第三話 見た目で悟るな
修行生活を始めて三日目、ノエルが不正を働き始めた。
朝の掃除と鍛錬、食事を終え、窓を開け放った部屋で向かい合って坐っていたときのことである。
風に揺れる木々の音を聞きながら、私がふと視線を上げると、彼の身体と敷物の間に、不自然な隙間ができていた。
背筋はきれいに伸び、両脚もきちんと組まれている。
ただ、その全体が床から指三本分ほど浮き上がっていた。
「……おい。何してる。」
「だって、足、痺れるから。」
ノエルは閉じた目を薄く開け、悪びれもせず答えた。
いや、確かに痺れなくはなるが、そういう問題ではない。
私は膝へ置いていた手を上げ、床を指さした。
「下りなさい。」
「……浮いて坐ってた方が、なんか悟ってる感じあるだろ。」
「見た目で悟るな。これは修行だぞ。」
確かに、百歩譲って姿だけなら、私より遥かに修行が進んでいるように見えるだろう。
気功か、神通力か、超能力か。よく分からないが、変な超常現象雑誌か怪しい宗教法人のパンフレットに、「あなたも修行を積めば空中浮遊が可能に!?」という見出しとともに載っていそうな光景ではある。
しかし、その実態は足の痺れを嫌がる煩悩の塊に過ぎないのだ。
「煩悩! 一アウト!」
身体の横に置いていた警策代わりのスリッパを握ると、彼は嫌そうに眉を顰め、ゆっくりと敷物へ戻った。
どうやらスリッパで叩かれるのは、鞭で叩かれるよりも彼のプライドが傷つくらしい。どう考えても尺度がよく分からないが。
こんな調子で、ノエルは日々、修行の抜け道を探していた。
清掃に使う雑巾を魔法で走らせ、自分は廊下の端で壁に寄り掛かっていたこともあるし、朝起こしに行ったら、寝台へ人型の幻を置いて隣室で寝ていたこともある。
そこまでの手間を掛けるくらいなら、普通に起きればいいだろうと思うのだが、本人としては生活の工夫のつもりらしい。
「昨日も掃除したじゃん。」
「昨日もご飯食べたでしょうが。」
「……それ、同じ話じゃなくない?」
言いながらも桶を持ってくる辺り、ここでの生活スタイルにも慣れてきたらしい。
ただ、口を開けば文句が出るところは相変わらずだった。
ある朝、私が「そんなに嫌なら逃げれば」と言い返すと、彼は心外そうにこちらを見た。
「三年くらいで俺が変わらないって証明するんだから、逃げるわけないだろ。」
何とも都合のよい方向へ意地を張ってくれているようである。
それならどうぞ末永くご精進くださいと、私は彼の手へ追加の雑巾を放った。
そんな彼が最も納得いかない様子なのが、朝に取り入れた武道の鍛錬だった。
庭の一角には、短く刈られた草の広場がある。
運動用の簡素な服に着替え、そこで柔軟運動をして身体をほぐし、それから空手の稽古を始める。
基本の立ち方から教え始めたのだが、最初のうち、ノエルは妙に機嫌がよかった。
私が腕の位置を直したり、足元を指して覗き込んだりするたびに口元を緩めているので、何を考えているかは大体分かった。
しかし、その余裕は長く続かなかった。
「腰が上がってる。肩は上げない。前を見て。」
「……一度に言わないでくれる?」
「じゃあ、まず腰。その高さを覚えて。」
手のひらで示した位置まで腰を落とさせると、彼は早くも顔をしかめた。
見ているだけなら簡単な姿勢でも、慣れない身体で保つとなると、それなりに負担が掛かる。
やがて脚が震え始めたかと思えば、急にぴたりと止まったので、私は彼の顔を見上げた。
「今、魔法使ったでしょう。」
「……使ってない。」
「じゃあ、そのまま一歩前へ出てみろや。」
「……解除するから待って。」
足を持ち上げることまで考えていなかったらしい。
ノエルは渋々と魔法を解き、途端に膝を曲げた。
魔法を使えば何でもできると思っていたようだが、魔法で知らない動きが上手くなるわけではない。
力を入れる場所が違えば姿勢は崩れるし、息を止めていれば苦しくなる。
私は彼の横へ並び、ゆっくりと同じ動きを繰り返した。軸足へ体重を移し、腰を運び、腕を伸ばす。
手先だけで真似をしようとしていた彼が、こちらの足元を見て姿勢を直したので、そのまま何度か一緒に動く。
「そう。今の上手よ。」
「……これ、あと何回?」
「今ので感覚が分かったなら、忘れないうちにもう少しね。あ、治癒魔法使おうか?」
「……いらない。」
彼はどこか悔しそうに短く答えると、眉を顰めて天を仰いだが、私はそれどころではなかった。
前世で何度も繰り返した動きを、人へ説明しながら確かめるのは、思っていた以上に楽しかったのだ。
今世でも身体は鍛えていたし、剣の扱いも教わった。
しかし、魔法や剣の稽古が中心となる暮らしの中で、空手まで本格的にやり直そうとは思わなかった。使用人や騎士たちの目があるところで、見慣れない型を披露し、あれこれ尋ねられるのが面倒だったのもある。
その点、ノエルは私の前世を知っている。変な動きだと言われても、うるさい黙ってやれで済む。
こうして身体を動かしていると、前世の感覚がゆっくりと戻ってくるようだった。
ノエルの構えを直しながら、そういえば昔、私も同じことを言われたなと思い出すたび、道場の床の感触まで蘇るように感じる。
休憩を告げると、彼は木陰へ直行して座り込んだ。
私は水を一口飲んだ後、もう一度広場の中央へ戻り、途中までしか思い出せていなかった型を確かめる。
踏み込んだ足が地面を捉え、腰の動きに合わせて腕が収まると、身体の中にあった引っ掛かりが一つ取れたような気がした。
「……やっぱり楽しい。」
思わず笑みがこぼれた。
額の汗を袖で拭い、もう一度同じ動きを試そうとすると、木陰から疲れた声が飛んでくる。
「俺の考えたロゼリア、こんなに体育会系じゃなかったんだけど。」
「よかったじゃん。愛しのロゼリアちゃんの新たな一面が知れて。」
「……俺はこういう絡みがしたかったんじゃない。」
振り返れば、ノエルは膝へ肘を載せ、恨めしそうにこちらを見ていた。
最初にあれほど楽しそうにしていた男と同一人物とは思えない顔である。
「大丈夫、大丈夫。そのうち慣れるから。」
「何が大丈夫なんだよ。」
「明日は今日の続きからだから。」
彼は返事の代わりに、ゆっくりと芝生へ倒れ込んだ。
◇
そんな生活を二か月ほど続けた頃、私は久しぶりに、前世の食事に近いものを作った。
町から届けてもらう品の中に米に似た穀物があり、鍋で炊いてみると、少し細長いものの、なかなかそれらしい味になったのである。
調味料は同じものが揃わなかったが、肉と根菜を薄味で煮込み、青菜をさっと茹でて添えた。
今朝侍従が持ってきてくれた山菜で簡単なスープも作って並べると、見た目だけでも懐かしい食卓になった。
外では夕方から雨が降っていた。
庭の土は黒く濡れ、窓に当たった雨粒が幾筋も流れていく。
少し肌寒かったので、私は汁物を多めによそい、向かいの皿へ置いた。
ノエルは料理を一通り眺めてから、黙って食べ始めた。
普段なら、今日は疲れただの、明日は休みにしてほしいだの、何かしら口にするのに、その日は妙に静かだった。
いつもと味付けが違うから、食べにくいのだろうか。
「なんかやけに静かだけど。口に合わない?」
「いや、美味しい。……なんか、前世の食事思い出した。」
「完全に同じにはできなかったけどね。材料があれば、もう少し近づけられるんだけど。」
「いや、これでいい。十分、美味しいから。」
それきりまた静かになったので、私も食事へ戻った。皿へ匙が触れる音と、窓の外の雨音が重なる。
しばらくして、彼が少し笑った気配がした。
「こうやって誰かと毎日食べるの、やっぱり何か変な感じ。」
「変?」
「慣れないっていうか。久しぶり……でもないな。前から、そんなになかったし。」
私は匙を止めた。ノエルは皿へ目を落としたまま、何でもないことのように続ける。
「うち、父親は仕事でほとんど帰ってこなくて、母親も遊びに行ってばっかりだったから。十歳のときには、ほかに男作って出ていったし。飯は大体、一人で適当に食ってたんだよね。」
思っていたよりずっと重い話が出てきて、すぐに言葉が返せなかった。
あれだけ傍若無人な態度を取るので、前世でも好き勝手に甘やかされていたのだろうと、どこかで勝手に思っていたのかもしれない。
「……親戚とか、近所の人とかいなかったの? あと、友達とか。」
「父親も母親もちょっと難しい人たちでさ。でも食費はもらってたから。帰ったらパンか何か食べて、漫画読んで、絵描いて。大学入ってからも、あんまり変わんなかったな。」
彼はそこで顔を上げ、少し自嘲するように笑った。
「根暗だろ。大学生のとき事故で死んだんだけど、結局、最後までそんな感じ。」
いつもの調子で何か言い返せればよかったのだが、どうにも口が動かなかった。
彼の語り方が軽い分、こちらから勝手に大げさに受け止めるのも違う気がする。
「こっちに来てからは?」
「逃げてばっか。髪とか目とか隠して、あちこち移って。まあ、自分でそういう設定にしてたんだけどさ。」
そう言って肩をすくめると、ノエルはそっと茶器を持ち、目を逸らした。
「考えてみれば、同じところに、同じ相手とこんなにいるの、初めてかも。……前世も含めて。」
私は彼の手元を見つめた。
思い返してみれば、毎朝起こされれば文句を言い、鍛錬の時間には露骨に嫌そうな顔をする男が、食事の時間だけは、呼べばきちんと席へ着いていた。
私が片づけながら遅れて座ると、なぜかまだ食べ始めていないこともあった。
私の機嫌を気にしているのかと思ったが、どうやら、そういうことでもなかったのかもしれない。
「煩悩以前だったか。」
「なに?」
私の呟きに顔を上げたノエルへ、何でもないと返し、内心腕を組む。
過去を聞いたからといって、最初に吐いたあの数々の発言が帳消しになるわけではない。
私を好き勝手にして当然という考えは、どうあっても改めてもらわなければ困る。
しかし、煩悩を叩き出せばそれで済む、という問題でもない気がする。
何と言えばよいか迷っているうち、彼の皿が空になった。
私は立ち上がると、食卓に置いていた鍋の蓋へ手を伸ばし、なるべくいつもどおりに声を掛ける。
「お代わりいる?」
「……あるなら。」
「あるよ。まだ成長期残ってるかもしれないし、たんと食いな!」
ノエルが苦笑しながらも皿を差し出したので、私は肉も野菜も多めによそった。
彼は受け取ると、短く礼を言ってまた食べ始める。
私はその様子を横目で見ながら、自分の汁物を口へ運んだ。
少し冷めていたが、今はそれよりも、頭に浮かびかけた新しい行動計画を固める方が重要だった。




