第一話 原作者、その展開はお断りです
目の前で両手を拘束され、怯えた表情でこちらを見上げる美青年を見た瞬間、私は自分が何の世界に転生してしまったのかを知った。
いや、違和感はあった。
表向きはさほど目立たない伯爵家、実態は王家の暗部を引き受ける闇の家門。
そんな、一度は黒い手袋をはめて窓辺に佇みたくなるような家に生まれたのだから、これは何かしら物騒な物語の世界なのだろうとは思っていた。
しかし、まさか男性向け成人漫画の、それも報復として陵辱を受ける女とは誰が予測できただろうか。
「……破滅フラグ。」
「な、なにか?」
ぼそりと思わず呟いた言葉に、青年を連れてきた騎士が戸惑ったような声を上げる。それに返さず、じっと青年を見詰めた。
黒い髪に、血を透かしたような赤い瞳。
頬は少し痩せているものの、鼻筋から顎にかけての線は美しく、粗末な衣服の襟元から覗く首には、黒い金属の輪がはめられている。窓から差し込む午後の光を受け、その首輪につながる鎖が鈍く光った。
見覚えがあった。この顔にも、この構図にも。
ついでに言えば、青年の肩越しに見える絨毯の模様にまで、妙な既視感がある。
前世で、母に頼まれて弟の部屋を掃除していたときのことだ。
ベッドの下へ掃除機を差し込むと、奥で何かが引っ掛かった。覗いてみれば、男子の夢と希望と、家族には見せられない欲望が詰まった漫画が何冊も隠されていた。
興味本位でその一冊を開いた私は、しばらくして無言で本を閉じ、帰宅した弟に、掃除機を入れただけで出てくる場所を隠し場所と呼ぶなと説教した。
その漫画の主人公が、目の前の彼だった。
「ご不要かとは思いますが、名はノエルと呼ばれていたそうです。」
「……やはり。」
目を細めると、青年、ノエルの肩が僅かに震える。
三百年前、侵略によって滅ぼされた旧王家。
その血筋は絶えたと考えられていたが、密かに生き延びた者がおり、代を重ねた末に最後の一人が見つかった。
旧王家に伝わる遺物の中には、その血を引く者にしか扱えないものもあるらしく、処刑するには惜しい。
かといって自由にさせておけば、反乱の旗印にされかねない。
そこで王家は、厄介な生き残りの管理を、汚れ仕事に慣れた伯爵家へ任せた。
伯爵は厄介者の扱いを考えた末に、その青年、ノエルを娘へ与える。
殺さない程度に遊んでやれ、と。
「旦那様からは、殺さない程度であれば、お好きになさってよいと。」
「……。」
騎士の言葉に内心でとうとう顔を覆った。台詞も同じ。
伯爵の娘、ロゼリアは、趣味も性格も大変、非常に、とても、よろしくない女だった。
しかも回復魔法が使えた。
これ以上は察していただきたいのだが、ともかく彼女は三年間にわたって、あんなことやこんなことでノエルを苦しめる。
やがて徐々に魔力を覚醒させた彼は、伯爵家から何とか脱出する。
そして各地の反王家勢力をまとめて王朝を倒し、伯爵家を取り潰し、ロゼリアを捕らえた。
そこから彼女は、男性向け成人漫画に相応しく、監禁された後に相応以上の報復を受けることになる。
もちろん全頁モザイク入りの。
その先については読んでいないので分からないが、恐らく悪役に相応しい最期を辿るのだろう。
そして現在、あろうことか私の名前はロゼリアである。
思わず虚空を見遣った。
「ロゼリア様?」
ノエルを連れてきた騎士が、訝しげに声を掛ける。
腕を組んだまま天井の一点を見つめていた私は、ゆっくりと視線を戻した。
現実逃避をしている場合ではない。
目の前には、将来この家ごと私の人生を終わらせる予定の人物が、膝をつかされているのだ。
「十八になったばかりとのことですが、移送にも耐えましたし、身体は丈夫かと存じます。」
騎士の言いように、ぶわりと冷や汗が浮かぶ。
超重要人物について、家畜の説明のように言わないでほしい。もしこれで青年がお気持ちを害されたらどうするのだ。
父が世間へ誇れる仕事をしていないことは知っていた。
兄も同じ道を進み、いずれは家を継ぐことになっている。
ただ、二人とも私には甘かった。剣や魔法に興味を示せば教師を呼び、書物が欲しいと言えば書庫を増やし、庭で身体を鍛えていても、元気があってよろしいと笑っていた。
そのため私も、家族としての好意と、家業に対する感想を別々の場所へしまい込み、悪事には関わらずに生きてきたつもりだ。
人の恨みは買いたくない。
将来、背後から刺される心配をしながら暮らすのも嫌だ。
そして二十歳になった今、そろそろ家とは無関係な場所で生活する方法を真面目に考えようとしていた矢先、父から破滅の種を贈られてしまったのである。
家業に関する指導や実習をやんわり避けていることを憂えたのかもしれないが、これは酷い。
手枷と首輪を付けられた青年を贈り物に選ぶ親がどこにいる。
組んだ腕を解き、額に滲んだ汗をそっと拭った。
しかし、まだ間に合うはずだ。私は彼に何もしていない。
今ここで敵意がないと伝え、適切な食事と寝床を用意し、頃合いを見て安全な場所へ逃がせばいい。
少なくとも、三年間の虐待を理由に、私が復讐の対象となることは避けられるはずだ。
「下がりなさい。少し性能を確認したいの。」
口にしてから、性能とは何だと自分で若干引いた。
けれど、家の者たちに怪しまれないよう、それらしい令嬢を演じてきた成果か、台詞も声音もなかなか様になっていた。
騎士は首輪の鎖へ目を落とし、ためらうように口を開く。
「しかし、拘束はしておりますが、万が一ということも――」
「あら。それなら、あなたが代わりに実験体になる?」
騎士の顔が真っ青になった。
彼は深く頭を下げると、鎖の端を床へ置き、逃げるように部屋を辞していく。
その素早さに少し傷つきながらも、私は扉へ忍び足で近づき、耳を当てた。
足音が遠ざかり、廊下が静かになったことを確認してから、今度は壁際の戸棚へ急ぐ。
確か、ここへしまったはずだ。
父から贈られた際、使い道について説明され、絶対に一生使うものかと決意した魔道具。
装飾のある箱を幾つか開け、ようやく黒い石をはめ込んだ銀色の台座を見つけたところで、背後からか細い声がした。
「まさか、僕を拷問するおつもりですか……?」
「しょ、少々お待ちください。」
焦りすぎてどもってしまった。
いや、この台詞も拷問の準備を待てと言っているように取れないか、と一瞬後悔するも、とにもかくにも、まずは外へ声が漏れないようにするのが先だ。
以前聞いた説明を思い出し、台座の側面へ指を滑らせて魔力を流す。
石が一度淡く光り、窓の外から聞こえていた鳥の声が、ふっと途切れた。
遮音の魔道具だ。
拷問の際に悲鳴を室外へ漏らさないためのものだという。
こうして実際に使ってみると、父の贈り物の趣味の悪さが身に染みた。
「よし。」
私は小さく頷くと、青年の前へ歩み寄った。
こちらを見上げる赤い瞳が揺れ、細い喉が動く。
こういうのは何事も勢いが大切である。
私は大きく息を吸って、両手を挙げた。
「申し訳ございませんでしたぁああ!!!」
倒れ込む勢いで膝を折り、両手をつき、そのまま額を床へ下ろした。
ごつん、と鈍い音が響く。
絨毯があるから大丈夫だろうと思っていたのに、想像以上に痛かった。
それでも顔は上げず、私は用意していた言葉を一息に吐き出した。
「これまで大変失礼いたしました! 父、並びに家門の者たちの貴殿への扱い及び発言につきまして、深く深くお詫び申し上げます!! 直ちにとは参りませんが、必ず安全に脱出していただけるよう、わたくし、最大限努力いたします! あなたを害する意思は、一切、これっぽっちも、塵ほどにもございません! お見苦しい点の多い拙宅ではございますが、こちらにいらっしゃる間はご不便をお掛けしないよう努めますので、どうか、何卒、何卒、その、寛大なるご慈悲を!!!」
最後だけ本音がはみ出したが、おおむね言えた。
額が痛い。
私は呼吸を整えながら、頭上の返事を待った。
戸惑わせただろうとは思うが、少なくとも、これから暴力を振るう女の姿には見えなかったはずだ。
すると、ふっと空気が漏れるような音がした。
泣いているのかと思って顔を上げたが、違った。
青年は私を見下ろし、口元を歪めていた。
先ほどまでの怯えは消え、赤い瞳には、面白いものを見つけたような光が宿っている。
「なるほど。様子がおかしいと思ったら、転生者か。しかも原作、読んだの?」
「……はい?」
「俺、原作者ね。」
膝をついたまま、私は固まった。
原作者。
原作者とは、物語を描いた人間のことのはずだ。
言葉を頭の中で何度も転がし、ようやく意味がつながる。
つまり、目の前の青年も前世の記憶がある転生者。
しかも、あの漫画を描いた本人だというのか。
「そ、それでは、貴方様もご転生なされたと?」
「そう。ちょっと前に思い出してさ。自分の作品に転生って、普通有り得ないよな。」
青年はそう言って口の端を上げると、妙に感慨深そうに室内を見回した。
その横顔を見つめながら、私はようやく肩の力を抜く。
これは、なんという幸運だろう。
先ほどの絶望から一気に解放された気分で、思わず表情まで緩んだ。
同じ世界から来た者同士なら、話が通じる。
彼だって、わざわざ苦しい目に遭いたいとは思わないだろう。
筋書きを知る二人で協力すれば、面倒な未来を避けるのもまったく難しくない。
彼にはここから逃げて好きに生きていただいて、私は当初の予定どおり早々にこの家を出て、物語の主軸を離れた地で暮らす。
頭の中で勝利のファンファーレが鳴り響いた。
私は脳内に明るい展望を浮かべたまま、少々弾んだ声で言葉を紡いだ。
「では、原作の展開は回避するということで、是非ご協力を――」
「いや、それは無理。俺は原作ルートを目指すから。」
身体が固まる。抜けかけた力が、変な形で戻った。
「……今、何と?」
「原作どおりがいいって言ってるんだよ。せっかくここまで来たんだし。」
ノエルはそう言いながら、後ろへ回していた両腕を前へ持ってきた。
手首を縛っていたはずの金属の輪が、乾いた音を立てて床へ落ちる。続いて首輪へ指を掛けると、それもあっさり外れた。
拘束用の魔道具だったはずのものを絨毯へ放り、彼は肩を回してから立ち上がる。
「記憶が戻ったときに、魔法も何となく分かるようになってさ。終盤で使えるようになるはずの魔法が、もう今使えるんだよね。これって転生特典ってやつかな?」
私は床に落ちた首輪と、自由になった彼を交互に見た。
ノエルは床に座り込む私を置いて、近くの椅子へ腰掛けると、背もたれへ気楽に身体を預ける。
その態度は、捕虜というより、招かれた先でようやく上着を脱いだ客のようだった。
「……逃げられるなら、なぜ捕まったんですか?」
「だって、ロゼリアに会えるじゃん。」
「無事会えましたね。では、お帰りいただけますか。」
「帰らないよ。ここからが本番なんだからさ。」
即答だった。
私はまだ床で正座していた。
久しぶりの正座にそろそろ足は痺れ始めていたが、話の方向が不穏すぎて、立つに立てない。
「俺、ロゼリアのキャラデザかなり気に入っててさ。顔も髪も目も、全部好みで描いたんだよね。何作か描いたけど、ここに来られて本当によかった。」
「……しかし、原作どおりならあなたはこれから大変な目に遭われますが。」
「別にいいよ。痛覚は切れるし、何かあれば魔法もあるし。三年後にはここを出て、王位も手に入る。今さら途中で物語を変えなくてもいいだろ。」
まるで、行程の決まった旅行について話しているようだった。
宿泊先も食事も観光場所も、すべて予約済みだから気楽に楽しめばよい。彼の口ぶりからは、そんな余裕しか感じられない。
ただし、その旅程には私の破滅が組み込まれている。
「……あ、あの、その後、私を捕まえる部分については?」
「いやいや、そこを抜いたら意味ないじゃん。一番大切な部分でしょ。」
「……げ、原作どおりに、あれやこれやをなさりたいと。わたくしに。」
「最高に自分好みの女を好き勝手できる将来が約束されてて、わざわざ止まる男はいないよね。いやー、すごいね、そのまんま三次元化だ。」
ノエルは私の強張った表情を横目で見て、また笑った。
そういう反応をするところまで、楽しみに含まれているらしかった。なんという人間性だろう。
「原作では受けを狙って、かなり痴女っぽい奔放な性格にしたんだけどさ。実際、俺は初心な方が好きなんだよね。あんた、結構真面目そうじゃん。」
こめかみの辺りが、ぴくりと動いた。
「中身は違っても、その容姿なら全然ありだな。むしろ、自分にだけ従うようになったら――」
「おい、いい加減にしろよ、クソガキが。」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ノエルの言葉が止まり、赤い瞳がこちらへ向く。
私はゆっくりと立ち上がった。
額はまだ痛かったし、足は正直痺れていたが、そんなことはどうでもよかった。
命乞いをすれば済む話だと思っていた自分の見通しの甘さと、目の前で好き勝手に妄想を語る男への怒りが、腹の底で煮えている。
「さっきから黙って聞いていれば。ああ? お前は厨二病の非モテ童貞か。気色悪い妄想を撒き散らしやがって。恥を知れ、恥を。」
「い、いや、だから、この世界はそういう話なわけで。」
「煩悩に塗れた強欲な人間よ。」
彼の鼻先へ、人差し指を突きつけた。ノエルは背もたれへ少し身を引き、まじまじと私を見る。
「……ロゼリア、そんな喋り方しないんだけど。」
「私の口は私が動かしてるんだよ。」
私の前世は、禅寺の娘である。
幼い頃から掃除や手伝いに駆り出され、坐禅や読経にも親しみ、近所の道場で空手を続けていた。
二十代後半で亡くなるまで、会社勤めと実家の用事を行き来する生活だった。
確かに、人へ偉そうに教えを説けるほど修行を積んだ身ではない。
しかし、この男に今必要なのが、王位でも権力でも、好き勝手にできる女でもないことくらいは分かる。
「煩悩に憑りつかれ四苦八苦し、救いを待つ青年よ。涅槃を得るために修行の道に向かうのだ!」
「……意味分かんないんだけど。」
「早寝早起き、清掃、適度な運動、瞑想、そしてバランスの良い食事。」
「いや、これ成人向けの――」
「違う。少年向け修行青春ものに変わった。」
ノエルは口を半開きにした。想定外の台詞に二の句も継げないらしい。
その顔を見て、私は少しだけ溜飲を下げた。
「何でも自分の思いどおりになると思うなよ、原作者。三年間、私の用意する生活と修行に付き合ってもらうわよ。」
「さ、三年間?」
「もちろん、その間あなたには誰にも手出しはさせない。その代わり、私にも他人にも勝手に危害を加えないで。」
青年がぐっと眉を顰めた。
「……それで、三年後は?」
「その頃には、さっきの自分の発言を思い出して布団の中で転げ回るようにしてやる。」
「何それ。俺にメリットないんだけど。」
ノエルは眉を寄せたが、その表情に強い拒絶はなかった。
こちらを眺めながら考え込む様子は、見慣れない遊び道具を前に、試してみるか迷っているようでもある。
私は彼の目を見据え、もう一言付け加えた。
「同意しないなら、私、死ぬわよ。」
彼の口元から笑みが消えた。
背もたれに預けていた身体がわずかに起き、視線が私の顔へ据わる。
本当に死ぬつもりなど露ほどもなかったが、どうやら脅しとしては十分効くらしい。
青年がようやく話を聞く顔になったので、私は腕を組んだ。
「さすがにこの世界にも、死者蘇生魔法はないものね。さて、どうする? ロゼリアはあなたの最高に好みの女なんでしょ?」
ノエルは眉を顰め、しばらく私を見つめていたが、やがてふっと笑った。
「……まあ、すぐさま寝所に入るのも面白味がないしな。いいよ、三年間、お遊びに付き合ってやるよ。将来の可愛いペットからのお願いだしね。」
「多分その言葉、後で思い出してのたうち回ることになるわよ。」
「三年くらいで俺が変わるとは思えないけど。」
「……ええ。楽しみね。」
にっこり笑うと、彼も面白そうに笑い返した。
いいだろう。やってやる。
こちらもできるだけ早く逃亡資金を貯め、いざとなれば国外へ出られる準備をするつもりだ。
身の安全をこの男の改心だけに預けるほど、私は信心深くない。




