捧げる祈り
三日間しっかりと体を休め、青年は仕事に戻りました。すっかりと体調は回復し、足の痛みも消えていました。いつもより早く仕事場へ向かい、掃除をし、迷惑をかけてしまった仕事仲間に頭を下げます。皆が無理をするなと声をかけてくれ、青年はこの場所で働くことができてよかった、と感じました。
王宮の昼食を作り終えると、青年は守主の食事を抱えて急いで塔に向かいます。今日はいつもより雪がたくさん降って、風も強く厳しい寒さでした。けれど、いつもよりも足の痛みは感じませんでした。
塔に着くと、まずは食事を包む布の雪を念入りに払い、自分に積もった雪は簡単に払います。そうしてから、階段を上りはじめました。
とん、と、とん、と。
靴の音が響きます。階段を半分ほど上ったところで、扉が開く音がして、階段を駆け降りる足音が聞こえました。青年が顔をあげると、足音はどんどんと近付いてきます。青年がはっとして急いで階段を上ると、守主が階段の上から顔を覗かせました。青年の姿が見えると、ぎゅっと眉を寄せて厳しい、けれどほっとしたような、そんな表情をしました。
青年と目が合うと、はやく上がってこいと手招きをします。青年は慌てて階段を上りました。
「すみません、お待たせしてしいましたか」
青年が眉を下げると、守主は睨むような目つきで青年を見上げます。青年の手から盆を奪い取るようにして受け取り机に置くと、青年の冷たい手をとってきつく握り締めました。
その手は、雪で冷え切った青年のそれよりももっと冷たいものでした。
「守主さま?」
青年は驚いて、思わずその手を握り返します。守主はその両手を自分の胸のあたりに引き寄せてぐっと目を瞑りました。
泣きそうだ、と青年は感じました。
不自由な足を無理に折って膝をつき、苦しそうな守主の顔を覗きこみます。足が上手く曲がらないので不格好になってしまい、足に負担もかかりますがそうせずにはいられませんでした。
守主が食事を待ちわびていたわけではないと、青年は知っていました。
「心配をおかけして、申し訳ありません。お休みは一日だけだと言ったのに」
守主は何度も何度も頷きます。その度に、真っ白な髪が揺れます。
「治るのに時間がかかってしまいました。お医者さまに診てもらったので、もう大丈夫です」
青年は優しく、静かな声で言います。促されて、守主がそうっと目を開けました。その目は真っ赤で、今にも涙を零してしまいそうです。
青年は躊躇って、けれど守主の手をぎゅっと握り直します。
「すみません、気にかけてくださっていたのですよね」
守主はひとつゆっくりと頷くと、唇を小さく開きます。今にも言葉が溢れてきそうなのに、出てくるのは空気だけのようでした。
青年は足を引きずって一歩近付くと、いつもよりずっと近くで銀色の瞳を見つめます。よく見ると、その瞳の中には星が散りばめられたような、不思議な光が宿っていました。その色がゆらゆらと滲んでいるのを見ていたら、青年まで泣きそうになってしまいました。
「…約束、破ってしまってすみませんでした」
守主の手は冷たいまま、少しずつ熱を持ってきた青年の手を握り続けます。
「もう、約束は破りません。これからはちゃんと毎日来ます。もっともっと、美味しい食事を作ります」
右の手をそうっと解いて、守主の頬に触れます。その頬も、手と同じくらいに冷たいものでした。
本当は、こんなに慣れ慣れしく触れていい存在ではないと青年はきちんと理解していました。けれど、触れずにいることはできませんでした。
ひとりきりの小さな子どもが泣き出しそうになっているのに、それを放っておくことなどできないのです。
「泣かないでください。 …心配してくださって、ありがとうございました。とても嬉しいけれど、守主さまがつらい思いをするのは私もつらいのです」
青年が微笑むと、守主はぎゅうっときつく目を閉じて、ぱ、と開きました。その目はまだ赤みを残していましたが、涙で滲んではいませんでした。あたたかい食事を口に含んだときのように、優しく目を細めます。唇が言葉を紡ぐように動きます。
ありがとう。
そう言われた気がして、青年は目を見開きます。
そのときでした。
「うわっ」
地の底から這い上がるような轟音が鳴り響き、塔が激しく揺れはじめます。青年はとっさに守主を庇うように自分の腕の中に引き入れ、腕で頭を庇います。守主は青年と同じように膝をつき、怯えているのか青年の服をぎゅっと握りしめました。
長く、大きな揺れでした。少し治まる頃には、青年の手はうっすらと汗ばんでいました。
抱きしめてしまっていたことに気付き、慌てて体を離すと守主は目を見開いて小さく震えていました。
「大丈夫ですか」
揺れが怖かったのだろうと、青年は思いました。けれど、守主はばっと青年から離れると上を見上げます。そして、わなわなと全身を震わせました。顔からは血の気が失せ、真っ青でした。
「守主さま」
青年の声など聞こえていないかのように、守主は駆けだします。階段を駆け上っていってしまい、青年は慌てて追いかけました。
守主の様子がおかしいことが気になりました。
慌てて、と言っても、青年の足では素早く階段を上ることなどできません。手を使っても、守主の部屋に辿り着くころには守主の姿を見失ってしまいました。
どこにいるのかと視線を彷徨わせ、部屋の奥の扉が開いていることに気付きます。いつも、その扉はきちんと閉められていました。青年はその扉に向かいます。
扉の向こうには、長い長い螺旋の階段が続いていました。塔の壁に添い、ずっと上まで続いています。見上げれば、階段を駆け上っていく守主の姿が見えました。
「守主さま」
守主は一瞬立ち止まり、青年を見ました。けれど、すぐに目を逸らして階段をどんどんと上っていきます。青年はためらうことなく階段を上りはじめました。
動かない足が、ひどく邪魔でした。こんなことなら、いっそ足を切り落として魔法の力を借りた義足にしてしまえばよかった、と心から悔みます。怪我をしたときは、その方が生活に支障が出ないと知りながらそこまでの決心がつかなかったのです。
とにかく、必死に階段を上っていきます。轟音は先ほどよりも強くなったように思えます。青年は言い伝えを思い出しました。
神さまが怒って、塔を揺らしている?
それなら、守主が慌てたことに納得がいきます。守主は祈りをささげ、神さまを鎮める存在です。きっと、神の怒りを感じたのです。
それでも、青年はどうしてか不安でたまりませんでした。
祈りをささげ、塔に力を注ぐ。
今まで具体的に考えたことなどありません。青年や同僚、薬屋に菓子屋、街に住む人びと、つまり守主以外はきっとなにが行われるのかなにひとつも知りはしないのです。
それは、どれほど守主に負担がかかる行為なのでしょうか。あんな小さな子どもが耐えられることなのでしょうか。
「…行かなきゃ」
そう、強く思いました。
あたたかな食事を嬉しそうに抱える表情が、不安げな瞳が、冷たい掌が、頭にこびりついて離れないのです。
青年にとって守主は神聖な存在で、けれどとっくにそれだけではなくなっていました。
ただ、守主のあとを追って階段を這いずるように上っていきます。じくじくと足は痛みはじめます。医者からは無理はいけないと、無理をすれば完全に足が動かなくなるかもしれないと、何度も念を押されていました。けれど、今はそんなことどうでもよいのです。
塔は、不規則に揺れました。どこからか雪や風が吹きこんできて、青年のからだを冷やしていきます。熱が奪われ動きが鈍くなる手足を、必死に動かしました。
長く、まるで終わりはないのではないかと不安になるくらいの階段でした。
ようやく塔のてっぺんの広間が見えるころには、青年は息をするのも苦しいくらいでした。けれど、立ち止まることはできません。広間の入り口から、白い光が溢れているのです。
もう、傷を負った足は少しだって動きませんでした。
けれど、その足を引きずり、両手を使って、なんとか広間に辿り着きます。まばゆいほどの光に目を細めながら、守主の姿を探しました。
守主は、広間の中心に膝をついて祈りの姿をしていました。
小さなからだは青白く光を放って、真っ白な髪はふわりと舞い、輝いています。
とても神々しく、いつも見ていた守主とはまるで別人のような、そんな錯覚に陥りました。
けれど、確かに、守主なのです。
「…守主さま」
青年の声は届いてはいませんでした。守主は塔の中心からさらに上を見て、何度も何度も首を横に振っています。まるで、そこにいるだれかに、なにか言い訳をしているようにも見えました。
青年も塔の上に目をやります。そこにはだれもいませんでした。けれど、なにか、とてつもなく大きな気配を感じ、青年は守主に近付くことができません。
青年はその場に崩れ落ちるように倒れ込みました。
今にも気を失ってしまいそうなほど体力を消耗していましたが、それでも必死に顔をあげます。
守主は何度も何度も、首を横に振っては泣き出しそうな顔で声の出ない口をぱくぱくと動かしていました。青年には見えないだれかに、なにかを伝えているようでした。
「守主さま」
青年は呼びかけます。
守主は気付きません。きっと届いていないのです。
それでも、呼びかけました。時折、守主は酷くつらそうな顔をします。はあはあと、息を荒くして胸元を押さえるのです。黙って見ていることなどできません。
これが、祈りなんだろうか。
神さまに、語りかけているんだろうか。
守主が苦しみ、悲しむことが神さまの望むことなんだろうか。
違う、と青年は頭を激しく振りました。神さまは人間を憎んでいるはずです。自分を裏切った人間を許せないのです。けれど、それは守主ではありません。守主はただ、神さまを思い、だれとの関わりも断って身を捧げているだけなのに。
この塔の揺れは、轟音は、間違いなく神さまの怒りです。神さまの怒りを鎮めるのは、守主です。
あたたかい食事を喜び、美しい菓子に目を輝かせ、青年のことを心配してくれた、幼い守主です。
青年は歯を食いしばり、ほんの僅かでもいいから、と重たい体を引きずります。足に激しい痛みを感じて呻きましたが、ただ守主だけを見ていました。
必死になにかを伝えていた守主は、とうとう涙を流しはじめました。音のない声で言い募りながら、胸を押さえ、塔の上の見えないだれかを見つめ続けます。
青年にはなにも分かりませんでした。けれど、伝わってくるのです。
守主の悲しみやつらさ。
神さまのことを思う気持ち。
「守主さま!」
とうとう、声は届きました。守主は声にはっとしたように体をかたくし、青年に目を向けます。青白い光が弱まりました。銀色の瞳が零れ落ちるくらいに見開き、両手が力なく地面につきます。そして、拒むように俯くと首を横に力なく振りました。
白い髪がさらさらと揺れて、青年はどうしようもなく悲しくなります。
「そちらに、行ってもいいですか」
守主は頷きません。
「からだは、 …おからだは、大丈夫ですか、つらいのではないですか」
守主はぽろぽろと涙を零したまま顔をあげると、もう一度首を振ってみせました。青年がなんとかにじり寄ろうとすると、真っ白な手でそれを押しとどめます。
「守主さま …」
大丈夫だと、そう言われたような気がしました。
守主は再び上に向かって、祈りを捧げはじめます。青白い光が部屋中に満ちて、とうとう青年は身動き一つ取れなくなります。
守主は体が発光するほど苦しんでいるようでした。肩で荒く息をしながら、顔に脂汗を浮かべて、涙を流しながら、それでも神さまに祈っているのです。いつかの人間の裏切りの許しを請っているのです。
塔が激しく揺れました。
耳が痛くなるくらいの轟音に、青年は顔をしかめます。
守主さま。
そう自分が呼んでいる声すら聞こえなくなります。それでも青年は呼び続けました。




