんな暮らしが、いつの間にか当たり前になっていた。
約束の三年が近づいていることは、もちろん覚えていた。
しかし、その後をどうするかは、まだ具体的に話していなかった。
ノエルも何も言わないので、私も、今すぐ決めなくてよいこととして頭の隅へ押しやっていたのである。
そんなある日、父から手紙が届いた。
冬物は足りているか、寒くなる前に必要な品を書いて寄越しなさい、といった、いつもの気遣いから始まる手紙だった。
私を喜ばせるつもりなのか、兄が最新の拷問器具を購入した話なども添えられている。
ところどころ薄目になりながら読み進めていた私は、途中の一文で目を見開いた。
『よい縁談があるので、一度屋敷へ帰ってきなさい。』
柔らかな言い回しではあったが、読み間違えようのない内容だった。
書かれていた相手の家名には、聞き覚えがあった。
父や兄の会話に何度も出てきた名前であり、王家とも、そういった意味で関わりが深い。
資産も地位も申し分なく、父から見れば、可愛い娘を任せるに足る家なのだろう。王家から最も重要視される一族の一つである。
しかし、私から見れば、月のない夜に背後を心配し続ける生活を送れ、という意味にしか取れなかった。
そこへ嫁げば、表向きには穏やかな顔で茶を飲み、誰かの話が出た途端に、その人物をどう扱うか考える暮らしになる。
父や兄を嫌っているわけではないが、自分もその一員になりたいかと聞かれれば、答えは決まっていた。
「何かあった?」
向かいで絵の下描きをしていたノエルが、不思議そうに手を止めた。私が長く黙っていたからだろう。
思わず口元に力を入れたが、すぐに、後ろめたい話でもないと思い直した。
確かに彼の描いた原作では、ロゼリアは結局主人公の手に落ちたが、今の二人はただの友人、あるいは師弟のようなものである。
隠すようなことではない。
そう自分へ言い聞かせ、手紙をそっと机へ置いた。
「縁談。」
「……何?」
「父から。会わせたい相手がいるから、帰ってこいって。」
彼の手から筆が落ちた。
机の端を転がり、私が押さえるまで、ノエルはそれに気づいていなかった。
「誰と。」
「同業の伯爵家の長男。」
「そんな展開、なかった筈なんだけど。」
「私が原作より真面目なせいかもね。ここでは現実で進んでるわけだし。そりゃ変わるでしょ。」
「……会うの?」
ノエルの声が、低く掠れた。
私は筆を彼の方へ戻し、少し考えてから首を振った。
「会いたくない。うちと繋がりの深い家門だから、嫁いだら結局、誰かの恨みを買う生活になるでしょ? 絶対嫌。」
「なら、断れば?」
私は眉を顰めながら腕を組んだ。
「でも、断ったら次の話が来るんでしょうね。もうすぐ二十三だし、普通の貴族令嬢は結婚してる年齢よね。」
手紙から視線を外し、部屋の中を見回す。
窓辺には描きかけの絵が立て掛けられ、椅子の背には、朝の買い物で着た上着が二枚掛かっている。
台所へ続く扉は少し開いていて、昼に煮込んでいた料理の匂いが、まだ微かに残っていた。
父も兄も、私が何一つ不自由のない暮らしをできるよう、場を整えようとしているだけだろう。
しかし、知らない男の向かいへ空々しい笑顔を浮かべて座る自分を想像すると、胸がぐっと重く、冷たくなる気がした。
「……出奔、しようかな。」
口にすると、それまで胸の中で絡まっていたものが、すっとほどけた気がした。
そもそも、いつか出るつもりだったのだ。
ただ、ここ二年半、今の暮らしが心地よくて、その決心だけを延ばし続けていた。
確かに、父がいつまでも、結婚適齢期の私をここへ置いたままにしておくはずもない。
ならば、自分で決められるうちに決めるべきだった。
ノエルは黙ってこちらを見ていた。
私は彼へ向き直り、なるべく軽く続ける。
「少しずつ貯めたお金があるから、当面は何とかなると思うの。」
彼の眉が微かに寄った。
「……じゃあ、どこへ行く?」
「できれば遠い国。父も兄も顔が広いから、近くだと見つかりそうだし。」
ノエルは立ち上がり、棚から地図を持ってきた。
机の上の紙を端へ寄せ、広げた地図の角を器で押さえる。
「まあ、ずっと魔法で姿を変えるのも不便だしな。そうすると、海を渡って、幾つかの船を乗り継がないといけないような国か。」
あまりに自然な動作だったので、私は一拍遅れて、彼の顔を見上げた。
「あなたも来るの?」
地図へ伸ばしかけた指が止まり、赤い瞳が見開かれた。
ノエルはしばらく私を見つめ、それから、少しだけ目を伏せる。
「……一緒に、行くつもりだったんだけど。」
思っていたより静かな声だった。
私は慌てて首を振る。
「い、いや、嫌って意味じゃなくて。ただ――」
そこまで言いかけて首を傾げる。
そういえば、もう大分忘れかけていたが、この男の目的は国家転覆の後に、豊かな生活をしながら私を好き勝手することではなかったか。
「……王位が手に入らなくなるうえに、多分かなり貧しい生活になるわよ。」
「別にいい。」
「あと、助けてくれたからって、誘われても寝所には行かないけど。」
「だ、誰が誘うか! 恥を知れ、恥を!」
真っ赤になって狼狽えながらそこまで言うと、彼は地図の端へ視線を落とした。
「……でも、お前が一緒に行くの嫌って言うなら、別に――」
「嫌じゃない。全然。助かるし、心強いし。」
思わず言葉を重ねると、ノエルが顔を上げた。
その表情が少し緩んだのを見て、私もようやく肩の力を抜く。
「人に紛れる意味でも、仕事を探す意味でも、ある程度大きな町の方がいいかもしれないわね。」
「この辺りだろうな、海が近い商業都市。」
ノエルはそう言って、地図の遠い端を指した。
ここなら気候が穏やかで、大きな町もある。絵を売るにもよさそうだ、と話し始める彼の横顔を見ながら、私は何となく頬へ手を当てた。
恥を知れ、恥を。前にどこかで聞いたことがあった気がするが、気のせいだろうか。
◇
ただ逃げるだけでは、父は間違いなく私を捜す。
娘に甘い人ではあるが、行方不明になった娘を放っておくような甘さではない。
まして、旧王家の末裔まで一緒にいなくなれば、国の事情も絡んでくる。
どうしたものかと話し合った末に、私たちは、二人とも別荘の火災で亡くなったことにしよう、と決めた。
「それっぽいものなら、魔法で作れるよ。人体生成。命は流石に付与できないけど。」
ノエルは気軽に言ったが、何を作るのか具体的に示されると、私は思わず黙り込んだ。
床に横たわる、私と彼によく似た背格好の二人分の身体。
身代わりにするだけなので、顔こそ細かく作られてはいなかったが、何とも言えない気持ちになる。
「……なんで、こんな魔法まであるの。」
「……原作、最後まで読んでる?」
「読んでない。」
「……じゃあ言いたくない。」
ノエルは強張った顔で目線を泳がせた。
どうやら、あれやこれや、えげつないことに使われる魔法らしい。私も、もちろん聞きたくなかった。
準備には少し時間を掛けた。
父へは、ノエルの管理について区切りをつけてから戻ると返事をし、その間に必要な品をまとめる。
使用人たちが帰り、屋敷に誰も残っていない夜を選んで出発することにした。
納屋に押し込んだままの物騒な器具も、これを機に屋敷と一緒に処分してしまおう。屋敷一つと引き換えに、あんなものが幾つも世から消えるのだから、差し引きすれば世間への損失はむしろ小さいはずである。
「なんか、ミステリーものみたいになってきたな。」
「すごいわね、要素混線しすぎじゃない?」
そんなやり取りをしながら支度を進めたのだが、荷物の中で一番幅を取ったのは、意外にもノエルの絵だった。
「全部持っていくの?」
「ロゼリア描いてるし。」
「あっちでも描けばいいじゃない。」
「それはそれ。これは持っていく。」
普段は大抵のことを譲るのに、そこだけは妙に頑固だった。
結局、彼は魔法で荷物をまとめて、すべて収納してしまった。
衣服や食糧の量を考え、鞄を何度も詰め直していた自分が馬鹿みたいである。
「いや、本当にチートね、あなた。」
「また別のジャンル要素が加わりそうな発言はやめてくれ。」
出発の夜、最後に部屋を見て回った。
窓辺の机には、絵具でついた小さな染みが残っていた。
雨の日に室内で運動したいと言って、私が棚を引きずった結果できた床の傷もある。
家具や棚の中身を片づけたことで、三年近い生活の痕跡が、かえってよく見えるようになっていた。
台所では鍋を洗って伏せ、食卓の上も拭いておいた。
これから燃やすのに何をしているのだろうと自分でも思ったが、何となく、最後に綺麗にしておきたかった。
廊下へ出ると、ノエルが裏口の近くで待っていた。
急かすでもなく、こちらを見ている。
「忘れ物?」
「……ううん。」
私はもう一度、廊下を振り返った。
何度も二人で雑巾掛けをした床が、月明かりを薄く返している。
ここへ来た頃には、こんなふうに名残惜しくなるとは思わなかった。
父と兄にも、悲しい思いをさせるだろう。
そのことを考えると胸は痛んだ。
それでも、二人の望む場所で一生を過ごす約束はできない。
心の中で謝り、私は裏口へ向かった。
「行こう。」
ノエルが頷き、扉を開けた。
屋敷へ火を放ち、森へ延焼しないよう彼の魔法で抑えながら、私たちは山を下りた。
振り返ったのは一度だけだった。
木立の向こうに赤い光が揺れていたが、やがて道が曲がると、それも見えなくなる。
その後は顔も髪の色も変え、ただの旅人として先へ進んだ。
幾日か後に国境を越えたとき、私は思っていたほど大きな感慨もなく、道端で売られていた焼き菓子を買った。
ここ数日の緊張が解けた途端、急に空腹を感じ始めたのだ。
「二つ?」
「二つ。」
ノエルが代金を払い、一つを私へ渡してくれる。まだ温かい菓子を受け取り、私は歩き出した。
これからどこへ住むとしても、隣にこの男がいて、食べ物を二人分買うのだろうと思うと、知らない道も、それほど心細くはなかった。




