第五話 煩悩とは、少し違う
それから、別荘の暮らしには絵が増えた。
窓辺に積まれた紙だけでなく、庭の椅子や、食卓の端へも、描きかけのものが置かれるようになった。
濡れた布巾を置こうとして慌てて止められたこともあるし、朝食の卵を食べようとしたら「その皿、動かさないで」と言われたこともある。
冷める前に食べたいと抗議すると、今度は私の手まで一緒に描き始めたので、なかなか油断がならない。
その代わり、彼は午後に絵を描く時間を確保するため、午前の作業を以前より大変真面目に終わらせるようになった。
掃除に掛かる時間が短くなり、台所でも、何をすればよいかいちいち尋ねなくなる。
水を運び、皿を並べ、火の加減を見る。文句は相変わらずだったが、口と一緒に手も動くようになったので、大いに進歩である。
坐禅も空手の稽古も、以前よりよほど真剣に取り組むようになった。
集中することに慣れたのか、単に身体が鍛えられたのか、最初の頃のように構えただけで脚を震わせることはなくなり、私の動きを見て、自分で直す場面が増えた。
たまにうまくできたことを褒めると、何でもない顔をしながら同じ動きをもう一度試す。
その様子が可笑しくて笑うと、すぐにむっとするので、私は笑いを堪えるのに毎度苦労していた。
ただし、私も余裕なばかりではいられなかった。
「動かないで。」
「……まだ?」
「今、ちょっと顔の向き変わった。」
「首が疲れたんだけど。」
ある午後、椅子へ座ってモデルを引き受けた私は、始めて早々、後悔していた。
座っていればよいと言われたので気軽に承諾したのだが、同じ姿勢を保つのは思ったより大変だった。
腕を少し動かしても気づかれるし、足を組み替えても止められる。
画用紙の向こうで、ノエルが薄く笑った。
「俺が構え直されてるときの気持ち、ちょっと分かった?」
「それはあなたの修行のためでしょ。」
「ロゼリアも絵になるよ?」
「……強そうに描いてよ。黒帯の有段者に見えるように。」
私の返しに、思わずノエルが笑った。
「ロゼリアは人を背負い投げするようなキャラじゃないんだけど。」
「ロゼリアじゃなくて、私でしょ。あと、背負い投げは柔道ね。」
言い返しながらも、私は腕を元の位置へ戻した。
時々、彼の視線が紙から上がり、こちらの顔や肩を確かめる。
その目は、初めて会った日に私を眺めていたときとは少し違っていた。
何か言うのかと思って待っていても、彼はまた紙へ視線を落とし、手を動かすだけだった。
出来上がった絵を見せられると、文句は半分ほど引っ込んだ。
少し不機嫌そうな顔で、なぜかちゃんと強そうに見える、とても綺麗な女性が描かれている。
「私、こんなに綺麗じゃないと思うけど。」
「……いや、二次元だと表現も限られるからさ。」
「どういう意味?」
「……実物の方が、上だろって話。」
彼はそう言って絵を引っ込めた。
絵の表現の話なのか、私を褒めているのか判断がつかず、もう一度尋ねようとしたのだが、筆を洗ってくると立ち上がり、部屋を出ていってしまう。
私はまあいいかと椅子の背へもたれ、ようやく自由になった首をゆっくり回した。
夏の間に濃くなった庭の緑が、少しずつ色を変え始める頃には、二人分の生活の手順も大体決まっていた。
私が夕食を作れば、ノエルが食器を洗う。
買い物へ行く日は午前の予定を軽くして、帰りに何を食べるか相談する。
彼が描きかけの絵へ夢中になっているときには、私は先に庭へ出て身体を動かし、区切りがついてから呼ぶようになった。
無理に中断させると、その後もずっとそちらを気にしているので、それなら待った方がこちらも楽だったのだ。
ある日、庭から戻ると、机に湯気の立つお茶が置かれていた。
傍らには、前日に買った菓子が二つ並んでいる。
「これ、どうしたの?」
「俺が飲むついで。……もう終わる頃だと思ったから。」
ノエルは紙を片づけながら答えた。
私は椅子へ腰掛け、器を両手で包む。
少し風が冷たかったので、その温かさがちょうどよかった。
「ありがとう。」
そう言うと、彼は一度こちらを見てから、自分の分へ手を伸ばした。
最近は叱るより、礼を言う方が多くなった。
ふと、そんなことを考えた。
父への報告書には、少しずつ嘘が増えていっている。
後ろめたさを感じながらも、目の前で茶器を持つ青年を見ていると、そんなことは些末なことのようにも思えた。
そう、生存戦略であり、バッドエンド回避のためには、この生活をすることが必要なのである。
私は誰に言い訳するでもなく、そんなことを思いながら、菓子を一つ取り、ノエルへ残りを寄せた。
◇
その日の午後は、冬の入り口にしては風が穏やかで、屋敷の裏手の庭にも柔らかな光が届いていた。
稽古を終えた私は、乱れた髪を簡単な団子のように結って、水を飲んでいた。
先に休憩していたノエルがこちらを見て、そっと目を逸らしては、また何か言いたげにこちらを見遣る。
何を頼みたいのかは、もう大体分かった。
「……昨日も描いてたでしょう。愛しのロゼリアちゃんは、そんなに毎日進化しませんよ。」
「今日は髪、上げてるから。」
「髪型でそんなに変わらないでしょ。」
「変わるよ。」
妙にはっきり答えるので、私は深く追及せず、椅子へ座ったまま小さく嘆息した。
道具を取りに戻った彼が、紙と筆を抱えてやってくる。
すっかり見慣れた姿だった。
最初はあれほど修行を嫌がっていたのに、今では終わった後の時間を、当然のようにここで過ごしている。
彼が紙を整える間、私は庭の向こうを眺めた。
乾いた草の上へ落ちた枯葉は、早朝の霜のせいだろうか、僅かに湿り気を帯びている。
次に町へ行くときは、本格的に冬物を揃えた方がいいだろう。
成長か、筋力トレーニングの成果か、ノエルの服も以前より窮屈そうになったので、寸法を確かめなければならない。
「……ちょっと、こっち向いて。」
向かいの席に座った彼は、迷うようにこちらをちらりと窺った。
それから、私の頬の辺りを見て、手を伸ばしかけ、止まる。
「髪、少しよけてもいい?」
「ええ。」
結び損ねた髪が落ちていたらしい。
私が頷くと、ノエルは身を乗り出し、指先でそっと髪を耳へ掛けた。
何気なく見上げると、彼の目がこちらを向き、すぐに逸れた。
それだけなら気にしなかったのだが、離れた後も、なぜか紙の端ばかり整えている。
さっきまで普通に話していたくせに、妙に静かになってしまった。
「どうしたの。」
「……別に。」
「なに、なんかまた煩悩が湧いた? 悪霊退散しようか?」
少しからかうつもりで言うと、彼は顔を上げかけ、途中でやめた。
耳の辺りが赤くなっている気がして、私は思わずそこへ目を留める。
「……違う。ただ、上手く描けるかちょっと緊張しただけ。」
数か月前なら、そこからまた好き勝手なことを言い出したはずだった。
自分の理想だとか、三年後が楽しみだとか、聞いているこちらの眉間に皺が寄るようなことを、いくらでも並べられた男である。
それが今は、少し強張った顔で紙へ視線を落としたまま、真面目に筆を持つ位置を直している。
あまりに勝手が違うので、私はつい笑ってしまった。
「何よ。随分おとなしくなったじゃない。」
「あ、待って。」
「え?」
「そのまま。顔動かさないで。」
ノエルが慌てて筆を動かし始めた。
私は笑いを収めようとしていたのに、止められてしまった。
無茶を言われた気がして、余計に可笑しくなった。
「笑ったまま止まれるわけないでしょう。」
「少しでいいから。」
「どのくらい?」
「……なるべく。」
注文は相変わらず勝手だったが、こちらを見る顔があまりに真剣なので、私も静かに椅子へ座り直す。
冬へ向けて淡くなった空には、薄く掃いたような筋状の雲が、波のように並んでいた。
少し肌寒さを感じさせる風が木々を揺らし、彼の紙の端を持ち上げる。
ノエルは片手でそこを押さえ、また私へ目を向けると、少しだけ口元を緩めた。
もうすぐ、ここで迎える初めての冬が来る。
けれど、なぜか転生してきて一番温かい冬になりそうだった。
ふっと浮かんだその考えを、私は慌てて、頭の片隅へ畳んで収めた。




