第四話 原作者に画材を渡してみた
翌朝、私は予定表を机へ広げた。
「修行、少し減らそうと思うんだけど。」
向かいで水を飲んでいたノエルが、ぴたりと手を止める。こちらを見つめる目に、露骨な警戒が浮かんだ。
「……何か、もっと嫌なことに変わる?」
「いや、考えてみれば、朝から晩まで修行ばっかりというのも、流石に三年間はきついかな、と。煩悩捨てるどころか輪廻から解脱しそうだわ。」
「……最後のは本気でよく分からないけど、三年間無理なのは同意したい。」
私はペンで午前と午後の予定の一部に線を引き、空いた場所を眺める。
元々、一日のすべてを詰めていたわけではないが、息を抜く時間まで、こちらが一方的に決めていたことは確かだった。
「やっぱり、まずは普通の暮らしをしてみようか。」
「普通の暮らし?」
「好きなことをしたり、遊びに出かけたり。ノエルは何か趣味とかないの?」
ノエルの口の端が上がりかけたので、何か言われる前にすっと目を細める。
「分かってんだろうが、ロゼリアの話は今すんなよ。お前自身でやる趣味だからな。」
私の低い声に、彼は強張った顔で口を閉じた。
それから顎に手を当て、少し考える。
ここでの生活で大分健康状態もよくなり、以前は血の気も薄く白かった頬も、今は十八歳の健康的な青年に相応しい色合いをしていた。
もともと端正だった顔立ちは、こうして悩むような仕草をするだけで、はっと目を引く。さすが、男性主人公である。
やがてノエルは、先ほどまでより静かな声で答えた。
「……絵を描くこと、かな。」
なるほど、と私は合点した。
そもそもこの男は漫画を描いていた人間だ。確かに、絵を描くのがもともと好きだったとして、何の不思議もない。
「じゃあ、画材を買いに行こうか。」
「今から?」
「うん、今日。朝ご飯を食べたら支度してさ。」
彼は少し目を丸くしたが、反対はしなかった。
◇
町へ出るに当たっては、二人とも姿を変えることにした。
ノエルは旧王家の末裔であり、私はその彼の躾けというか、調教を任せられている伯爵家の娘である。
仲良く買い物をしている姿が見つかりでもしたら、あらゆる意味で大惨事になりかねない。
幸い、ノエルの使える魔法の中に、視覚を惑わせる幻術のようなものがあり、平民の服を着たうえで、それを使ってもらった。
自身の目にも魔法が作用するらしく、鏡の中で、私の淡い金髪は茶色くなり、緑の瞳も落ち着いた灰色へ変わっていた。
顔立ちも少しずつ違っており、これなら万が一、私のことを知る人間とすれ違っても気づかれることはないだろう。
髪を後ろで結び、飾りのない上着を羽織ると、気分まで軽くなった。
ノエルの方は、黒髪が濃い茶色になり、赤い瞳も同じ色へ変わっている。
顔立ちはやはり整っていたが、元の姿ほど強く人目を引くことはなさそうだった。
「便利ね、これ。」
「だろ。俺、割と何でもできるよ。」
「じゃあ、帰りの荷物持ちも頼んだ。」
「いや、そういう話じゃなくてさ……。」
ぶつぶつ言いながらも、彼は荷物を入れるための肩掛け鞄を手にした。
念には念を入れて別荘の裏口から出て、森の中を通って町へ向かう。
町の通りは、別荘の静けさが嘘のように賑やかだった。
石畳の上を荷車が通り、店先からは値段を呼び上げる声が聞こえる。
焼きたてのパンの香ばしい匂いに香辛料のつんとするような香りが混ざり、露店に吊られた色鮮やかな布が風を受けて揺れていた。
以前も町へは来たことがあったが、貴族令嬢という身分もあり、勝手に歩き回ることなどできなかった。
今は誰もこちらを気にせず、立ち止まって品物を眺めていても、買わなければそのまま通り過ぎられる。
その気楽さが嬉しくて、私はつい、あちらこちらへ目を向けた。
「画材の店、こっちじゃない?」
「あ、ほんとだ。」
ノエルに声を掛けられ、果物の屋台から離れる。彼は少し呆れた顔をしていたが、私がさっき買った果物は、鞄の中へしっかり収めていた。
画材を扱う店は、表通りから一本入ったところにあった。
扉を開けると鈴が鳴り、紙と木と、少し油の混ざったような匂いがする。棚には顔料の壺や筆が並び、壁際には大小の板や紙が積み上げられていた。
何がどう違うのか分からず眺めている私の横で、ノエルはすぐに一つの棚へ近づいていった。
紙の端を指で挟み、光へ透かし、次の束と見比べる。筆も一本ずつ持ち上げ、毛先のまとまりや軸の長さを確かめていた。
その顔は、予定表を眺めているときとはまるで違う。
「こっちじゃ駄目なの? たくさん入ってるけど。」
「練習ならいい。でも水を使うと、たぶんすぐ波打つ。こっちの方が――」
説明しかけて、彼は私を見た。
「……聞いても面白くないだろ。」
「そう? 私も絵を描くの、結構好きだったよ。四コマくらいしか描いたことないけど。」
そう返すと、彼は少し黙ってから、二種類の紙を重ねてこちらへ見せた。
指で触ってみれば、確かに表面も厚みも違う。
彼の説明を聞きながら、紙一枚でも随分考えることがあるのだと感心していると、今度は筆について話し始めた。
しばらく選んだ後、ノエルは棚に付いた値札を見て、手にしていたものの一部を戻そうとした。
私は横からそれを取り、ほかの品と一緒に手に持つ。
「使うんでしょ?」
「……いや、最初からそんな揃えなくても。」
「必要になって、また買いに来る方が手間じゃん。」
支払いを済ませる間、彼は何か言いたそうにしていたが、結局、包まれた品を受け取ると小さく礼を言った。
それを横目で見ながら、私は内心で少し顔を顰めた。父の金の出どころについては、考え始めると頭が痛い。
その金で暮らしている身とはいえ、家業に関わるのはやはり御免だった。
店を出てからは食材を買い、屋台で焼いたパンに肉と野菜を挟んだ、ホットサンドのようなものを一つずつ買った。
夏の日差しが広場を明るく照らしている。
湿度は低く、風が吹けば涼しさもある気候ではあるが、それでも暑いのは暑い。
じわりと額に滲んだ汗をそっと拭った。
ちょうど木の陰になっていた広場の端の椅子へ腰掛け、見るともなしに街並みを眺めながら食べる。
しかし、ノエルは先ほど買った画材が気になるようで、何度か鞄の方へ目を遣っていた。
「早く描きたい?」
「……別に。」
言い当てられたのが恥ずかしかったのだろうか、短い返答の後、彼は一度口元をぐっと引き締めた。
「もう帰る?」
「……いや、これ食ってからでいい。」
言いながらも食べる速度がいつもより大分早い。
私は内心苦笑しながらも、特に指摘せず、急いで食事を済ませた。
◇
別荘へ戻ると、ノエルは居間にある窓辺の机へ画材を並べた。
私は買ってきた食糧をしまい、夕食の下ごしらえを始めたので、その後しばらく彼の様子を見ていなかった。
台所で野菜を刻み、肉へ下味をつけ、パンを薄く切ってチーズを乗せる。
スープを煮込み始めて手が空いたところで、水差しを取りに居間を覗いた。
「ノエル、そこの――」
声を掛けながら机を覗き込み、私は途中で言葉を止めた。
紙には、窓辺に置かれた水差しが描かれていた。見慣れた、何の飾りもない陶器の水差しである。
それなのに、紙の上のそれには、思わず触れて確かめたくなるような厚みがあった。
縁へ落ちる光や、取っ手の内側の影が、わずかな濃淡で描き分けられている。
その向こうには窓枠と庭があり、遠くの木々まで、そこに風が通っているように見えた。
紙と実物を見比べてから、私はもう一度、紙へ顔を近づけた。
「……え、やば。すごい上手いじゃん。」
「……一応、漫画も描いてたし。」
「いや、知ってるけど。え?漫画家って水彩画もこんなに描けるの?」
ノエルがこちらを見上げた。
いつものように得意げなことを言うのかと思ったが、彼は戸惑うように一度視線を外し、手元の道具をそっと持ち直した。
「……でもこれ、まだ途中だから。」
「途中でこれなの? やば、ノエルって天才? 実物より上手いんだけど。」
自分で言っていてよく分からなかったが、実物よりも見応えも立体感もあるように見え、思わず口に出た。
ノエルは少し躊躇した後、色付けの効果について、紙の端へ簡単な形を描いて説明した。
聞けばなるほどと思うが、こんな絵が描ける気は一切しなかった。
感嘆符ばかりになる私の感想に、最後はふっと彼も吹き出した。
「……本当は、こういう方をやりたかったんだよね。学費とか将来考えて、美大は諦めたんだけどさ。」
「こういう方?」
「普通の絵描き。風景とか、人とか。漫画家っていうより、展覧会に出品とかしながら絵で食っていけたらいいなって。ただの妄想程度だけど。」
私は机の脇へ椅子を寄せ、腰掛けた。
ノエルは描きかけの紙を見ながら、筆の柄を指先で回す。
「大学の学費とか、自分で何とかする必要があってさ。成人向けの漫画は、描いた分が割とすぐ金になったから。もちろん、好きで描いたところもあるけど、なんか展示会とか美術館に行くたびに落ち込んでさ。」
思わぬ制作の裏側を聞いて、静かに虚空を見つめる。
いや、しかし、だからといって、あの陰鬱な展開をすべて学費のせいにするわけにもいくまい。
私はひとまず感想を飲み込み、机の上に積まれた紙を眺めた。
それでも、先ほどの店で彼があれほど丁寧に画材を選んでいた理由だけは、少し分かった気がした。
「じゃあ、これからは好きなものを描けばいいわね。」
「……これから?」
「あと二年半以上は、お金のために描かなくても、ご飯も寝る場所もあるし。しなきゃいけないのは鍛錬だけだし。そうね、今度は紙も画材も、もう少し多めに買いましょう。」
ノエルは顔を上げた。
静かにこちらを見て、一度口を開くも、何も言わずにまた閉じる。それから、手元の絵へ視線を落として頷いた。
「……そうする。」
「ただし、私を勝手に脱がせて描かないでよ。そういうのは禁止だからね。」
「……描かないよ。」
「本当でしょうね。」
「せっかく風景描いてるときに、余計なこと言わないでくれる?」
むっとした顔でこちらを向かれ、私は思わず噴き出した。
ひとまず、絵に集中するつもりはあるらしい。
彼が仕上げるまで水差しは使えそうになかったので、私は別の器で済ませることにして、台所へ戻った。
そして、その日の夕食の時間。
水差しを描き終え、自室へ移ってまた違うものを描いていた彼のもとに向かうと、机の上には、すでに何枚もの絵が散らばっていた。
庭の木や、棚の上に私が置いた花瓶と花。今日、町で買った果物まで描かれている。
ノエルは窓から入る光が弱くなったことにも気づいていないようで、紙へ顔を近づけていた。
「ご飯できたよ。」
「……あ、もう?」
「うん。続きは食べてからにしなさい。」
彼は窓の外を見て、ようやく時間を察したらしい。慌てて道具を置き、席を立つ。
その顔には、鍛錬を終えたときのような疲れとは違う、僅かに熱の残った表情があった。
赤い瞳もどこか輝いて見える。
私は先に廊下へ出ながら、明日から夕食の時間も予定表へ大きく書いておくべきか、少し考えた。




