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第二話 愛の鞭はスリッパです

 父への申し出は、拍子抜けするほど簡単に通った。


「山の別荘を使いたい? 構わないが、あそこは町まで少し遠いぞ。退屈しないか?」


 書斎の椅子に座った父は、書類から顔を上げ、穏やかに首を傾げた。

 机の上には封蝋の割られた手紙が何通も置かれ、脇には兄が立っている。


 淡い金髪、美しい緑の瞳、白い肌に、端正な顔立ち。

 二人とも、何も知らずに見れば、裏の仕事など想像もつかない、品のよい父親と息子だった。


「人目のないところで、じっくり時間を掛けたいのです。余計な口出しをされず、私の言うことを聞くようにしたくて。」


「ほう。初めてだな、お前が家業の手伝いにそこまで熱心になるのは。」


 父は嬉しそうに笑い、兄も感心したように頷いた。

 彼らの頭の中で、私が一体何をする予定になっているのか問いたくもあったが、もちろんやめておいた。


 使用人にも取引先にも丁寧な人たちなのに、なぜ家業になるとあんなことまでできるのか、本当に不思議でしかない。


「屋敷の管理は、近くに住む者に通わせよう。食糧も定期的に届けさせる。ほかに必要なものはあるか?」


「丈夫な日常着を二人分と、寝具、それから掃除道具を多めに。鍋も大きいものが欲しいです。」


「鍋?」


「ええ、いろいろと使い道があるかと……。」


 父は少し考えた後、妙に納得したように頷いた。

 兄まで口元を緩めたので、鍋に関して余計な想像をされた可能性はある。


 しかし、ここで訂正をするのも藪蛇だろう。


 私は礼儀正しく微笑み、必要な物品を書いた紙を差し出した。



    ◇



 数日後、私たちは山奥の別荘へ移った。


 針葉樹の立つ斜面を馬車で上っていくと、やがて木立の間に灰色の石造りの屋敷が現れる。

 背後には深い森が広がり、庭の端を流れる細い水路では、澄んだ水が石に当たって明るい光を返していた。

 春先の少し花の匂いを含んだ風が草木を揺らす度、ざわりと息をするような音が、耳に届く。


 町からは遠いが、風は清々しく、身体を動かす場所にも困らない。


 どう考えても物騒な目的に使うには、もったいないほど気持ちのよい土地だった。


 玄関を入ったノエルは、物珍しそうに吹き抜けを見上げ、それから廊下の奥へ目を向けた。


「あ、これ、描いたところだ。窓の位置まで一緒だな。」


「そうなの。じゃあ、もし使いづらいところがあったらあなたの責任ね。」


「……俺が建てたわけじゃないんだけど。」


 荷物を運んでくれた者たちが帰り、二人だけになってから地下を確認すると、想像したくない用途の器具が幾つも置かれていた。


 私は扉の前で足を止め、そっと隣のノエルを見る。

 私の目線に気づき、彼は口の端を上げた。


「……撤去します。」


「でもこれ、結構重要な場面に使うんだけど。」


「涼しいので、食糧庫にでもしましょうかね。」


「食糧庫?」


「じゃがいもとか、日持ちするものの保存場所ね。」


 ノエルは何か言いたげだったが、最終的には、魔法で器具を運び出すのを手伝った。

 重い鉄の塊が宙へ浮かび、階段を上っていく光景はなかなか壮観である。


 ついでに空いた場所へ棚も移動してもらうと、彼は腰へ手を当てて私を見た。


「なんか便利に使ってない?」


「あなたの好きなロゼリアちゃんからのお願いでしょうが。」


「思ってたお願いと違う。」


「はい! 煩悩! 一アウト!」


 青年はジト目でこちらを睨むと、大きく溜息を吐いた。


 ひとまず今日のところは、荷ほどきと掃除で十分だ。


 窓を開け放つと、長く閉じられていた部屋へ爽やかな森の風が吹き込み、カーテンを揺らした。

 白い布をかぶせられていた家具も、布を取ればまだきれいに使えそうだ。


 客室を一つずつ自室に決め、台所へ届いた食糧をしまい、そうこうするうちに西日が庭を染め始めた。


 私は浴室を覗き、それから廊下へ顔を出した。


「ノエル。ちょっとこっちに来なさい。」


「風呂?」


 やってきた彼は、浴槽と私を交互に眺めた。

 何を考えたのかは表情で分かったので、口に出される前に桶とブラシを渡す。


「洗うから。」


「……何を?」


「お風呂を。」


 彼は手の中の道具を見下ろし、もう一度浴槽へ目を向けた。


「侍従呼んでさせたら?」


「自分たちが使うものは、自分たちでやるの。修行の一環よ。」


 私が袖をまくると、ノエルは面倒そうに片手を動かした。


 桶の水がするすると浮かび上がり、薄い膜のように浴槽の内側へ広がったかと思うと、一気に渦を巻く。

 溜まっていた埃が流され、排水口へ吸い込まれていく様子に、私は思わず感心した。


「へえ。便利ね。」


「でしょ。これで終わり。」


「いや、ここ落ちてないけど。」


 浴槽の縁を指でこすると、白っぽい汚れがついた。

 ノエルは黙ってそれを見つめ、手元のブラシへ視線を落とす。


 私は隣へ膝をつき、石鹸を泡立てながら、力を入れやすい向きを示した。


「はい、擦って擦って。」


「ここまで来て何で風呂掃除……どうせ擦るならロゼリアの身体を――」


「煩悩! 二アウト!」


 二人で並んで浴槽をこする。

 窓の外では鳥が鳴き、薄暗くなり始めた浴室に、ブラシの音が響く。


 ノエルが何度か溜息をついたが、そのたびに手が止まっていると指摘すると、諦めたように再開した。


 それから各部屋を軽く掃除して、きれいになった浴室で順番に入浴を済ませた頃には、私も疲れ果て、すっかり空腹になっていた。


 ノエルに竈へ火を入れてもらい、伯爵家から持ってきた煮込み料理を温める。

 鍋から立ち上る湯気に肉と香草の匂いが混じり、途端にお腹が鳴りそうになった。


「侍従呼ばないの? 近くの家に住まわせてるんだよな?」


「自分のことは自分でやる。ものや人にできるだけ依存しない、忙しなくも静かな生活こそ、煩悩を消すのよ。あなたも早く解脱しなさい。」


「……関係あるとは思えないけどな。」


 文句を言いながらも、パンと料理を並べた私が促すと、彼は渋々といった様子で席に着いた。


 向かいへ座ったノエルはしばらく皿を見ていたが、私が手を合わせると、不思議そうな顔をしながらも食べ始めた。


 よし。初日は、こんなものだろう。本番は明日からだ。


 食後、私は父への報告を書いた。


『最初は若干の抵抗が見られましたが、周りに人が少ないこともあってか、少しずつ身の上を理解し、こちらの指示に従うようになりました。明日からは、さらに身体へ覚え込ませていく予定です。』


 嘘は書いていない。二人しかいないので掃除も食事も二人で何とかやらなければならないし、明日からは本格的な修練が始まる。


 こうやって細かく報告を送っていれば、当面は余計な干渉もされずに済むだろう。


 机の向こうでは、ノエルが別の紙を眺めていた。私が書いた、翌日からの予定表である。

 先ほどから同じ辺りへ何度も視線を戻しているが、残念ながらどれだけ見つめても起床時刻は変わらない。


「……どう考えても起きるの、早くない?」


「日が昇る頃ね。普通よ。」


「掃除の後に鍛錬。その後で朝飯? 食べる前からそんな動くの?」


「お腹が空いて、おいしく食べられるわよ。」


「坐禅って、何を考えてればいいわけ?」


「まず姿勢と呼吸からね。」


「自由時間、ちょっとしかないんだけど。」


 私はペンを置き、にこやかに顔を上げた。


「文句ばっか言うなクソガキ。早く寝ろ。」


「……ロゼリアと一緒に寝――」


「煩悩三アウト! 悪霊退散――!」


 私は履いていたスリッパを手に取り、机越しに青年の頭をぱこんとはたいた。


 柔らかな音がした後、ノエルが口を開けたまま固まる。


 叩かれた場所へそろそろと手をやり、それから私の持つスリッパを見た。


「……今、スリッパで叩いた?」


「見てのとおりだけど。」


「俺を?」


 そこまで信じられないことだったらしい。


 たしかに原作では王位を約束された男が、何の威厳もない室内履きで叩かれたのである。

 気持ちは分からないでもないが、こちらも三回は待った。


「……誰にも手出しはさせないって言わなかったか。」


「これは、坐禅の警策の代わりよ。感謝しなさい。」


 随分と柔らかく、間抜けな形の代用品ではある。

 言ったところでふと思い至り、私はスリッパを履き直しながら微笑んだ。


「ほら、あなたの愛しのロゼリアちゃんからの愛の鞭。無事に受けられてよかったわね。望み、一部叶ってるじゃない。」


 ノエルはひどく納得のいかない顔でこちらを見ていたが、やがて予定表をつかむと、何かを言いかけては飲み込みながら部屋を出ていった。


 扉の閉まる音を聞き届け、私は父への手紙へ視線を戻す。


『少しずつこちらの指示に従うようになりました。』

 やはり、嘘は書いていない。



    ◇



 そして翌朝、私は薄暗いうちに彼を叩き起こした。


 窓の外には夜の名残があり、森の向こうだけが淡く明るみ始めている。


 冷たい水で顔を洗い、髪を結んで廊下へ出ると、先に洗顔を終わらせたノエルが扉に寄り掛かり、眠そうな目でこちらを見ていた。


「まず、廊下を拭くわよ。桶はそこね。」


「魔法でよくない?」


「駄目。修行だから。」


 雑巾を渡すと、彼は不満そうにしながらも水へ浸した。私は隣でもう一枚を絞り、床へ広げる。


 幼い頃に実家で何度も繰り返した動作だった。

 手の下にあるのは馴染みの縁側ではなく異国の屋敷の床だが、冷たい水の感触も、朝の静けさも、どこか懐かしい。


 しばらく何も考えず、ただ目の前の床をきれいにすることに集中する。


 動けば、その分だけ終わりに近づいていく。

 ここ最近、先の分からないことばかり考えていたせいか、その単純さが気持ちよかった。


 両手をついて進み始めると、背後から、まだ眠気の残った声がした。


「俺の漫画に、こんな場面なかったんだけど。」


 窓から入る朝日が、拭いたばかりの床へ細く伸びている。

 私は振り返らず、その光の先へ雑巾を滑らせた。


「よかったじゃない。描き下ろしよ。」


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